沖縄よ! 群星むりぶし日記

沖縄を、日本を、そして掛け替えのない惑星・地球を愛する者として発信していきます。

辺野古埋め立てが頓挫する運命にあるのは、政府の不誠実体質が原因だ

防衛省がついに軟弱地盤の存在を認めた。

大浦湾側に予定されている護岸真下の海域が軟弱地盤であることは以前より指摘されていたが、防衛省はその事実を公式には認めてこなかった。

しかし、事実は隠し通せるものではない。遂にその存在を認め、設計変更の意向を固めたのである。

仲井真元知事が埋め立てを承認した時の設計図書は、大浦湾側から着手することになっていたが、地質調査の結果、軟弱地盤の存在に気付き、工事の容易な現在の工区から始めたという経緯がある。

変更理由を県に説明する義務があるにも関わらず、それを敢えて怠り工事を強行した理由は、卑劣な政治的思惑と沖縄防衛局の今日まで続く不誠実な態度にある。

沖縄の民意は、辺野古埋め立て反対が多数であることは明々白々だが、安倍内閣独裁国家の如く権力で県民をねじ伏せるようにして工事を押し進めてきた。

それでも工事の度重なる違法行為を立証し、県は昨年8月に埋め立て承認を『撤回』した。

しかし、行政不服審査法を濫用して私人になりすますという狡猾な手を使い、『撤回』の効力を一時的に停止させることにまんまと成功して、辺野古の美しい海に土砂を投入している。

これほど不誠実な政治が許されて良いはずがない。この目に余る不誠実さこそ、国家を亡国に至らしめる「蟻の一穴」となり得る深い闇そのものだ。

防衛省による軟弱地盤の嫌々ながらの容認と、設計変更を県に申請せざるを得なくなった現実が深い闇を垣間見させてくれた。

「蟻の一穴」を拡大させないために、当然、玉城デニー知事が設計変更を承認することはない。

県は工区内の珊瑚の移植も承認していない。かつての翁長県政以上に強気だ。となると沖縄防衛局は、なす術なく立ち往生することになる。

必然的に辺野古埋め立ては最終的に頓挫する、とは言っても安倍内閣はあの手この手を使い、簡単に工事を諦めることはないだろう。

完全に諦めさせるためには、どれほど工事が進行しようと、県民が反対の声を上げ続けることだ。辺野古新基地建設の不当性を世界に向けて発信し続けることだ。

違法が重なる杜撰な工事、米政府から滑走路の短さを指摘される欠陥施設、そして何よりも、在沖海兵隊の多くがグァムに移転し、わずか800人の実働部隊しか残らない将来の在沖海兵隊辺野古新基地が必要なのか、というそもそも論。

どの角度から検討しても辺野古新基地は不要であるとの回答しか出てこない。

不要な施設に巨額の税金を投入する政府は、日本国民には不要でしかない。

政府の沖縄に対する不誠実な体質には、実に深い闇が存在すると言わなければならない。

 

 

 

 

5市の市長は『うちなーありんくりんTV』を見て民主主義のルールを勉強したらどうだ

『うちなーありんくりんTV』が久しぶりに配信された。

10回目となる今回のタイトルは「辺野古県民投票 議会の判断は重い?」

毎回そうだが、Yuzoさんの解説は明快で具体的かつ論理的だから説得力に富む。

①間接民主制と直接民主制

②県民投票の条例制定過程

③市町村別の住民の声

の3つに絞って、事実に裏付けられたデータを示しながら説明している。その語り口は誠実そのもので、見る方も爽やかな気分になる。

5市の市長は誰一人、Yuzoさんの見解に反論することはできないだろう。それほど彼らの民主主義に対する理解度はレベルが低いのだ。

『うちなーありんくりんTV』を見て、しっかり勉強しろと言いたい。

そもそも、市民の投票で市長にしてもらったのにも関わらず、当選したら恩を忘れ権力者ぶるその姿勢が許せないのだ。市議会議員にしてもそうだ。君らに市民の投票権を奪う資格なんてないんだぞ。

わかっているのか、桑江朝千夫沖縄市長、松川政則宜野湾市長、島袋俊夫うるま市長、下地敏彦宮古島市長、中山義隆石垣市長、そして市議会議員の諸君。

沖縄の民主主義を汚した市長として歴史に残るであろう彼らの名前をしっかりと記憶に刻んでおこう。

これら5市の市長に対して市民の間から裁判に訴える動きがあるが、どんどんやるべきだ。きついお灸をすえないと、憲法に規定された主権在民の意味を彼らが理解することはない。


【FILE010】辺野古県民投票 議会の判断は重い?

