世界ウチナーンチュ大会と琉球独立の夢
昨日、第7回世界ウチナーンチュ大会の前夜祭パレードが午後3時から国際通りで開催されると言うので見に行った。平和通りアーケード街を抜けて国際通りに出たのは午後3時15分前だった。通りは既に多くの人で埋め尽くされている。通り沿いに立ったまま、パレードを見る気にはなれないので通りを横切って珈琲店スターバックスに入った。
これで座ったままパレードを楽しむことができる、と思いながらホットコーヒーを啜るのだが、定刻の3時を回っても始まる気配がない。すると今しがたぼくが出てきた平和通りアーケード街と国際通りの交差点に琉球独立党の大きなのぼり旗が立っているのに気づいた。
よく見ると、国際通りの両側に2本ずつ計4本ののぼり旗が正方形を描くように立っている。これにはちょっと驚いた。屋良朝助が率いる琉球独立党は解散したものとばかり思っていたからだ。のぼり旗の周りを見回したが、人が多いせいか屋良氏の姿を見ることはできなかった。
3時半を過ぎた頃、やっとパレードが始まった。するといつの間にか、どんな事情があったのかは知らないが、琉球独立党ののぼり旗は全て消えていた。狐につままれる気分でパレードを見ることになった。
てんぶす広場前から県庁に向かうパレードの先陣を切ったのは、荷台に首里城再建に使う木材(木皮を剥いだ樹木1本)を乗せたトラックだ。その後に世界各国各地域からやって来た沖縄県系の人々が続いた。記憶を辿って順不同に記すと、米国、カルフォルニア、ハワイ、カナダ、ブラジル、アルゼンチン、キューバ、ペルー、インドネシア、シンガポール、フィリピン、中国、韓国、フランス、(その他もあったはずだが思い出せない)等々。
1時間ほど続いただろうか。途中、移民1世達の辛酸を極めた体験談を思い起こしては何度か胸が熱くなった。世界各地に生活基盤を築き、定住し国籍を取得した沖縄出身の人々が、沖縄出身というただそれだけの理由で、先祖から受け継いだ文化を忘れず、子供や孫に引き継いで、こうして5年に一度の開催にやって来る。
こんなことができるのは、全国47都道府県で沖縄県だけである。それだけ沖縄は、歴史、文化、伝統、コミュニティに独自性が強い証拠である。我々は、この事実をもっと深く掘り下げて考えてみる必要があるのではないだろうか。宝の山がもっと埋もれているような気がする。
世界のウチナーンチュのネットワークを構築し、さらに絆を深めて強固なものにする。その交流の中でお互いが切磋琢磨しながら世界平和に貢献する。ウチナーンチュの世界に雄飛する気概、打たれ強さ、辛抱強さを考えると、実現可能のような気がする。
米政府と日本政府の理不尽な抑圧を跳ね返す力を蓄えることが可能のような気がする。翁長前知事の「沖縄はイデオロギーよりもアイデンティティ」という言葉は、何度も噛み締めて思い起こす必要があるだろう。
さて、話を琉球独立党に戻す。ぼくは党首の屋良朝助をよく知っている。だいぶ前、短い期間ではあったが付き合ったことがある。その経緯を話すと、1995年に起きた海兵隊員3人による沖縄の女子小学生暴行事件から始めなければならない。
東京で暮らしていたぼくは、この事件を報道で知った時、沖縄は独立すべきだろう、独立して主権国家にならなければ、米軍(占領軍)基地問題は何一つ解決できないだろう、と考えた。その時以来、機会ある度にぼくは友人、親戚に対して、ぼくは沖縄独立派だと主張してきた。そして沖縄独立に共鳴する友人の紹介で屋良氏を知ったのである。彼とぼくは沖縄独立で意気投合した。彼は既に琉球独立党の党首として活動していた。
ぼくは独立党に入党したわけではないが、ある事件がきっかけで彼とは袂を分つことになった。その事件とは2010年に起きた、中国漁船の海保巡視船への衝突事件である。この事件に対する政府(民主党政権)の対応ぶりが、全くお粗末極まりないもので、これをきっかけに中国政府の我が国に対する横暴が強くなっていった。
そしてあろうことか、中国政府は沖縄はもともと中国領だったとまで主張するようになった。何の根拠もない暴言でしかないが、そんな状況下で県内から琉球独立を主張するのは中国側に利用されるだけである。だからぼくは、今後独立を口に出すまいと決意した。屋良氏の活動とも手を切ろうと決めた。
10年ほど前、平和通りに続く大平通りにある建物の2階に、屋良氏は事務所を構えていた。ある日その事務所で、ぼくは屋良氏に対して、中国が沖縄を自国領だと主張している状況下で琉球独立の旗を掲げて公に活動するのはやめるべきだ、中国の民主化を待って、それまでは力を蓄える戦略を練ったほうが良いのではないか、と提言した。
屋良氏は明言を避けたが、ぼくの提言は受け入れなかった。これまで通り公に琉球独立党の活動を続けたのである。しかし、那覇市議会選挙や市長選に出馬したりしたが、わずかな票を獲得しただけで結果はいずれも惨敗だった。それで運動もだんだん下火になっていったようで、ぼくもいつしかその存在を忘れていた。
しかしながら不死鳥のように蘇った琉球独立党の旗。党首・屋良氏の執念には舌を巻く。ある意味尊敬する。しかし、やはりその戦略には賛成できない。これでは中国共産党が喜ぶだけである。もしかすると屋良氏は中国共産党とコネでも持っているのだろうか、と訝りたくもなる。
それでは最後にぼくの琉球独立に対する考えを簡潔に述べたい。ぼくの心から琉球独立の夢が消えたことはない。いつの日か琉球が独立できれば最高に幸せだと思う。しかし、これにはいろいろな状況判断を吟味検討する必要がある。
まず中国が民主化されて三権分立の国家体制になることが絶対条件となる。問題はそうなった時の米政府と日本政府の対応の取り方だ。中国が民主化されても、まだロシアという敵がいる等の理屈をつけて、基地駐留を続ける米政府。そして相変わらず対米従属を続ける日本政府。
もう一つ、米政府と日本政府の対応の取り方がある。それは全米軍基地の撤収と日本政府の自主防衛への政策転換だ。そうなれば琉球独立は諦めよう。日本が自立した主権国家になれば、その時こそ真の意味で、日本本土と沖縄の国家統合が完成するのだ。
いずれに転んでも、今のところは、琉球独立は見果てぬ夢にすぎない。