沖縄よ! でぃぐぬ花日記

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荒谷卓著『戦う者たちへ 日本の大義と武士道』について 4

「四、グローバリズムのもたらすもの (略)

冷戦構造の考えのままの人は民主主義と資本主義はイデオロギーとして一体だと勘違いしているようだ。ソロス氏が指摘しているように、これまで国家においては、民主主義が資本主義を抑制していたが、グローバル市場には市場原理と呼ばれる資本主義は存在しても、民主主義は存在しない。個人の利益が絶対的な価値を持ち、公共の利益という考えは存在しない。国家の政治が、グローバル市場の原理に焦点をあてて運営されれば、その国は、富を獲得したものだけが生き残る社会へと変質するのだ。

五、「人権思想」の限界(略)

地球全体の生態系も、種の多様性と多種間の連鎖によって成立しており、単一種、たとえば人間だけが存在するということはあり得ない。ましてや、人間が自然界において特別の権利を有しているはずもない。地球史上も、特定種だけが極端に増殖し、種の多様性が衰退したとき、生態系のバランスが大きく崩れて連鎖する生態系が滅びてきたと思われる。

このようなことを経験し学習した結果、知恵を蓄えた生き物は、他の種との共生、すなわち「自然との共生」が自己保存の唯一の手段であるということをわきまえてきた。

しかし、近代以降の人類は、この重要な大原則を積極的に切り崩しにかかった。いわゆる「人権思想」である。その思想の根底にあるのは、人間の存在には自然の法則は適応されず、「個々の人間は神から受けた絶対的権限を有する」というものだ。だから、人権は神以外の何者によっても侵されざる権利だというのである。

この考えでは、個人は社会全体よりも優越するのだから、自己の欲望を積極的に追求することは「自然権」として認められるのである。現代社会において、人権を抑制できるのは、自分が本来持っている「自然権」の一部を、国家の「法」にゆだねる代償として、自己の生命・財産の安全を国家に保障させるという、国家と個人の社会契約だけである。

この社会契約の立場から見れば、「法で禁じられていないことは何をやってもいいのか?」という質問には、躊躇なく「イエス!」という答えが返ってくるだろう。自己本位の利益追求は、「法」で制限されていないかぎり、「人権」によって正当化される。

国家から解放されたグローバル資本主義とは、個人の利益追求が自由に行なわれる場である。トマス・ホッブスが言うところの「万人の万人による戦い」としての自然状態で、金の力で生き残りを目指す社会だ。このような発想を正当化する社会は、個々の人間が社会や生態系の「癌細胞」になることを推奨しているようにしか見えない。そして「癌細胞」が増殖すれば、その連鎖体系にあるすべての存在が一緒に絶滅するわけだから、無関心でいるわけにもいかない。

「人権思想」から派生した「個人主義」や「ジコチュー(自己中心主義)」を放置しておいては、地球全体の生態系を危険にさらすことになる。」