 Yuzo ちばりよー!

 

法律音痴の5市の市長に市民の投票権を奪う権限などない

 5市の市長が県民投票を拒絶したことに対して、行政法に詳しい専門家から多くの批判が寄せられているが、そのなかで憲法学者の木村草太氏の解説は明快で分かりやすく、読者の参考になればと思い、沖縄タイムスに載った寄稿文から抜粋した。

木村氏の文章を読むと、5市の市長がいかに法律音痴の能無し政治屋にすぎないか納得できるのではないだろうか。

< 地方自治法252条の17の2は、「都道府県知事の権限に属する事務の一部を、条例の定めるところにより、市町村が処理することとすることができる」とする。今回の住民投票条例13条は、この規定を根拠に、投票に関する事務は「市町村が処理する」こととした。

なぜそうしたのかと言えば、投票所の設置や投票人名簿の管理は、国や県よりも地元に密着した市町村が得意とする事務だからだ。つまり、今回の事務配分は、各市町村に投票実施の拒否権を与えるためではなく、あくまで県民投票を円滑に実施するためのものだ。

しかし、宜野湾市宮古島市で、県民投票の事務処理を拒否する動きが進んでいる。この動きには、地方自治法・県条例のみならず、憲法の観点からも問題がある。

一番の問題は、憲法14条1項が定める「法の下の平等」に反することだ。一部の市町村で事務執行がなされないと、住んでいる場所によって「投票できる県民」と「投票できない県民」の区別が生じる。「たまたま特定の市や町に住んでいた」という事実は、県条例で与えられた意見表明の権利を否定するだけの「合理的な根拠」とは言えない。したがって、この区別は不合理な区別として、憲法14条1項違反だ。

この点、投票事務が配分された以上、各市町村は、その区域に居住する県民に投票権を与えるかどうかの選択権(裁量)を持つはずだとの意見もある。しかし、「県条例が、そのような選択権を認めている」という解釈は、県民の平等権侵害であり、憲法14条1項に反する。合憲的に解釈するならば、「県条例は、そのような選択を認めていない」と解さざるを得ない。 >

< さらに、平等権以外にも、問題となる権利がある。県民投票は、県民全てに開かれた意見表明の公的な場である。県民の投票へのアクセスを否定することは、憲法21条1項で保障された「表現の自由」の侵害と認定される可能性もある。さらに、憲法92条の規定する住民自治の理念からすれば、「県政の決定に参加する権利」は、新しい権利として憲法13条によって保護されるという解釈も成り立ちうる。

このように考えると、各市町村の長や議会には、県民の憲法上の権利を実現するために、「県民投票に関わる事務を遂行する義務」がある。議会が関連する予算案を否決したり、長が地方自治法177条の原案執行を拒否したりするのは、この義務に反する。訴訟を検討する住民もいると報道されているが、市町村が事務執行を拒否した場合、裁判所も厳しい判断をする可能性がある。 >

< ちなみに、県条例は棄権の自由を認めているから、県民投票反対の県民は、市長や市議会議員に代表してもらわなくても、棄権という形で抗議の意思を表明できる。市民全員に棄権を強制することは不合理だ。

前回の参議院議員選挙では、徳島県と合区選挙となった高知県で、大量に「合区反対」と書いた棄権票が投じられたことが話題となった。今回の県民投票でも、棄権票に「県民投票反対」と書いて、強い反対の意思を表示することもできる。宜野湾市で、千単位、万単位のそのような棄権票が出れば、大きな話題となるはずだ。

