沖縄よ! 群星むりぶし日記

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平然と嘘をつく小池百合子の野望 2

大風呂敷で平気で嘘をつく(朝堂院)小池勇二郎がその娘・小池百合子に与えた影響はどのようなものだったか、を知るためには、彼女の発言・行動を見ていくしかない。

この点に重点を置きながら、昨日に続き『女帝小池百合子』から引用させていただく。

「彼女は中東の厳しい国際政治を肌感覚で学びながら勉学に勤しみ、難関として知られる国立カイロ大学を日本人女性として初めて卒業する快挙をなした、と繰り返し語ってきた。一九七一年九月前後にエジプトへ渡り、初めの一年間はカイロ・アメリカン大学東洋学科でアラビア語を学び、翌年の一九七二年十月にカイロ大学文学部社会学科に入学。留年せず四年間で同大学を卒業した日本人は自分が初めてであり、「首席」だったとも。

しかし、学生数は十万人、エジプト人でも四人に一人は留年するという大学で、そんなことがあり得るのだろうか。私にはとても信じられなかった。進級試験にパスして卒業が決まった時には、嬉しくて記念にピラミッドに登り、頂上でキモノを着てお茶を立てたと語り、その時に撮ったとされる写真も、彼女の意志で広くマスコミに公開されてきた。まるで卒業を証明する物証であるかのように。」(60頁〜61頁)

「日本人初のカイロ大学卒業生として知られる小笠原良治大東文化大学名誉教授は、アラビア語を日本で学んでからカイロに行き、ムスリムだけが入れる寮でアラブの学生たちと寝食をともにしながら二年間、一心不乱に勉強した後、カイロ大学に入学したという。日本人留学生では群を抜く語学力だったというが、その小笠原でもカイロ大学では留年を繰り返し、卒業までに七年を要したという。

アラビア語の口語すら話せなかった小池が、文語をマスターして同大学を四年間で卒業する。そんなことは「奇跡」だと嫌味を込めて語る人は少なくない。」(62頁)

「二〇一八年二月、一通の手紙が『文藝春秋』編集部気付で私宛てに親展で届いた。私の記事を読んだという読者からの手紙。自分の知る全てを打ち明けたいとある。それは、まさに私が探し続けていた、あの同居女性からの手紙だったのだ。(略)彼女の名前を本書では早川玲子(仮名)とする。彼女との出会いによって、私は、私の想像をはるかに超える、多くの事実を知り得ることになるのだった。私はすぐに早川さんに連絡を取り、カイロまで会いに行った。早川さんとの面会を重ね、当時の手帳、メモ、早川さんがカイロから日本にいる母親に宛てて書き送った航空便の手紙、小池から譲られたタイプライターやヒルトンホテルのナイフやフォークに至るまで、すべてを譲り受けた。」(68頁〜69頁)

「それにしても、これからカイロ大学に入学するというのに、こんなに勉強しないで大丈夫なのか。早川さんのほうが心配になった。というのも他の日本人学生たちが、いかに必死に勉強しているかを知っていたからだ。皆、難解なアラビア語にかじりついて格闘していた。遠回しに早川さんは「勉強しないでも平気なの?」と尋ねたが、小池から帰ってくる言葉はいつも一緒だった。「いいの。だって、お父さんが、ドクター・ハーテムにカイロ大学に入れるように頼んでくれているから。それを待っていればいいの」」(78頁)

そんな中、父・勇二郎がカイロにやって来る。宿はナイル・ヒルトンホテル。百合子は父親に会いに行く。

「するとある日、白い大きな巾着袋のようなものを手に提げて、アパートに帰ってきた。小池はその巾着袋をテーブルの上に置くと、早川さんの眼をじっと見つめながら、無言で巾着の口を握っていた手を離した。ガチャガチャと音を立てて巾着は四方に広がった。

中から現れたのは、コーヒーカップ、皿、ナイフ、フォーク、シュガーポット・・・・。すべてにヒルトンのロゴが入っていた。白い巾着はテーブルクロスだと分かった。父親とルームサービスを取り食器をテーブルクロスごと包んで、丸々、持ってきたのだと、小池は悪びれることなく早川さんに告げた。(略)その後も小池は、ヒルトンに泊まる父親に会いに行くたびに何かを必ず持ち帰ってきた。早川さんは、次第にお茶目でやっているとは思えなくなった。ヒルトンのハンガーは、やがてクローゼットに入りきらなくなった。」(78頁〜79頁)

「そんな毎日が続く中で、その大きなニュースは飛び込んできた。小池のカイロ大学入学がついに実現したのである。しかも、父親がハーテムに頼んだ結果、来年の十月から二年生に編入できることになったというのだ。小池はとても喜び、早川さんにこう話した。『関西学院大学に通っていた数カ月と、カイロ・アメリカン大学に通っていた数カ月を足して一年生を免除してもらったの。学費もかからないし奨学金だってもらえる』」(85頁)

