沖縄よ! 群星むりぶし日記

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大西つねきの「命の選別」発言が投げかけた問題を改めて考える

2日前のブログで、ぼくは大西つねき氏の「命の選別」発言に対して「れいわ新選組」が下した除籍処分は正当であると評価した。しかし、大西氏の記者会見を視聴して考えが変わった。その後、大西氏の公式サイトに載った記者会見全文を読んで、自分が下した評価があまりにも短兵急であり、思慮不足だったと反省している。

その意味で当然、新選組の除籍処分は不当だったと思う。もっと時間をかけて深く掘り下げて議論すべきではなかったのか。それほど大西氏が投げた問題は、今を生きる日本人全員にとって巨大且つ深刻であり、容易に正解が得られるような生やさしいものではないのである。

新選組の構成メンバー各人が、大西氏の真意を理解できたら、処分問題は起きなかったのではないかと思うと残念でならない。新選組にとって大きな損失であり、取り返しの効かない痛手になってしまった。大西氏の公式サイトから重要と思われる箇所を引用させて頂く。

(全文はこちら)https://www.tsune0024.jp/blog/7-17

「私は、どうしても何らかの方策が必要なのであれば、高齢になれば死が近づくという自然の摂理にしたがって考えるべきではないか、と言っています。勿論これはただ年齢で分けるような単純な話ではなく、むしろ間違った財源論の問題を解決すれば、年金も十分払えるわけですから、好きなだけ健康で長生きしていただいて、最後に病気になられた時に、何がなんでも延命を続けるのではなく、医師のアドバイスに基づいて延命中止のための何らかのルールを作るなど、最後の出口を少しだけ緩めるということです。今はまずは延命措置が必要ですからご本人の意思がわからないままご家族がその責を負ったり、ご家族同士が一致しなかったり、無理な延命で尊厳を失ったりと、すでに色々な問題があるはずです。それを少しだけ、自然の摂理にしたがって緩和する必要があるのではないか、という話です。」

実を言うと、「命の選別」発言が問題になっている最中、ぼくの姉が15日に亡くなった。脳溢血で倒れてから3年半近く、病院で寝たきり状態だった。鼻から胃に達するビニールパイプを通して与えられる流動食。目は瞬きはするが、言葉を発することはなく、ぼくが誰か認識する力もない。手を握ると顔の表情にわずかな変化は見られるものの、どのような意識状態でいるのか、どのような感情を抱いているのかは、まったく不明である。改善の可能性はゼロ。

月に1,2度バスに乗って見舞に行く生活が3年半近く続いた。その間、ぼくの頭をよぎった言葉は安楽死である。寝たきりでコミュニケーションも取れない姉の存在は、ぼくにとって重い負担だった。関係する人々にも負担はかかる。しかし、我が国に安楽死の制度はない。不条理だと思う。

姉が亡くなり、無事葬儀を済ませた昨日は解放された気持ちでいっぱいだった。涙が出るほどの悲しみはなく、むしろ解放された感覚だけが残った。だから大西氏の考え方はよく理解できるし共鳴できるのである。

ただ誤解しないでいただきたいのは、これは船後靖彦議員や木村英子議員には当てはまらないということ。難病患者と重度障害者ではあっても、お二人は認識力がありコミュニケーションが取れる。船後議員の意識活動は活発であり、木村議員も勢力的に発信している。その点、健常者と少しも変わるところはない。大西氏も身体障害者に言及しているわけではないので、この点に関しては、新選組のメンバーに誤解があったのではないかと危惧せざるを得ない。

そして大西氏はコロナ政策に対する政治家の役割について、次のように語っている。

「例えばご心配なご高齢者には外出を控えていただき、生活に必要なスーパーなどでのご高齢者タイムゾーンを設ける、高齢者施設の対策を強化するなどしてその他は通常の生活様式に戻すというような案は考えられないでしょうか?

それによって、確かに感染者数も増え、結果的にご高齢の死亡者数は増えるかもしれません。それは命の選別だからダメだと言われるかもしれません。しかし、このまま行けば、膨大な数の経営破たんと失業者を生み、もしかしたらその中で失われてしまう命は「新しい生活様式」によって選別されていないのでしょうか?また、仮に死を迎えなくても、子供たちを始め、今を大切に生きる人たちの時間も命です。その人たちの時間の過ごし方も命の問題ではないのでしょうか?

私が「政治家が命を選別しなければならない」と思わず言ってしまったのは、このように命の選別になりかねない考えも恐れず発言し、場合によってはそれに賛同する人々の負託を受けて、代理人とし実行する仕事であるということです。

それを政治家が尻込みしていて、他に誰ができるのか、という話です。」

その場しのぎに終始する安倍内閣に対する痛烈な批判であると同時に、現実的な具体案を実行に移す時に生じる負に対する批判を、政治家は恐れてはいけないという覚悟を語っている。

これは誤解を招きやすい非常に微妙な、且つ深刻な問題である。理想という大きな壁が立ちはだかっている。理想は誰にとっての理想であるか?人間全体にとって同一の理想が存在するはずもなく、あるのは現実だけではないのか?

現実だけが存在するとしても、それは複雑極まる構造をしている。一人ひとりの性格が違うように、社会も複雑な要素が入り混じり絡み合っている。それを丁寧に解きほぐしながら、問題の所在を明らかにして、現実的解決を図ろうとすれば、必ず救いの手から漏れ落ちる犠牲者が出る覚悟が必要だ。

それが「命の選別」となる場合、政治家の他に誰が決断をくだせるか、と大西氏は言う。確かにその通りだと思うが、しかし心は鉛のように重い。理想という夢を諦める必要があるのか。現実は何と冷酷であることか。

あなたは生きているだけで価値がある、誰一人取り残さない。この「れいわ新選組」が掲げる理想が現実の巨大な壁の前で霞んでしまう。

山本太郎代表は、結論を急ぎ過ぎたのではないだろうか?もっと時間をかけて丁寧に議論を進めるべきではなかっただろうか。大西氏が提起した「命の選別」は、日本の将来にとってそれほど重要な問いかけであり、議論百出して良いほどの価値ある課題である。

新選組は、大西つねきという非常に優秀な人材を、一瞬にして失ってしまった。あまりにも悔しい限りだ。

 

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