県民投票は、県民の重要な意見表明の機会だ。沖縄県内の市町村長・議会議員の方々には、ぜひ、県民の権利を実現する憲法上の義務のことも考えてほしい。(首都大学東京教授、憲法学者)>

www.okinawatimes.co.jp

さて、公平を期すために、次は宮崎政久衆院議員に登場してもらおう。

あれ、落選したんじゃなかったの?と驚く方もいると思うが、ドッコイ彼は実に悪運の強い人間らしいのだ。

九州比例区園田博之が昨年11月11日に死去したのを受けて、同月21日に繰り上げ当選となったらしい。彼の選挙戦を振り返ると、不思議な経歴に誰もが唖然とするのではないだろうか。

2012年、14年、17年の衆議院選挙で照屋寛徳に連敗して落選している。がしかし、12年と14年の選挙では落選後二度とも比例復活したのだ。

不思議な運に味をしめたのかどうか知らないが、17年の衆議院選挙にも登場して、この時も見事に、宿敵・照屋寛徳に敗れ去ったのである。

そして悲しいことに今回は比例復活もならず、冷や飯を食う羽目になった。これが運の尽き、宮崎の政治生命は終わったもの、と誰もが思い、人々の記憶から消えた人物だったはずだが、まさかの繰り上げ当選!

沖縄の神様も悪戯が過ぎるというものだ。こんな男の顔、二度と見たくはないと思っていた県民は多いはず(ぼくもそのひとり)、しかし、公職選挙法という立派な法律がある以上、不満を述べたところでどうなることでもない。

余談ついでに言うと、宮崎政久という人物は、12年の選挙では「TPP反対」「日米地位協定全面改訂」「オスプレイ県内配備の見直し」「米軍普天間基地の県外移設」を公約に掲げて闘ったのだ。

ところが比例で復活すると、沖縄選出の全自民党国会議員と一緒に、時の幹事長・石破茂に怒られてシュンとなり、公約をすべて撤回するという信念のなさを披瀝したのである。

そんな男が繰り上げ当選に気を良くして「県民投票反対呼びかけ」なる文書を自治体の自民党議員の勉強会で配布した。

この件は県2紙がとりあげ、NHK朝日テレビなども放送したから多くの人が知っているはずである。琉球新報は昨日の紙面に全文を掲載した。

読んでみたが、木村氏の文章と比較すると、その法律論は意図的に難しくしている嫌いがあり、読みづらい。しかし、何が言いたいかは概ね理解できる。「その他雑感」という項目に彼の意図がよく現れているので、ここだけを取り上げてみたい。

< そもそも、義務費であると考えるか否かが大きく影響する。首長が義務費であると判断した場合、自ら義務であると判断した投票事務を履行しなかったとなれば、不作為の違法確認訴訟において、義務に反して違法だとなりやすいのではないか。

議会、議員としては、そもそも論としての県民投票の不適切さを訴えて、予算案を否決することに全力を尽くすべきである。議員が損害賠償などの法的な責任を負うことはない。

議会運営の方法論としては、不確定な事情があるから採決するまでに議論が熟さず、当該予算案を審議未了で継続もしくは廃案にするということも考えられないか。 >

 

ryukyushimpo.jp

「その他雑感」の文章も悪文で読みづらいが、要は

議会、議員としては、そもそも論としての県民投票の不適切さを訴えて、予算案を否決することに全力を尽くすべきである。>

という文章に彼が言わんとすることが凝縮されていると考えて良い。法律を重く見るよりも、政局に重点を置く。そして県政を混乱に陥れ、県民投票を実現不能に追い込む。

宮崎政久という人間は、弁護士の資格は持っていても法律を都合よく解釈する、手垢のついた沖縄選出の国会議員として最もふさわしくない政治屋である。

そもそも、長野県からやってきて沖縄選出の国会議員となること自体、おかしなことである。こんな吹けば飛ぶような男の言葉に影響される沖縄県連の自民党諸君、5市の市長、ならびに市議会議員諸君、恥ずかしいぞ!

