沖縄よ! 群星むりぶし日記

沖縄を、日本を、そして掛け替えのない惑星・地球を愛する者として発信していきます。

あぶく(泡)コメンテーター・ひろゆき(西村博之)氏の子供っぽさはあまりにも見るに耐えない

西村博之(以下ひろゆき氏と呼ぶ)の言動が世間を騒がせている。わざわざ辺野古に来て、新基地建設に反対する人々が座り込んだ日数(毎日更新される)が書かれた看板を指して、「0日」と書いた方がいいんじゃない?と揶揄した。

実際は、その時点で座り込み日数は3000日を超えているが、ひろゆき氏が「0日」としたほうがいいんじゃないの、とあえて揶揄したのは、彼が現場に来た時、座り込みをする人がいなかったというのが主な理由になったらしい。つまり3000日を超えたとする反対派の算出方法に疑問を呈したということのようだ。

もしそうだとしたら、あまりにも思考が短絡的すぎて問題にすることすら馬鹿馬鹿しくなる。わずか1日だけ立ち寄っただけでは、現場がこれまで積み重ねてきた日々の重さと人々が流した汗と痛みを理解できるはずがない。

実はぼく自身、5年前の夏、5、6、7月の3ヶ月間、島ぐるみ会議がチャーターするバスで毎週水曜日に辺野古へ出かけて1日3回(その日の工事の状況次第で2回の場合もあるし、全くない時もある)工事用ゲート前で座り込みをし、その都度、若い機動隊員3名に両脇と足を抱えられるようにして、あらかじめ用意された隔離場所に移されるという経験をした。

その時の様子は、当ブログに詳しく書き留めてある。当時のことを思い起こすと、今回のひろゆき氏の行動と言葉は、あまりにも軽すぎて、呆れると同時に怒りの感情が沸々と湧き上がってくる。

ひろゆき氏は、座り込みは24時間続けるべきで、それで初めて1日としてカウントされる、とでも言いたいのだろうか? 彼の真意はよくわからないが、もしそうだとすればアホとしか言いようがない。24時間座り続けたらそのうち死んでしまうよ。その日の工事は終了し、工事用ゲートも閉まっているのに、なんで無理して座り込む必要がある? それこそナンセンスだ。

継続の意志があり、それが途切れることなく人々が現場に集う状況が続けば、立派に1日としてカウントされる。そのことになんの問題もないはずである。その日の状況次第で工事の日程も変わる。それも考慮した上で座り込みの取り組みの仕方も決まる。

ぼくが参加する以前から、そしてぼくが抜けた後も、人々は現場に集い、座り込みを続けてきた。そして現在も続いている。こうして座り込みは3000日を超えたのである。なんの不思議もなければ非難される謂れもない。むしろ過酷さを強いられる座り込みを続ける人々に対して、敬意こそ表すべきだろう。

これで終わりにするつもりだったが、あぶくのように口の軽いひろゆき氏がどうやら沖縄人そのものを軽蔑しているのではないか、という沖縄タイムスの報道を目にして、このままで終わることができなくなった。

彼はユーチューブで「沖縄の人って文法通りしゃべれない」「きれいな日本語にならない人の方が多い」などと発言したらしい。そして「もともと普天間の基地があった。周りに住宅を作っちゃった」「もともと何もなかった」とも発言している。

明らかにヘイトスピーチであり、沖縄の米軍(占領軍)基地に関して何も学習していないことを自ら証明している。ところでこの人物のいう「きれいな日本語」って、いったいどんな日本語だろうか?

東京弁?関西弁?東北弁?

