少年に勇気を与えた高倉健の手紙
今から8年前、ぼくは豊島区東長崎に住んでいた。
午後3時前のことだった。部屋を出ようとした瞬間、建物が大きく揺れた。かつて経験したことのない大きな揺れに恐怖を抱き、このまま建物が崩壊して下敷きになるかもしれないと青ざめた。
巨大な揺れは1分ほど続いただろうか。実感はもっと長いのだが。なんとか収まりホッとして我に帰ってしばらくしてから、外の状況を知るためにテレビをつけることを思いつき、リモコンのボタンを押した。
各局とも巨大地震の発生を伝えている。震源地は東北沖らしい。あんな遠いところで起きたのに、東京がこれほど揺れるとは想像を超える巨大地震に違いない、と言葉にならない恐怖に襲われた。
テレビの映像は、巨大津波が陸地を侵食していく様子を、空撮により克明に映し出していた。自然の力の凄まじさを無慈悲にも見せつけられるような思いがする。
自然の前で人間はあまりにも非力で取るに足らない存在にすぎない、というあたりまえの真理を容赦なく叩きつけられる。
その日はずっとニュースに釘付けになった。
その頃ぼくは経営不振に陥った通信工事会社を辞め、タクシーの運転手に転職して2年半が経過していた。
翌日聞いた同僚の話によると、地震発生の後、電車は全線不通になりタクシーは混雑を極め、道路は車で溢れて渋滞となったために、なかなか前に進めず、売り上げは普段より少なかった、とのことだった。
ぼくが出勤した日は、電車は全線回復し車の渋滞も解消していたが、夜の街は明かりがすっかり消え、高速道路の照明も消えて、東京は暗くて異様な雰囲気に包まれてしまった。そして想像を絶する死者の数、原子炉の爆発!
東北大震災は戦後日本が経験する最大の危機だった。東京は東北から遠いとはいえ、放射能が風に運ばれて降ってくるとの報道も流れた。
震災以降、ぼくの身の回りは心理的にも物理的にも激変した。ぼくは東京での生活が気に入っていた。春夏秋冬、四季をめぐる自然の移り変わり、その美しさ、これはふるさと沖縄では絶対に味わうことのできない本土の自然の豊かな恵みだ。
そして沖縄とは違う本土文化の濃密さ深さ、仕事の厳しさ、これらすべてが好きである。しかし、だからといって故郷の文化が劣るという意味ではない。
沖縄の文化も本土の文化も同じように大好きである。ぼくは長い間、その違いを、体験を通じて楽しんできた。
しかし、震災以降ぼくの心に変化が生じた。潮時だ、故郷へ帰ろう。ひと月後、ぼくは沖縄に帰り、現在に至っている。
帰郷してしばらくしてからNHKが高倉健を取材した番組を放映した。ぼくはそれまで高倉健という俳優にそれほど関心を持ったことも、映画を見たこともなかった。
しかし、NHKの番組を観て衝撃を受けた。高倉健という俳優が人間として大好きになったのである。
それから新都心にあるツタヤ通いが始まる。高倉健主演の映画はCDを通してほとんど観尽くした、と言っても過言ではない。
中でも好きなものは繰り返し何度も鑑賞した。『あなたに褒められたくて』他関連書籍も何冊か購入した。新聞にある一枚の写真が載ったのはその頃のことである。
東北の人々が復興に汗を流している時、がれきの中をペットボトルを両手に持ち、唇をキッと結んだひとりの少年。
未曾有の不遇に負けない強い意志を感じさせるこの少年の姿に感動しない人はいないだろう。ぼくの心に強い印象を刻んだ写真である。
あれからアッという間に8年が過ぎた。
少年は成長して高校を卒業した。そして彼は8年前に高倉健から送られた手紙に返信を書いた。高倉健亡き後の返信だから、天国の高倉健宛に書いたことになる。
人々を感動させずにはおかない物語を、「日刊スポーツ」が記事にした。多くの方々に読んでもらいたい。
頑張れ東北!
11月3日、がれきのなか水を運ぶ松本魁翔さん(共同)
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