 

主権在民を理解できない5市の市長たち

島袋俊夫うるま市長が県民投票の不参加を表明したため、沖縄市宜野湾市石垣市宮古島市を加えて5市が県民投票を行わないことが、ほぼ確定的となった。

5市の有権者数は約36万7千人で、全県の約31.7%になるらしい。これだけ多数の県民が投票できないとなると、県民投票をやる意義はないことになる。全県民(有権者全員)がなんらかの形で意思表示をする、そのための県民投票だからだ。

にもかかわらず、なぜこれほど混乱をきたしているのか、原因はどこにあるのか、しっかり見極める必要がある。

不参加を表明している5市の市長は全員「チーム沖縄」という政治グループに属している。チーム沖縄というのは、翁長前知事が結成した「オール沖縄」(革新グループと保守の一部で形成される)に対抗する目的でつくられた自民党を中心とする政治勢力だ。

混乱の原因の一つはここにあると見るべきだろう。つまり県民投票を政局がらみにしようと目論んでいる節が多分に感じ取れるのだ。

もちろん、彼らはそんなことはおくびにも出さないが、彼らの言い分が共通しているところを見ると、どうしてもそうとしか思えないのである。

彼らが反対する最大の理由は、県議会で採択された県条例が2択になったためだ、というのが彼らの言い分である。

県議会で野党の自民、公明党は県民の多様な民意が反映されるためには4択にすべきだと主張した。それが受け入れられず、与党の賛成多数による2択案で決着がついた。

その時の不満を5市の市長と市議会議員(5市の市議会は自民、公明党が与党を形成)は共有している。だから反対した。とすれば、なんて子供っぽい大人達だろう!

確かに、二度にわたる市議会での予算否決を尊重する(5市とも二度行われた県民投票に必要な経費を入れた予算案を否決)、と言う市長の見解には一理ある。それでは市議会の反対理由は何か?ここでも4択でなければダメだとする不満が決め手になっている。

では、彼らがそれほどまでに固執する4択とはどのようなものか?

先日行われた記者会見で、桑江朝千夫沖縄市長は「具体的にどういう選択肢があれば検討するか、との質問に対して次のように応えている。

「『(埋め立ては)やむを得ない』、あるいは『どちらかというと反対』などいろいろ考えられる」

つまりは、埋め立てに賛成か反対かの2択に上の二つを加えての4択。これが5市の市長(市議会議員)がそろって強調する4択案だ!

嗚呼ああああ、開いた口が塞がらない!誰か、助けてくれ!

わが愛する郷土沖縄の市長(市議会議員)とはこの程度のレベルである。情けない、ほんとに情けない。『(埋め立ては)やむを得ない』は賛成であり『どちらかというと反対』は反対に他ならない。

これでは賛成か反対かの2択となんら違わないではないか。問い方が遠回しで優しい感じがする?

確かに同じ記者会見で桑江市長は「選択肢を一つないし二つ増やせば、与党市議にもうなずく議員が現れるのではないか。2択で市民に迫るのは乱暴だ」と述べている。

賛成か反対かと迫るのは乱暴だから、少し遠回しに迫る方がよいのでは?

おいおい、県民投票(住民投票)は世論調査とは違うぞ。世論調査なら多様な意見を反映させるために質問事項をできるだけ多くしたほうが良いのは理解できる。

しかし、辺野古の埋め立ての是非を問うのに選択項目を増やせば混乱を招くのは必然で、そもそも主旨に反する。世論調査と県民投票(住民投票)は本質的に違うのだ。このくらいの区別もできない政治家(屋?)なんて実に哀れで情けない。

だいいち、チーム沖縄の首長自身が、政府と歩調を合わせるように、辺野古普天間飛行場かの2択を主張しているではないか。

自分たちが主張する2択は正しく、県議会が議決した2択は間違いだと言うのは、自己矛盾もはなはだしい。

5市の市長(市議会)が固執してやまない4択というものが意味をなさないことがはっきりしたところで、彼らがいかに民主主義の本質を理解していないかについて糾弾しなければならない。

民主主義における間接制と直接制。一般市民は仕事と生活に多くの時間を費やすため、直接行政に携わるのは困難である。そのため代議士を選挙で選び、行政を委託する。

これが間接的民主主義。間接的であるがゆえに自ずと限界がある。政治家と市民の間に横たわる距離。その距離がいちばん近づくのが選挙の時だが、終わってしまえば政治家と市民が直接話し合う機会はほとんどない。

