武士道と桜
桜は武士道の象徴である。その真の意味を中国から日本に帰化した張陽氏が明快に解説する。
桜の花はぱっと咲いてぱっと散る。他の花と違い、萎れて散るのではない。満開の美しい姿のままいっきに散っていく。
この桜の花心と武士道の精神は同じだと、ある時、張陽氏は悟ったという。氏の話を聴いて、鈍器で頭をガツーンと打たれる思いがした。と言うのには訳がある。ぼくは長い間、本土で暮らしていた。東京での生活が一番長いが、京都府、長野県で暮らしたこともあった。
何処にいても、満開の桜に感動したものである。哲学堂、上野公園、四谷駅、世田谷の桜新町通り、他東京の至る所。それから京都の丸山公園、嵐山。そして長野県の高遠。
ただし、咲いている期間は切ないほどに短い。だから満開の日は休みの日と重なるだろうか、と毎年ハラハラしていたのを覚えている。
そして雨が降らないようにと心の中で念じていた。しかし、人間の勝手な思念を嘲笑うように、桜は壮麗に咲き誇り、最高潮に達した時、惜しげもなく花嵐となって余韻さへ残さずに散っていくのである。
この潔さにぼくはひとり狂気を楽しんだ。そしてもう一つの演目、武士道。三十代の頃に読んだ三島由紀夫の『葉隠入門』に感激し、促されるようにして山本朝常の『葉隠』を紐解いた。
しかし、ぼくの中で桜と武士道が結びつくことはなかった。日本特有の文化であるとの認識はあるが、直接関連づけて考えることはなかったのである。
張陽氏の話を聴いて、頭をガツーンと打たれる思いがしたと言ったのは、そういう意味である。ぼくは桜も武士道も好きである。だから張陽氏の悟りは、ぼくにとっては最高の贈り物になった。
他人のために自分を犠牲にする精神
これほどに高潔な精神が他にあるだろうか。ぼくも含めてだが、日本人はもっと自信を持った方が良い。たとえ落ちぶれた現代日本人とはいへ、この高潔な精神は我々の中に潜在意識として存在しているのだ。
この精神がハッキリ見える形で表に現れた時、世界は再び日本人の高潔な精神に驚愕するであろう。張陽氏に心から感謝したい。
満開の 艶と香りを 顧みず 仁義の風に 散る大和花 張陽
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