沖縄よ! 群星むりぶし日記

沖縄を、日本を、そして掛け替えのない惑星・地球を愛する者として発信していきます。

歌を詠む日本人、自然を破壊する欧米人(白人)初夢はやはり悪夢だった

山路来て何やらゆかしすみれ草

松尾芭蕉のこの有名な俳句を初めて目にしたのは、確か中学校の授業だったと思う。以来、最も好きな俳句のひとつになった。

昨日、暇潰しにテレビをつけると、タレントが俳句の優劣を競う番組が流れていた。俳句の先生がタレントの作品を評価して、順位を決めるというものだが、先生は年配の女性で、批評眼の鋭さと明快な解釈に深く感心させられた。

十名の作品の中で最も評価が高く、一位に選ばれたのは、東国原英夫の次の句だった。

凍蝿よ生産性の我にあるや

芭蕉の句と比べると、雰囲気が全く異る。何かしら刺々しい感じがする。東国原氏による作意の説明と、先生の見事な解説がなければ、俳句に素人のぼくは、恐らくこの作品の良さを見逃したに違いない。

生産性、という言葉は、LGBTには生産性がない、と言った或る議員の話題になった言葉を指しているらしい。そう考えると、この俳句の意味が次第に明瞭となり、意外にもその凄さに唸ってしまったのである。

生産性が自分にあるだろうか、と真剣に自問自答する姿は、苦悩する東国原氏自身の姿そのものだ。その苦悩は、或る議員(杉田水脈)に向けられた強烈な批判とも言える。散文で批判するのではなく、歌で刺したことが鮮烈な印象を与える。

東国原氏のこの奇作は、ぼくの記憶の中に強く刻まれることになりそうだ。

しかしながら、やはりぼくは、個人の好みで言うと、芭蕉の句のほうが好きだ。中世と現代という時代背景によるのは確かだとしても、否、現代に生きる人間だからこそ、芭蕉の句の静寂に心が打たれるのである。

とは言っても、東国原氏の才能に驚かされたのも事実だ。恐らく、東国原氏と同等かそれ以上の才能を持つ人は、全国至る所で見られるに違いない。

随分前の話、確か日下公人が出演するネット番組だったと記憶するが、次のような句が壁にかけられていて、その素晴らしさに心躍り、メモを取ったことがあった。

幼子の人差し指にかかる虹

この句に対する日下氏の言及はなかったので、未だに詠み人知らずだが、ひょっとして日下氏本人の作なのだろうか。

スタジオ風の狭い部屋に、さりげなく掛かる見事な俳句。日本人独自の感性を、欧米人はどう理解するだろうか。日本文学を研究する欧米人を例外とすれば、恐らく多くの欧米人は、なかなか理解できないに違いない。真に理解するためには、体験することが必要だからだ。

彼らにとって、俳句は不合理な感性が生み出すもので、科学的合理的精神を基盤とする欧米人(白人)には、意味のない余計な物でしかないのだろう。

歴史を振り返ると、欧米人は世界的規模で自然の破壊と人間の殺戮に明け暮れてきたのは自明で、戦争に次ぐ戦争、破壊に次ぐ破壊、殺戮に次ぐ殺戮、これでもかと恐ろしくなるくらい、暴力に訴えてきたのである。

物事を認識する際に感性を重視する日本人と、合理性を中心に置く白人との違いは、文化においても顕在化しているが、その優劣を判断するのは極めて困難であり、ほとんど意味を成さないように思われる。

但し次のように考えることはできないか。白人の合理的精神が一神教に立脚する以上、神の意志に添いさえすれば、たとえ地球を破壊しようとも許される。何故なら宇宙を支配するのは全知全能の神だからだ。

そして、困ったことに、地球を破壊する手段を、白人は先の大戦で手にしている。彼らによって世界中に拡散された核兵器は、今や地球を滅ぼしてなお余るほどの数に達しているのだ。

彼らの合理的精神と彼らの唯一神の意志が一致しさえすれば、その時、全核兵器が宇宙の花火となり、地球が消滅する可能性は大いにあり得る。

その時、われわれ日本人は、それでも俳句を楽しむことが出来るだろうか?