この距離が良くも悪くも政治が堕落する原因になる。だから、市民は悪政が行われていないか、絶えずチェックする責任と義務があるが、時間的制約があるため非常に難しい。

これが普段における政治の実態だが、住民の生活と権利が脅かされるような大きな政治的問題が発生すると、住民が直接政治に関わる意思を明らかにしなければならない状況に至る場合がある。

まさしく辺野古の埋め立て問題がそうだ。政府と沖縄県が争って、紆余曲折を経ながら23年経過しても解決しない。

それならば県民の意思を直接聞こうという声が出てくるのは至極当然なことである。県民の意思を投票で明らかにする。埋め立てに賛成か反対か、投票で決着をつける。

賛成多数なら反対派にとって決定的な痛手となり、埋め立ては今後、順調に進むだろう。反対が多数を占めれば、政府に対して大きな圧力となり、工事は支障をきたすことになる。

県民が直接意思表示する県民投票は、このように絶大な効果を政治に及ぼす。なぜなら我が国は民主主義国家であり、憲法主権在民を唱っているから、政府といえども沖縄県民の直接的意思を無視できないからだ。

しかし、沖縄、うるま、宜野湾、宮古島、石垣の5市長は不参加を表明した。これは市民から投票権を奪うことに他ならない。市民の投票で選ばれたはずの市長が、自分たちの言い分が通らないからと言って、市民から投票権を奪い、声を封じようとする。

これは委託された権力の乱用であり、主権在民のわが国において、決して許されるものではない。市民の側から市長を裁判に訴える動きが出てきてもおかしくはない。

5市在住の市民は、怒りをこめて市長を裁判にかけるべきだろう。市民が持つ唯一の政治権力、投票権はそれだけ価値のある貴重でかけがえのないものである。

民主主義の基本中の基本、主権在民に裏づけられた県民投票の本質を理解できない5市の市長が、沖縄の政治を混乱させ堕落させている。

玉城デニー知事は住民票が沖縄市にあるため、投票できないことになる。こんな理不尽なことが許されるものだろうか。桑江沖縄市長は、胸に手をあててよく考えるべきだ。

今朝の琉球新報の社説は、権利侵害の議論こそ必要だとして次のように書いている。

「投票事務の予算を否決した市議会や市長の判断も問題だ。間接民主制をとる中で住民投票は、より成熟した民主主義に近づけるために保障された権利である。

市長らは市議会の意思を尊重したと言うが、有権者は市長や議員に行政運営や政策の判断は委託しても、住民の権利を奪うことまでは委ねていない。住民による直接の意思表明の権利を奪うことは重大な権利侵害だ。」

見事な論理だが、この正論を5市の市長が破壊している。住民による直接の意思表明の権利を奪う市長に政治を行う資格はない。

 

 

2020年、日本は世界の中心で消滅する

「2020年、日本は世界の中心で消滅する」この衝撃的な言葉は、佐藤健志著『右の売国、左の亡国』のサブタイトルになっている。

保守、左翼リベラルを問わず、戦後、日本の政治からナショナリズム愛国心)が消失して久しい。

保守は米国と向き合う時、ナショナリズム愛国心)の立場で交渉に臨むことはない。理由としては、戦後保守の政治理念が対米従属路線に置かれているためである。

国内向けには、あたかもナショナリズム愛国心)を説くそぶりを見せるが、欺瞞でしかない。戦後保守が採用した諸政策を丹念に調べると、自ずと明らかとなる。

米国向けと国内向けの顔が異なる戦後保守の、魑魅魍魎とした態度に比べると、左翼リベラルはナショナリズム愛国心)を公然と否定してきたし、今もそうだ。

理由は、戦前の軍国主義否定にある。ナショナリズム愛国心)イコール軍国主義

米軍基地否定も同じ精神からきている。故に、現憲法平和憲法と見立て、護憲が絶対的使命となる。

戦後保守と左翼リベラルは、多くの政治課題において、根本的に対立しているように見えるが、実はナショナリズム愛国心)の消失という点で完全に一致しているのだ。

対立しつつも、保守と左翼リベラル双方ともにナショナリズム愛国心)を消失したまま政治が行われてきた戦後の日本。

別の言葉で言えば、戦後、日本の政治は日本を否定する方向で動いてきた、ということだ。『右の売国、左の亡国』の主旨を、ぼくはそのように理解し、著者の見解に賛同すると同時に、よくぞここまで解明してくれたと敬意を表したい。

