沖縄よ! 群星むりぶし日記

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崩れていくオール沖縄、カリスマ的政治家・翁長雄志亡き後の再建強化は困難を極めることだろう

昨日投開票された那覇市長選挙の結果は以下の通り。

投票率 47.05%(過去4番目の低さ)

翁長雄治 54,125票(立憲、共産、れいわ、社民、社大、にぬふぁぶし、推薦)

知念覚  64,165票(自民、公明、推薦)

ぼくは翁長氏に投票したが、それでも予想したのは、多分僅差で知念氏が勝つだろう、だった。予想は見事に外れて、1万40票という大差で、知念覚が新那覇市長に当選した。

今、投票結果を前にして複雑な心境に陥っている。負と正のベクトルが複雑に交差している。翁長氏の拙速な立候補表明、知念氏の行政マンとしての高い評価、オール沖縄が推薦する翁長氏、自民公明が推薦する知念氏、城間幹子市長の裏切りとも言える行為、等々の複雑な要素が絡み合って明快な答えが見つからず、スッキリした気分になれないでいる。

そこで一つの仮説を立ててみる。城間市長はオール沖縄の推薦を受けて2期市長職を務めた。その彼女がうまく調整して知念氏をオール沖縄推薦としたらどうなったか?

自民党公明党は、知念氏に対抗できるほどの人材を探すことはできない。そうなると間違いなくオール沖縄推薦の知念覚が圧勝する。本来はこの形が理想的だった。

しかし現実の結果として、オール沖縄内の調整は機能せず、自民党公明党という売国腐敗政党の参入を許してしまった。物事がままならない現実に叩きのめされる思いがする。それでもこのようなねじれ現象がなぜ起きてしまったのか、できるだけその実態を分析して全体像に肉薄しなければならない。

そのための参考資料として、今朝の沖縄タイムスWeb版と琉球新報Web版の記事は大いに参考になると思われるので、それぞれの記事を要約してみる。まず沖縄タイムスWeb版より。

知念氏の勝因

① 38年間の行政経験、7年半の副市長としての実績を前面に打ち出した

② 翁長雄治に比べて劣る知名度が、城間市長の告示直前の後継指名で一気に上がった

翁長雄志県政で副知事としてオール沖縄側に身を置いた浦崎唯昭、安慶田光男、城間市政で副市長を務めた久高将光らの支援を取り付けた

④ かつて自民党公明党と対立した金秀グループの呉屋守将会長、かりゆしグループの平良朝敬会長も支援

下地幹郎衆議院議員の支援も得る

自民党中心の事務所以外に市民有志の活動拠点をおもろまちに構え、自公に属さない支援者が集いやすい環境を整備した

翁長氏の敗因

組織力の点で知念覚側に劣った

② 城間市長の知念氏支持表明は、オール沖縄側の結束を強めたものの、知念氏の知名度アップにつながった

③ 翁長氏の辺野古新基地反対は支持につながらなかった。那覇市有権者へのアンケートでは、「経済政策」が34%と最も関心が高く、翁長氏が訴えた「辺野古の新基地建設計画への姿勢」は17%にとどまり、最大争点にはならなかった

④ 翁長氏の政治家としての5年間と、知念氏の38年間の行政経験の差が影響した

以上、沖縄タイムスの分析を見ると、翁長氏の勝てる要素はどこにもないことが理解できる。次に琉球新報Web版から引用してみよう。

当選した知念氏のプロフィール

「高校卒業後、憧れの職場だった那覇市役所に採用された。転機は2000年。故翁長雄志さんが那覇市長に初当選した際、秘書に起用された。手腕を認められ、秘書広報課長、総務部長、政策統括調整監と要職を歴任した。「先を読んで布石を打つ」など、行政運営について翁長さんから多くを学んだ。”覚を頼む”。現職の城間幹子市長は、翁長さんからそう言われ、副市長に起用した。知念さんは毎日、「この判断は市民のためになっているか」と苦悩しながら、市を「経営する」力を磨いたという。「市民生活をさらに良くするには政治の力が必要で、自らが実行すべきだ」と出馬を決めた。」

琉球新報のこの短い記事を読んでわかることは、知念覚が非常に有能な行政マンだったという事実である。当時の翁長那覇市長は、当選した際、知念氏を秘書に抜擢している。そして14年間市長職を務めた後県知事になった翁長氏は、市長職を城間幹子にバトンタッチする際、”覚を頼む”と城間市長に言い、城間氏は知念氏を副市長に起用した。知念氏は期待に見事に応えるような行政手腕を発揮した。

これらの背景がわからないと、城間市長が自分を2期支えてくれたオール沖縄を裏切ってまで知念氏を支持した理由が理解できなくなる。それほど知念氏に対する期待が大きいのだ。

今回の市長選の全体像に肉薄するために思考を進めているが、どうまとめて良いか、まるで見当がつかない。それほど複雑な要素が絡み合っているためだが、その中で気になる部分を取り上げてみたい。

