許されるテロと許されないテロ
安倍晋三元総理大臣が死んだ。選挙遊説中に狙撃されて病院に搬送されたが、助からなかった。
謹んでご冥福を祈りたい 合掌
昨日18時頃、ネットを見ていると安倍晋三死亡の文字が目に飛び込んできた。一瞬、真実なのかデマなのかの判断がつかず、次々とニュースサイトを検索した。そして普段あまり見ないテレビのニュースも見て、安倍氏は本当に死んだのだとやっと納得した。
それにしても何とあっけなく死んでしまったのだろうか。そう思いながら、複雑な心境を整理できないままでいる。白昼に行われた大胆なテロ行為。犯人は41歳の元自衛官で、動機には宗教問題が絡んでいるらしいとのことだが、詳しいことはまだはっきりしない。
いずれ捜査が進み、動機が明確にならないことには、この事件にコメントすることは僭越すぎるというものだろう。但し、改めてテロというものを考えてみるきっかけになったのではないか、ぼくはそう思った。
事件後、岸田首相はじめ多くの政治家がコメントしたが、そのほとんど全てが、民主主義への挑戦であり、いかなることがあっても暴力を行使することは断じて許されるものではない、という内容で一致していた。
確かにその通りである。この事件に関しては、犯人に同情の余地はない。法律で厳しく断罪されるべきだ。しかし、違う状況においても、全てのテロが許されないのか、となると話は違ってくる。
例えば、理不尽な暴力に対して暴力以外に対抗する手段を有しない場合はどうなるか?つまり正当防衛が成立する状況における暴力行為は許されるのか許されないのか、という深刻な問題を抜きにして、すべてのテロは許されないという論理は、果たして正当性を持つかどうか。
現代という暴力的な時代において、我々は、その具体例を数多く挙げることができる。イスラエルのパレスチナ問題。中共によるチベット族とウイグル族問題。ミャンマーのロヒンギャ族問題。
いずれの問題も抑圧者側が一方的に被抑圧者に暴力を加えるという構造だ。このような状況において、被抑圧者の対抗手段としての暴力は許されないのだろうか。何の非もない人々が無抵抗のまま殺されるのを認めることができるだろうか?
そうではないだろう。このような切羽詰まった状況の中では、被抑圧者の暴力は、あくまでも非常手段として容認せざるを得ないのではないか。ただ問題は、多くの場合、抑圧者の力があまりにも強大すぎて、被抑圧者は抵抗したくてもできない状況に置かれているという厳しい現実があるということだ。
被抑圧者にとって現実は非常に厳しいものがあるが、ここで確認しなければならないことは、正当防衛が成立する範囲内での自衛のための暴力は容認できる、ということである。そうでなければこの世界から正義という言葉は消えてしまうだろう。
もう一つ考えたいことは、間接的テロという概念だ。どういう意味かというと、物理的に直接的な暴力を使うわけではないが、ある力が人々の生活に影響を及ぼして人々を苦しめるに至るという種類のテロのことを言う。この種のテロは政治的性格が顕著である。
例えば間違った経済政策が人々の収入を減らし、生活困窮者が増え、自殺に追い込まれる人々が増える、という現象は明らかに政治による間接的テロだ。
翻って考えてみると、我が国は自民党の間違った経済政策で30年近くも経済成長しない国になってしまった。長年にわたる経済失策で低所得者層は大きな打撃を受けて苦しんでいる。生活苦が原因で自殺に追い込まれた人々は政治の間接的テロの犠牲者である。
政治による間接的テロは許せるか、許せないか。当然許せるはずがない。許したら政治が主権者である国民を苦しめても良いと認めることになる。
安倍政権は7年8ヶ月も続いた。鳴り物入りのアベノミクスは失敗だった。7年8ヶ月を費やしても日本はデフレから脱却できず経済は成長していない。経済の失敗だけではない。安倍政権は政治的腐敗も甚だしいものがあった。公文書の捏造、隠蔽、廃棄処分。行政の劣化、嘘の蔓延。
「戦後レジュームからの脱却」「北方4島の返還」「拉致被害者の全員帰国」他にも揚げたアドバルーンは数多くあるが、何ひとつ実現していない。ぼくは当ブログで安倍晋三を戦後最悪の政治家であるとずっと批判してきた。
安倍氏が亡くなった今も、その考えに変化はない。安倍晋三は今でも、ぼくの目には戦後最悪の政治家としか映らない。
安倍氏を銃殺した男のテロを許すことはできないが、同時に安倍政権が国民に与えた間接的テロを認めるわけにはいかないのである。