佐藤氏の解析眼は容赦なく鋭い。何故日本はかくも衰退の道を歩み続けるのか、その根本的原因を表面的事象に足をすくわれることなく、ズバリ、戦後政治家たちのナショナリズム愛国心)の消失と日本否定にあると分析して断罪したのである。

戦後保守の対米従属というまやかしのナショナリズム愛国心)、左翼リベラルの護憲という国防無策。

まさしく本のタイトルどおり、保守の売国、左翼リベラルの亡国そのものではないか。

保守の売国精神がいかに骨の髄まで達しているか、佐藤氏は一つの例を挙げている。安倍首相が2015年4月、アメリカ議会で行った演説「希望の同盟へ」から

<戦後日本が選んだ道は、アメリカと同盟を組んで、西側諸国(注:自由主義諸国の別称)の一員となることでした。そしてわれわれは、アメリカやほかの民主主義諸国とともに、とうとう冷戦に勝利を収めたのです。

この道は日本にとって、成長と繁栄の道でもありました。今なお、これに代わる選択肢は存在しません。(英語版より佐藤氏訳)>

冷戦に勝利したまではよかったとしよう。しかし、その後の国際情勢の変化に対応できずに、米国との関係を益々強化(追従)した結果、新自由主義経済とグローバリズムの嵐に巻き込まれて、我が国は衰退の坂道を転げ落ちてきたのである。

 にも関わらず、安倍総理<今なお、これ(対米追従路線)に代わる選択肢は存在しません>と言ってのけて、米上下両院議員の拍手喝采を受けたのである。

 そして売国法案を次々と成立させて、自らの発言の正当性を証明して見せたのだ。

安保法制(自衛隊を米軍に従属させる法案)をはじめとして、外国投資家、ビジネスマン達の利益となる法案が、めじろ押し状態で成立した。

ナショナリズム愛国心)の消失と日本否定がなせる技と言わねばならない。

さて、来年は東京オリンピックの年、2020年である。そして今年は消費税の10%への引き上げが予定さている、等を考えると、

2020年、日本は世界の中心で消滅する

という佐藤氏の予言がいよいよ現実味をおびて、我々の目前に迫ってくるのである。

『右の売国、左の亡国』を多くの方々に読んでもらいたい。 

 

右の売国、左の亡国:2020年、日本は世界の中心で消滅する

右の売国、左の亡国:2020年、日本は世界の中心で消滅する

 

 

琉球独立は見果てぬ夢か

今朝の琉球新報「論壇」に比嘉順子さんという方が、琉球独立について書いておられる。

ぼくの琴線に触れるところがあり、少し思うところを綴ってみたい気になった。

比嘉さんは、冒頭次のように書いている。

<米軍普天間飛行場移設に伴う、名護市辺野古の新基地建設の護岸部分に、政府は昨年12月14日に土砂投入を強行した。民意は踏みにじられた。ウチナーンチュの心を闇の粒子で覆いかぶせて奈落の底に突き落とし、心は切り裂かれた。

しかし、私は中国人や大和人にはなれない琉球人としての心を持ち合わせ、決して組み伏せられぬとの思いがふつふつとわき起こった。

新基地建設をとめるには、日本国からの独立以外ないのではないか。琉球国として平和非武装中立国家を築く道を選ぶべきと考える。>

安倍政権が沖縄の民意を無視し、辺野古の美しい海を土砂で埋めれば埋めるほど、琉球国として独立しよう、と呼びかける声が出てくるのは沖縄の歴史を振り返れば、当然すぎるほど当然と言えるだろう。