日本列島にはその地域特性の伝統文化に根ざした独自の訛りを持つ言葉が数多く存在する。ひろゆき氏のいう「きれいな日本語」とはおそらく、東京を中心とする標準語を指すのだろう。彼自身が標準語を使っているからだ。

しかし、だからと言って標準語が「きれいな日本語」とは限らない。なぜなら関西弁、東北弁、その他各地の伝統文化を色濃く反映する言葉も、それ自体がれっきとした「きれいな日本語」だからだ。

沖縄には琉球語ウチナーグチ)という独自の言葉がある。それは現在も残っていて年配者の間では普通に使われている。玉城知事がよく談話の冒頭で「はいさい、ぐすーよう、ちゅううがなびら」(みなさんこんにちは)と述べる言葉も琉球語である。

翁長雄志前知事もよく琉球語を使った。玉城知事は前知事のやり方をそのまま継承したのだ。沖縄人が本土の人々(ヤマトンチュ)に対して自信を持ってきた証だ。地元の文化伝統に根ざした言葉を使って何が悪い。

しかも琉球語には日本の古代語が多く含まれる。長男を意味する嫡子という言葉は、今でも沖縄では普通に使われている。琉球語は紛れもない日本語系統に属する言語である。

ひろゆき氏は、琉球語がどのような特質を持つ言語か、学習したこともないのだろう。そんな人間が「きれいな日本語にならない人の方が多い」などとよくも言えたものだ。あまりにも軽薄で表層的すぎる。大事なのは見てくれではない。中身であり実態だ。それを把握し理解するには学習と想像力が必要とされる。

たとえひろゆき氏が会話を交わした沖縄人の言葉が、訛りの強い言葉であっても、沖縄の歴史と琉球語を多少なりとも学習していれば、彼が言わんとすることは何かと自問自答するはずである。しかし彼はそんなことはせず、想像力も働かせないままに、単に標準語と比較して沖縄人が発する言葉を異端視して軽蔑するのだ。

彼のこのような高飛車な姿勢はいったいどこからくるのだろうか? 沖縄人に対する大和人の優位性? 仮にそのようなものがあるとしたら、それはどのような性格を持つ優位性なのだろうか、とまずは問いたい。

沖縄と本土の面積差?人口差?あるいは容姿の違い?歴史と伝統文化の違い?

多くの点で違いのあることは認識できるが、大和人の優位性とは何か、といくら考えてもぼくには答えが見つからない。つまり、沖縄人と大和人の間には多くの点で違うところはあるが、実は優位性というものは実在しない、それは単なる抽象的観念でしかない。これが答えだ。

あるいは、ひろゆき氏とぼくとでは人間存在の理解の仕方が根本的に違うのかもしれない。ひろゆき氏は人間を己の価値観で測っている。自分の尺度に合わない者はできるだけ排除しようとする。異端者はそれだけで余計な存在であり、彼を理解するために必要な背景を考慮しようとはしない。これがひろゆき氏の人間理解の規範なのだろう。

しかしそこにあるのは、身勝手な排除の論理であり、これでは肝心な物事の全体性を把握することは不可能だ。ただ単に対立を煽るだけで終わってしまう恐れがある。だとするならどうすれば良いか?

簡単なことだ。結論を急ぐ前に、現地で反対派の意見を聞くことから始めるべきだった。なぜ座り込み日数が3011日になっているのか、その経緯と根拠を時間をかけて対話形式で問うべきだった。

しかし、彼がそうした形跡はない。その日その時、たまたま座り込む人がいなかったから、「0日でいいんじゃない」とツイートしたのだ。これではあまりにも配慮に欠けすぎる。これでは子供となにも変わらない。常識ある大人のやることではないだろう。

彼が辺野古にきたのは、真実を知るためではなく、あらかじめ抱いていた偏見を確認するためだった。次の言葉がそれを裏付けている。

「沖縄の人って文法通りしゃべれない」「きれいな日本語にならない人の方が多い」

最後に西村博之に言いたい。沖縄の歴史と伝統文化、そして在沖米軍(占領軍)の実態をもっと時間をかけて学習しなさい。実のあるまともな議論をしたければ、どうしても通過しなければならない必要最低限の条件である。それが真っ当な大人の取るべき礼儀というものだろう。