しかし、七十六年の進級試験で小池は落第する。ひどく落ち込んだ様子だったという。

「小池が進級試験に落ちてからも、早川さんとの同居生活は続いていた。一九七六年九月下旬のある日のことだった。小池は興奮した様子でアパートに戻って来ると早川さんにこう訴えた。『父から連絡があったの。「サダト大統領夫人が来日することになったから、とにかく急いで日本に帰って来い」って。時間がない。早くお金を集めないと』」(105頁)

「十月十日前後、日本に戻った彼女は、積極的にマスコミに近づき自分をとり上げさせた。「カイロ大学を卒業した初めての日本人女性」に新聞記者は疑うことなく飛びついた。カイロ大卒というインパクトは大きかった。新聞だけでなく、ラジオ、テレビにも、小池は次々と出演し「カイロ大学卒、初の日本人女性」と売り込んだ。小池のことを知っているカイロ支局赴任経験のある、すでに帰国していた新聞記者たちも売り込みに協力したようである。」(107頁)

一九七六年十月二十二日の「サンケイ新聞」の記事。

「二十五日に、”世界のファーストレディー”の一人、エジプト大統領夫人、ジハンさんが来日する。その夫人に影のごとく付き添ってエスコートするコンパニオンは、アラビア語ができて、優雅な女性で、エジプトをよく知る人。そんなむずかしい条件にピッタリの女性がみつかった。この人、関西のお嬢さんで、小池百合子さん(二十四)。女ひとり四年間、エジプトのカイロ大学に学び、日本人女性としては初めて同大学で学士号を獲得。ちょうど十月十一日に帰国したばかりだ。在学中、大統領夫人の長女とクラスメートで、夫人とも面識があり、まさにうってつけの適役だ」(107頁〜108頁)

「小池は日本社会の、とりわけ日本のメディアの甘さを、この時、はっきりと感じ取ったことだろう。大抵の嘘は見抜かれない、ということを。自分が語ることをそのまま信じて活字にしてくれる男の記者たち。相手が何を喜ぶか、どんな話題を欲しがっているかを考え投げてやればいいだけだった。新聞で活字になれば、それは事実として世間に認定される。新聞記者はあまりにも騙しやすかった。」(110頁)

「約一ヶ月間を日本で過ごした百合子は、十一月になると意気揚々とカイロに戻ってきた。アパートで迎えた早川さんは、わずかな期間で別人のように変わった小池を見て驚いた。まるで「自分の人生を暗くするものは、もう何もない」とでも言いたげな晴れやかで自信に満ち溢れた表情。試験に落ちた直後の彼女とは、まるで人が違って見えた。すると小池は嬉しそうにスーツケースから新聞を取り出すと早川さんに見せた。顔写真つきで小池が紹介されていた。

早川さんは読み進めて思わず声をあげた。「百合子さん、これって・・・」見上げると小池の視線とぶつかった。驚く早川さんを見て、小池はいかにも楽しそうに微笑んでいた。そんな小池を目の当たりにして、早川さんはさらに当惑した。「百合子さん、そういうことにしちゃったの?」小池は少しも悪びれずに答えた。「うん」」(110頁〜111頁)

「「あのね。私、日本に帰ったら本を書くつもり。でも、そこに早川さんのことは書かない。ごめんね。だって、バレちゃうからね」早川さんが黙っていると、小池は身体を寄せて、下から早川さんの眼を覗き込んで来た。「いい?」

早川さんは頷くよりなかった。翌日、小池は日本に向けて旅立っていった。」(112頁)

以上要点を取り上げて引用してきたが、小池勇二郎と娘・百合子との間には、誰の目にも明らかな共通点がある。平気で嘘をつくこと、これである。父親の性格が娘に強い影響を与えたのはほぼ間違いない。

小池百合子の言動を見れば明らかである。そして、父親と娘の相違点にも注目する必要があるだろう。それは、勇二郎は余りにもあからさまな嘘をつきまくったがために、誰からも信用されず、失敗の人生を送ったのに対し、百合子の嘘は、甘い蜜で上手くカムフラージュされてマスコミを信用させたということ。

父の失敗と娘の成功。鋼と柳の枝。同じ嘘つきでも片方は折れやすく、片方は強風に吹かれてもゆらりゆらり。進級試験に落ちた小池百合子は、日本に一時帰国している間に、あっという間にマスコミの寵児となる。平然と嘘をつく無名の人間が一躍有名人になった瞬間。

この時を境にして、小池百合子の運命が大転換していく。日本のマスコミなんてチョロいもんだ、上手く立ち回ればいくらでも騙せる。父親似のこの大野心家は、勇二郎にはなかった女性独自の才能を遺憾なく発揮して、上へ上へと駆け登っていくことになる。

『女帝小池百合子』の物語はまだまだ続くが、機会があれば、また要所要所を引用させていただく。

 

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