比嘉さんは、松島泰勝著『琉球独立への経済学』から琉球独立の具体的な方法論を引用し、その覚悟の程を示している。

彼女の誠実で強い姿勢は、声は挙げぬが琉球独立を希う多くのウチナーンチュの励みになる筈である。

しかし、残念なことに時期はまだ熟していないのではないか、と敢えて苦言したい。

その最大の理由は、言うまでもなく中国共産党の存在だ。彼らは傍若無人にも、琉球列島を中国の領土であると公言している。

実に勝手極まる主張だが、中国共産党の勢いを考えると、いま独立を唱えることは彼らの罠に墜ちる恐れが多分にある。

中国に民主化の波が押し寄せ、中国共産党の脅威が消滅すれば、松島泰勝氏の琉球独立論は、沖縄の言論界でさらなる注目を浴びて、沖縄の未来を照らす有力な理論として大いに議論されることになるだろう。

いつそのような機会が訪れるか、誰も予測できないと思うが、その時までは決して焦ることなく、泰然としてウチナーンチュのアイデンティティを強める努力を、一人一人が怠らないことである。

独自の憲法と法体系を持つ独立国家として、世界に打って出るその日まで、一人一人が隙のない独立論を成熟させる努力を積み上げることも大事である。

ぼくも比嘉さんと同じく、 中国人や大和人にはなれない琉球人としての心を持ち合わせ

 ている一人のウチナーンチュである。

比嘉順子さんの勇気ある発言に対し、感謝の意を込めて、松島泰勝著『琉球独立への経済学』から引用されている箇所をそのまま掲載する。

沖縄県議会が、国連脱植民地化特別委員会『非自治地域』リストに琉球を加えることを求める決議案を採択する。

各種の国際機関からの協力を受けて、琉球は『非自治地域』となり国連の支援を得ながら脱植民地化のための活動を展開する。

民族の自己決定権を行使して、国連監視下で住民投票を実施し、独立を支持する有権者過半数を占めれば、世界に独立を宣言する。そして世界の国々が国家を承認し国連の加盟国になる。

多くの国々と修好条約を提携するなどして外交関係を結び、貿易、投資、観光などの経済活動を展開する。

独立に伴い、日本政府の国有地は収用され、米軍基地、自衛隊基地は琉球から撤去され、その跡地をこれまでの跡地利用の経験をいかしながら有効に活用し、琉球経済を自立化させる>

 

 

辺野古埋め立ては国防理念のない政府の悪あがきに過ぎない

2017年01月30日の当ブログで、「ポリタス」から引用した論稿を基に、ぼくは安倍内閣の国防の無策を批判した。

偶然、今日読み返してみたのだが、本質を突く内容に今更ながら感心し、再度読者に提供するのも悪くないだろうと考えて、再び掲載することにした。

安倍内閣辺野古の美しい海に土砂投入して工事を強行しているが、この「ポリタス」の論稿を読めば、そのやり方がいかに無謀無策であるか、理解されるであろう。

辺野古新基地建設が頓挫する2つの理由」を連載している『チョイさんの沖縄日記』と併せて参考にして頂ければ幸いです。

<【 辺野古新基地とオスプレイ配備の本質とは 】

今回の沖縄県知事選挙の中心的な争点は、米海兵隊普天間航空基地の移転先を県内・名護市辺野古とし、新たな基地を造るか否か、である。言わずもがなのことであるが。

辺野古新基地建設が必要とされている理由は、中国の軍事的脅威の増大に対し、在沖海兵隊が「軍事的抑止力」であるため、とされていることも、改めて言う必要がない。

更に、「革命的な新兵器」オスプレイMV–22が、長い航続距離・高い巡航速度で、尖閣諸島での対中国軍事衝突に参戦するという期待が、日本政府の高圧的な辺野古新基地建設の背景にあることは明らかだ。

オスプレイ尖閣での戦闘に加わる、離島防衛とか離島奪還とかの軍事作戦に、沖縄島から飛んで行くという作戦はない。その「事実」は、どれだけ知られているだろうか。
アフリカで3年前に独立した南スーダンで、昨年12月、新たな内戦が激化し、反政府ゲリラが支配する地域に米国人が取り残された。

