戦後、日本の政治からナショナリズム(愛国心)が失われて久しい。公の場でナショナリズム(愛国心)を語ることが、まるでタブーであるかのように七十三年の月日が過ぎ去ろうとしている。
日本病とも呼ぶべきこの醜態を、昨日行われた安倍首相の「施政方針演説」から読み取ることができる。
まずは「左の亡国」から。
安倍首相は東北大震災後の復興に力を尽くした地元の人々を賞賛して次のように述べた。
「東北の被災地でも、地元の皆さんの情熱によって、復興は一歩一歩着実に進んでいます。平成は、日本人の底力と、人々の絆がどれほどまでにパワーを持つか、そのことを示した時代でもありました。
『しきしまの大和心のおおしさはことある時ぞあらわれにける』」
被災地復興と明治天皇の御歌とどう響き合うのか、いささか釣り合わない感じだが、それはそれとして、とりあえず横に置くとしよう。
問題は左翼リベラルから起きた反応である。
共産党の志位和夫委員長が早速噛みついた。「日露戦争の戦意高揚に使われた歌だ。演説に位置づけるのは憲法の平和主義に真っ向から反しており、強く抗議する。」
正に左翼リベラルの「亡国」精神の見本のようなものではないか。国家の存亡を賭けた戦において、立憲君主であられる天皇が戦意高揚の歌を詠まれるのは、ごく自然なことであり何の不思議もない。
志位委員長は、今から百十五年前の日本人の立場に立つ労を省略して、現代の価値観で明治天皇を断罪し、返す刀で安倍首相を批判している。
時代錯誤も甚だしい。卑怯で生意気だ。こんな体たらくだから、一度も与党の経験がない万年少数野党に甘んじているのだ。安倍政治を批判するには、こんな歴史不認知的手法では肩透かしを食うだけだ。
批判された方は、ちっとも痛くもなければ、痒くもないだろう。安倍政治を本気で批判したければ、自らの「亡国」精神を改める以外にない。
共産党の「亡国」精神とは何か? ズバリ言って、ナショナリズム(愛国心)の欠如だ。日露戦争を戦った明治天皇の御歌を断罪する精神のどこに、愛国心があるというのか。
さて次は「右の売国」。
安全保障政策について、安倍首相は次のように語っている。
①「わが国の外交・安全保障の基軸は、日米同盟です。
平和安全法制の成立によって、互いに助け合える同盟は、その絆を強くした。日米同盟は今、かつてなく強固なものとなっています。」
続いて、普天間飛行場の辺野古移設を進めると述べた後、突然次のように言いだした。
②「自らの手で自らを守る気概なき国を、誰も守ってくれるはずがない。安全保障政策の根幹は、わが国自身の努力に他なりません。」???
①と②の整合性を説明できる人がいれば是非教えて頂きたい。①は、外交も安全保障も米国に追従する、というのが裏側の実態である。
②は、今の自衛隊を国軍に格上げして、戦後駐留し続ける在日米軍(占領軍)に撤退してもらうという、自主防衛論そのものである。
在日米軍(占領軍)の駐留を容認・推進することと、自主防衛論が両立し得ないことは誰にでもわかる安全保障の基本中の基本である。
まさしく保守の「売国」精神ではないか。
このように分析・検討してみると、保守の「売国」と左翼リベラルの「亡国」は、ナショナリズ(愛国心)の欠如で見事に一致するのである。
さすがにここまで来ると、誰でも「勝手にしやがれ、天下国家!」と叫びたくなるのではないだろうか。
『右の売国、左の亡国』は、鬼才・佐藤健志の作品です。一読の価値有り。