城間市長は、私はもともと中道保守の立場であり、今のオール沖縄は左に偏りすぎている、知念覚を支持したことは、天国の翁長前知事も喜んでいるだろう、という内容の発言をしている。この発言から推測できるのは、翁長氏亡き後のオール沖縄は、保革統合という翁長氏の理念を超えて、革新勢力が幅を利かしすぎた、ということだろう。そして今の革新勢力の中で共産党の力が大きいことを考えるならば、城間市長の発言は暗に共産党を批判したものに違いない。

イデオロギーは腹八分六分に抑える」というのが、故翁長知事の共産党に対する牽制であり要望だった。そうでなければ保革統合の成立は難しいからである。翁長知事の中には同じウチナーンチュという想いが根底に横たわっていた。翁長氏が知事の間は、この融合策はうまく機能した節がある。翁長知事の強い郷土愛と政治的力量が大きく貢献したのは言うまでもない。

しかし、翁長知事亡き後、オール沖縄内部で革新系と保守派の間で歯車が軋み始める。その具体的な中身をぼくは知らないが、表に出てきた現象であらかた想像できる。玉城デニーが知事に就任して間も無く、オール沖縄を支えてきた金秀グループの呉屋守将会長、かりゆしグループの平良朝敬会長が相次いで離反していったのだ。

それからというものは、各市長選でオール沖縄勢は連敗する。県知事選では玉城氏が相手候補に6万票の大差をつけて当選はしたが、それは相手の佐喜真淳候補があまりにも酷い人物だったことと、辺野古移設問題が大きな争点になったことが幸いしたからだ。

玉城知事が再選されてよかったと思う反面、この4年間を振り返ると、沖縄の政治状況は決して楽観できるものではない。オール沖縄の衰退はもはや誰の目にもはっきり見えている。残念ながら今の玉城知事に翁長知事ほどのカリスマ性はない。

玉城氏の郷土愛は、翁長氏のそれと比べて決して劣るものではないが、革新系と保守派を統合するには、それだけでは十分とは言えない。卓越した指導力と見解の違うもの同士を惹きつける理念の提示、そして目的達成のために不可能を可能にする剛腕。翁長氏にはそれらの資質が備わっていた。

だから彼の政治目標である保革合同が、十分とは言えないまでも達成できたのである。玉城知事はそれらの資質が薄い。翁長県政を踏襲する形で後を引き継いだにも関わらず、保守派が次第に離れていった原因の一つはそこにあると言ってもいい。

勿論、玉城知事を批判するつもりは全くない。むしろ長引くコロナ禍の中、よく踏ん張ってくれたと思う。しかし,保革を統合する力は彼にはないのだ。保革を統合するということは、この沖縄においてさへ並大抵の力量ではできないのである。

今回の城間市長の裏切り行為は、いみじくもオール沖縄が抱える弱点を表に曝け出してしまった。お陰で知念覚を推薦して漁夫の利を得た自民党公明党は、従来以上に対米従属路線の正統性を主張するようになるだろう。

今後、沖縄の政治は大きく後退せざるを得ない。最悪の事態になれば、県が掲げる「誇りある豊かな沖縄」というヴィジョンも怪しくなってくる可能性がある。それでも絶望的な状況の中で、あえて希望を見出すとするなら、新しい那覇市長・知念氏は党派性の薄い行政マンだということを指摘したい。

願わくば、自民党公明党の推薦という枠にとらわれず、あくまでも市民党の立ち位置から県都那覇市の行政をリードしてもらいたい。幸い知念氏は、翁長前知事の子飼いと言ってもいい経歴の持ち主だ。翁長雄志の政治哲学、理念は十分すぎるほど理解しているはずである。

悪しき自民党公明党の飴と鞭という毒に汚染されず、そして流されずに、良い意味で自民党公明党の狡猾さを上まわるほどの行政手腕を発揮してもらいたい。

問題があまりにも複雑すぎるゆえに、うまくまとめることができなかったが、最後に投票率について触れたい。

投票率47.05%は過去4番目に低い数字らしい。過半数にも届かない投票率を見ると、那覇市の多くの有権者は政治に関心がないということを表している。

これは城間幹子市長の裏切りと同程度の、否それ以上に深刻な問題である。常識で考えると、過半数に満たない投票率で当選したとされても信任は成立しないはずだが、法律上は成立するらしい。この奇妙なシステムは大問題であるが、過半数を超える有権者が政治に背を向ける現実は、さらに死活的に大きな問題ではないか。

人々は今の政治システムのままでは、将来に希望を見出せないでいる。もはやなるようになれと、唾を吐くように諦めている人が多いのだ。それじゃどうすればいいのだ、ということになるが、正直のところどうしてよいかわからない。付け加えると、投票率の低さは全国的現象でもある。

ただ一つだけ言えることは、戦後長きにわたって対米従属の政治を続けてきた自民党の経済政策が、OECD諸国で唯一経済成長せず、ついに大卒初任給が韓国に追い抜かれたという事実、今現在も国家的衰退を続けているという現実が、我々国民の目の前に存在しているということである。