その救出に、米空軍オスプレイCV–22が3機向かい、反政府ゲリラの小銃に撃たれ、乗員4名が負傷、内2人が重傷を負い、救出作戦を中止し、撤退した。(この事件については、The New York Times, “Attacks on U.S. Aircraft Foils Evacuation in South Sudan”, 12.21, 2013およびThe New York Times, “Americans Evacuated from South Sudan”, 12.23,2013を参照して下さい)
救出作戦は、後日、反政府ゲリラに話を付けて、攻撃しない約束を取り、国連と民間の通常のヘリコプターをチャーターして完了した。
南スーダンの反政府ゲリラの小銃に追い払われる機種が、どのように中国軍と戦争出来るというのか。
この南スーダン銃撃・撤退事件には後日譚がある。オスプレイ脆弱性に懲りた米空軍は、オスプレイの装甲強化と火器搭載を計画しているという。しかし、搭載能力の低いオスプレイに、これらの改装を加えると、重量が増加し、飛行に支障が生じる。

そのために、エンジン製造会社のロールス・ロイス社が、エンジン出力の増強をする、ということまで必要とされ、その予算の確保が問題となっている。

(空軍オスプレイの改装についてはUS Air Force Special Ops Looks To Add Armor, Firepower to Ospreysを参照して下さい。この他、US Air Forces Osprey Added Armorで検索すれば、関連報道記事が見付かります)

もし、オスプレイ尖閣での戦闘に飛ばす意図があるならば、在沖海兵隊オスプレイが真っ先に改装されねばならないが、海兵隊オスプレイの装甲強化・火器搭載という話は出ていない。それは、在沖海兵隊には、尖閣での戦闘に加わる意思も作戦も元々ないからである。海兵隊オスプレイは、地上兵員輸送機なので、搭載量を削ぐことが出来ない。ちなみに空軍仕様と海兵隊仕様は、同一機体である。念のため。

また、機体の小さいオスプレイには、陸上自衛隊パジェロ改造の小型トラックが積めない。
オスプレイは、搭載能力不足と脆弱性のために、商売として頼みにしていた陸軍が採用しなかった。今、日本中でオスプレイを飛ばしているのは、日本へのセールスのためのデモである。
海兵隊は、今後の米国戦略での必要度が低く、予算確保に苦しんでいる。兵員は大幅に削減され、老朽化している普天間飛行場の、本来の代替施設であるはずのグアムの基地整備に、米国議会は予算をほとんど付けていない。

辺野古新基地建設は、自国政府の中では予算を取れない海兵隊が、既得権を維持するために、日本政府・日本国民を謀って、日本の税金で新たな基地を獲得しようとしている企てなのである。

また、ボーイングとベルが、商売になっていないオスプレイの売り込み先として、自衛隊に買わせ、更に自衛隊に、海兵部隊の戦闘を教えるという海兵隊の新商売込みのパッケージ商法を展開しているのが、辺野古オスプレイ配備の本質である。
海兵隊が、敵地に侵攻して、橋頭保を築くという、本来の作戦を行ったのは、1950年朝鮮戦争仁川上陸作戦が最後である。海兵隊は、空軍・海軍が敵を叩いた後での占領に行く、「第二陸軍になった」と批判したのは、ロバート・ゲイツ元国防長官本人である(この2010年の演説書き起こしは、国防総省サイトで読めます)
 在沖海兵隊も同様で、作戦遂行には、オスプレイと兵員を、佐世保米国海軍基地所属の強襲揚陸艦ボノム・リシャールに搭載して、上陸展開する近くまで持っていかねばならない。だから、沖縄にオスプレイを置いても、「尖閣に近い」などという軍事的意味はない。
沖縄に、「実体は何だか分からないが、勇猛果敢だという海兵隊と、凄い新兵器らしいオスプレイを置いておけば、中国が攻めてきても大丈夫」という、御守りを買うようなことは止めたらどうか。1兆円近い金をこんなことに注ぎ込むのは、間抜け極まりないことではないか。
辺野古を造らなくとも、軍事的抑止力としての米空軍嘉手納飛行場は存続する。嘉手納閉鎖・返還は、政治的要求・日程には全く上っていない。( 2014年11月15日「ポリタス」)>