「賛成・反対・どちらでもない」の3択で県民投票を実施することが決まった。
与野党調整の最終段階で、自民党だけが反対して独自の3択案を提示して紛糾した。その独自案とは、「普天間飛行場の辺野古埋め立ては止むを得ない・反対・どちらでもない」というものである。
実に狡猾だ。これは政府が主張している「普天間飛行場の危険性を除去するための辺野古移設」を踏襲したものだからである。
そもそも県民投票を呼びかける声が県民の間から出てきた最大の理由は、政府の主張に整合性がないことを訴えた玉城デニー県知事候補が、政府が押す相手候補に圧倒的票差をつけて当選したにも関わらず「選挙の争点は辺野古問題だけではない」と述べた菅官房長官の県民を馬鹿にした発言に県民が怒ったことにある。
それなら辺野古の埋め立てに限って県民の意思を示そう、という呼びかけから県民投票が動き出したのだ。
その経緯をよく理解した与党が、自民党の独自案に猛反発したのは当然だろう。
このまま紛糾してもおかしくない状況の中、午後9時45分に始まった代表者会議で、ついに自民党が折れて独自案を取り下げ、議長提案を認め3択に決まった。
その知らせを受けた5市の市長はどう反応したか。
松川政則宜野湾市長「これでノーと言うのは仁義に反する」
桑江朝千夫沖縄市長「選管に(投票事務)準備を指示する」
島袋俊夫うるま市長「限りなく4択に近ければ大いに検討に値する」
下地敏彦宮古島市長「(県議会が)全会一致することが望ましい」
中山義隆石垣市長「市議会の意見を聞いてから判断したい」
文面から判断すると、松川市長と桑江市長は県議会の決定に同意したと見ることができるだろう。しかし、残る3市長は依然として態度を明確にしていない。
ということは、今朝の琉球新報の第一面の大きな見出し、「県民投票全県実施へ」は大いに疑問だ。これは明らかに県民を一定方向に誘導する見出しであり容認できない。
3市長の態度が明確でない以上、全県実施に至らない恐れだって充分考えられるからだ。琉球新報は大いに反省し、もっと謙虚な姿勢で紙面作りに取り組むべきだろう。
さて、前談はこれくらいにして、本論に入る。
まず指摘したいことは、「賛成・反対」の「2択」はダメで「賛成・反対・どちらでもない」の「3択」なら良いとする理念が、ぼくにはどうしても理解できない、ということである。
「どちらでもない」というのは、賛成でも反対でもないということであり、それならわざわざ投票所まで足を運ぶ必要はないはずである。
賛成か反対かというのは、積極的に意思表示したいことの現れだが、「どちらでもない」は消極的態度であり、ほとんど無関心に近い心理状態だ。
現実的に考えて投票率は多分7割前後だろうと思われるが、投票に行かない3割前後の中に「どちらでもない」のほとんどが含まれると想定される。
ということはつまり、「どちらでもない」を加えることに一体どれほどの意味があるか、ということになる。「賛成・反対」の2択とほとんど変わらないはずだ。
そうだとすれば何故、5市の市長(今のところ、少なくとも宜野湾市と沖縄市の2人)は「3択」に賛意を表明したのか。
実はこの点を見逃すと今回の混乱の本質を見誤ることになる。5市の市長のこれまでの主張を見ると、3択でも反対するのが当然であり、彼らの本音は政府の従来の主張を踏襲した自民党が提示した独自案(上記)が採決されることにあるのは間違いない。
しかし、ここにきて「2択」案とほとんど内容が変わらない、どうでもいいような「3択」案に妥協したのは何故か?
このまま強行に反対し続けると、住民から裁判に訴えられる恐れが出てきたからである。実際、5市において、住民が市長を訴える動きが出てきたのだ。
法的な争いとなれば市長側が不利になるのは明らかであり、行政法や憲法に詳しい多くの専門家の指摘がそのことを裏付けている。
その一人木村草太氏の論考を読んで欲しい。
木村氏の指摘は明快で完璧である。つまり、5市の市長は住民から訴訟を起こされることを恐れて、どうでもいいような「3択」案を飲んだのだ。
自分たちで県の条例にケチをつけ、政治的混乱に火をつけておきながら、住民が本気に怒り出すと県議会の努力を評価して「3択」案にすがるようにして妥協する。
そこで全県実施が決まって県民の間から安堵の声があがり、これで一件落着となることを期待しつつ。ところがどっこい、世間の常識はそう甘くはないんだよ。
世間の常識が5市市長の欺瞞的態度を見逃すはずがない。たとえ「3択」案で全県実施が決まったとしても、5市市長が法律違反を犯したのはまぎれもない事実であり、政治的に妥協したからといって、その事実が消えることはない。
住民の投票権を拒否した5市の市長の責任はあまりにも重大事であり、どれほど批判しても足りないくらい酷いものである。「3択」案を認めたことで住民から訴追されることは免れたかもしれないが、道義的責任は永久に残る。
今朝の新報に琉大教授の島袋純氏の見事な談話が載っているので一部引用する。
<市民の投票権を奪うという違法行為を背景に、県の政治的妥協を引き出したことは重大な問題だ。いわば投票権の侵害を人質にしたのだ。投票権の侵害という、あってはならない事態を条件に、交渉が進んだことは民主主義的には本来ありえない政治交渉だ。
政治交渉の過程で争点が変わることはある。例えば消費税を8%にするか10%にするかという争点で、10%では高いから9%を落とし所にするということは政治的妥協としてありうる。
だが投票権という、権利が関わる問題は政治的選択で左右される問題ではない。それを政治的解決のために飲んだのが、今回の条例改正だ。>
ぼくは、政治的妥協を求めて「3択」案を提示した与党には同情の余地があると思う。しかし、5市の市長を許すことはできない。
県議会の努力を評価する、と言う前にまずは地元住民に対して、投票権をないがしろにしたことを詫びるのが先だろう。しかし、彼らに反省の色は全く見られない。