反沖チャンネル桜「沖縄の声」のデマを斬る!Part 2
「沖縄の声」のキャスター、栗秋琢磨、平原信泰、鉢嶺元治3氏が香山リカさんに名誉毀損で訴えられた。その訴えた文章を読んだが、それが事実なら、先日話題になったニュース女子と同じ位の酷い内容である。
左翼寄りの発言をする人なら誰構わず、非難中傷し、平気で嘘をつく悪態ぶりは異常で、目を覆うばかりだ。
平原、鉢嶺両氏の動画も発言も知らないので、なんとも言えないが、栗秋琢磨については、基地反対派が配信した動画があるので、それを見た上でいうと、彼は教養のかけらもないチンピラそのもだ。見ていて反吐がでるくらい品性に欠ける人物である。
水島社長は、今回の訴訟を正面から受けて立つと言明したが、それは責任ある立場からすれば立派だとは思うが、しかし、そろそろ「沖縄の声」のキャスターをふるいに掛けて、ダメ人間は出演停止にするくらいのことを考慮すべきだろう。
ぼくは、東京のチャンネル桜はよく見ていて、見識の深い論客の方々から学ぶところ大であるが、しかし、それに比較して「沖縄の声」のキャスターはあまりにも酷すぎる。
彼らの教養は浅く、品性に欠け、左翼を批判する他に能力のない連中ばかりである。特に酷いと思うのは、沖縄で生まれ育ったにもかかわらず、沖縄を貶める発言が多すぎることだ。我が郷土に、どんな欠点があろうとなかろうと、沖縄は郷土である、というそれだけの理由でぼくは、琉球・沖縄を、理屈抜きに心の底から愛している。だから、ぼくの立ち位置は、反チャンネル桜「沖縄の声」だとはっきり宣言したい。
さて、彼らが流す多くのデマのひとつに、「普天間飛行場は田んぼの中にできた」というのがある。それがデマに過ぎないことを、昨日紹介した『誤解だらけの沖縄基地』が歴史と事実をもとに論破しているので、その31項目から引用する。
< 「米軍普天間飛行場は、もともと田んぼの中にあり、周りは何もなかった」「商売になると、みんな何十年もかかって基地の周りにすみ出した」2015年6月25日に開かれた自民党若手議員らの勉強会での、ベストセラー作家・百田尚樹氏の事実とかけ離れた発言は、宜野湾市民の猛反発を買った。
米軍普天間飛行場がある場所には戦前、村役場や宜野湾国民学校もあり、南北には宜野湾並松(ジノーンナンマチ)と呼ばれた街道が走る生活の中心地だったからだ。「住民をばかにしている」「ネット情報をうのみにしたような幼稚な発言だ」
3日後の28日、大部分の土地が接収された宜野湾郷友会(宮城政一会長)の総会では、怒りの声が噴出した。宜野湾の住民は、ほぼ現在の飛行場内に住んでいた。このような「基地は田んぼにできた」という発言は過去にもあった。2010年、当時のケビン・メア在沖米国総領事だ。その要人の認識不足の発言に、宮城さんが「カチンときた。ならば証明しよう」と始めたのが、戦前の集落の様子を再現するジオラマ作りだった。
お年寄りへの聞き取り調査を重ねているさなか、著名な作家によって再び古里を侮辱された。「またか、という思い。ちょっと調べればすぐわかること」宮城さんは悔しそうに語る。「私たちの古里がなかったことになる。先輩からは市場で買い物したこと、馬場にンマハラシーを見に行ったこと・・・。たくさん聞いた。生活の場であり、憩いの場でもあった場所だ」そんな人々の生活拠点はどのようにして奪われたのか。宜野湾市史によると、沖縄戦前年の1944年、宜野湾村(当時)には22の字があり、人口は1万3635人。そのうち、普天間飛行場は14字にまたがる宜野湾の中心に建設された。その14字では8880人が生活していた。人々の古里が奪われたのは45年の沖縄戦だ。宜野湾へ侵攻した米軍が占領と同時に土地を接収し、滑走路の建設を始めた。住民は同年10月以降に順次、収容所や避難先から帰村が許されたが、多くが古里に戻れず、米軍に割り当てられた飛行場周辺の土地で、集落の再編を余儀なくされた。
百田氏が言う「商売目当て」では決してなく、基地の周りに住まわされたのが実情だ。古里を奪われた住民の先祖が眠る墓や御願所は、いまも基地の中だ。基地内に入るには米軍の許可が必要になる。宜野湾郷友会
年中行事で拝むウブガー(産井戸)はフェンスの奥わずか100メートルほどの場所にたたずむ。宮城郷友会長は、「古里の土地に入るのに、許可を得なければならないと言うのは・・・。矛盾してますよね」と話す。>
以上、百田氏の発言がいかにデタラメかが分かる。「沖縄の声」から発信されたデマを検証もせず、そのまま借用して流すいい加減さ。このような人間が本土ではベストセラー作家として持て囃されるのだ。氏の講演料は高額らしい。呆れて声も出ない。
『これってホント⁉︎ 誤解だらけの沖縄基地』を多くの人に読んでもらいたい。