沖縄よ! 群星むりぶし日記

沖縄を、日本を、そして掛け替えのない惑星・地球を愛する者として発信していきます。

今上天皇のメッセージ

学童疎開の為、本土に向かった対馬丸は米潜水艦の魚雷攻撃によって大破し沈没した。まだ十代だった皇太子(今上天皇)は疎開先でこの事を知り衝撃を受ける。以来、対馬丸事件が皇太子の記憶から消えることはなかった。
沖縄は1972年に本土復帰した。その年の7月、明仁皇太子はひめゆりの塔に慰霊に向かわれた。献花される際、事件が発生した。皇太子めがけて火炎瓶が投げられ、献花台上で破裂炎上したのである。幸い、皇太子も皇太子妃もご無事であった。犯人はヘルメット姿の過激派だった。
当時の映像を見ると、人々が大混乱する中で、〜さん、大丈夫ですか、と案内役と思われる人を気遣う美智子皇太子妃の声を聞くことができる。明仁皇太子もさほど取り乱した様子は見られない。
この事件があった夜、皇太子は談話を公表した。
『 払われた多くの尊い犠牲は、一時の行為や言葉によってあがなえるものではなく、人々が長い年月をかけてこれを記憶し、一人一人、深い内省の中にあって、この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません』
この談話を聞いて心動かない県民はいないだろう。皇室に異議を唱え、直接暴力で訴えた犯人達の背後に、沖縄が歩んで来た苦難の歴史に想いをかける明仁皇太子。
その想いに偽りがないからこそ、目の前で火炎瓶が破裂炎上したくらいでたじろぐことはなかったのだ。
明仁皇太子は、幼い頃疎開先で対馬丸事件を知らされて以来、同じ年頃の学童疎開の悲劇に心を痛め、成長するに伴い沖縄のことを学び、想いを深めて来られたに違いない。そうでなければ、談話から滲み出る誠実さを理解することはできない。
打算のかけらも感じられない明仁皇太子の誠意溢れる一言一句は、皇室に対する沖縄県民の蟠りを溶かす象徴天皇になられる前の最初の意思表明となったような気がする。
あの時の談話に少しも嘘がないのは、天皇に即位してから何度も沖縄を訪れ、誠意に満ちたお言葉を残されてきた事実が証明している。
今上天皇は、七十歳の誕生日の記者会見で、次のように話された。
『私にとっては沖縄の歴史をひもとくということは島津氏の血を受けている者として心の痛むことでした。しかし、それであればこそ沖縄への理解を深め、沖縄の人々の気持ちが理解できるようにならなければならないと努めてきたつもりです』
1609年に島津氏が琉球に攻め入り、以来およそ260年間琉球を支配した。琉球・沖縄にとって苦難の歴史の始まりだった。
今上天皇は、沖縄の歴史をよく勉強し知悉しておられる。その上で「 島津氏の血を受けている者として心の痛むことでした」と述べておられる。なんと言うお方だろう。俗世の打算的世界から隔絶していなければ、このような純粋な感想が生まれることはない。
沖縄の歴史に打ち込まれた棘の先から滲み出る毒を溶かすことができるのは、天皇陛下のお言葉のみなのか?我々俗世に生きる人間はあまりにも打算的すぎる。打算が働くと、物事の真の解決はあり得ない。濁った解決で妥協せざるを得ない。それが俗世に生きる我々の宿命だ。
今上天皇は、六年前の誕生日の記者会見で、次のように語っておられる。
『沖縄は、いろいろな問題で苦労が多いことと察しています。その苦労があるだけに日本全体の人が、皆で沖縄の人々の苦労をしている面を考えていくということが大事ではないかと思っています』
今上天皇のお言葉は、共生の思想そのものだ。日本のどこかに苦労をしている人々がいれば、日本全体でその人々のことを考える。苦労を分かち合い共に生きる。
天皇陛下は、多分広大な米軍基地に苦しむ県民の苦労を語ったのだと思う。陛下は政治的発言はなさらない。だから米軍基地と直接的に言及するのではなく、間接的に県民の苦労と述べておられるのだ。
政治的発言ではないから、陛下の想いが頭の悪い安倍晋三に伝わるはずはない。県民の大多数が反対しているにもかかわらず、辺野古新基地を強行する安倍売国奴政権。
天皇皇后両陛下は、日本列島最西端の島与那国島を始めてご訪問されて、今日、沖縄空手会館で空手の演武をご覧になられてから東京の御所へお帰りになられた。
今回がおそらく沖縄最後のご訪問になるだろうと言われている。なんだか少し寂しい気もするが、天皇皇后両陛下のご健康を心からお祈りしたい。
今上天皇が残された沖縄に対する数々のメッセージを胸に秘めながら。

 

 

又吉(ヒジャイ)の低級民主主義を批判する11

又吉(ヒジャイ)が性懲りもなく民主主義を曲解して自慢している。自分は民主主義思想家だと言わんばかりのポーズは、彼の本質を知る人間にとっては、哀れな強がりにしか見えない。ぼくは当ブログで彼のデタラメ民主主義論をこれまで何度か批判してきた。今回は去年の6月以来となる。実は、その間何度も彼のデタラメな言論を批判する誘惑に駆られたのだが、彼の論調があまりにもレベルが低いので、貴重な時間を費やしてまで批判することもあるまいと自重してきた。しかし、やはり、この男がいい加減な言論活動を続ける限り、折を見て批判しなければならないだろうと思い直して、久しぶりに批判を試みることにした。
又吉(ヒジャイ)は、19日付琉球新報社説「前川氏の授業調査 国は『不当な支配』やめよ」に理不尽な難癖をつけている。
彼の論究は長すぎて全文掲載するのは億劫なので、論旨から外れない程度にその中の何ヶ所か引用しながら、彼特有の偏屈な思考傾向を指摘して批判のメスを入れることにする。

≪ 前川氏は文科省の組織的天下り問題で引責辞任しただけではない。出会い系バーに通っていたことを認めた人物である。そんな前川氏が名古屋市立中学の授業で講演したのである。大人たちを相手にした講演ならいいが、中学生に講演をしたのである。中学生に文部官僚のトップでありながら組織的天下りをやり、しかも出会い系バーに通った人物を講演させるなんてとんでもないことである。ところが琉球新報は、国は「不当な支配」をやめよと前川氏の講演を擁護したのである。頭がおかしくなったとしか思えない。≫
又吉(ヒジャイ)は前川氏が以前犯した過失を咎めて、大人相手の講演なら許されるが、中学生相手の講演は許されないと言って断罪している。前川氏の講演の内容が問題にされるべきはずなのに、講演者の過去の過失を非難して講演する資格はないと断言しているのだ。
これはどう考えてもおかしな理屈である。
何故なら、組織的天下り斡旋問題に関して前川氏は懲戒(停職)処分を受けて、この問題に対する禊は済んでいるからだ。にもかかわらず、又吉(ヒジャイ)は前川氏の過去の過失を引きずり回すことで、懲戒処分で幕が引かれたはずの正当性を否定しているのだ。
たとえ過去の過失は記録に残っても、禊ぎの済んだ人間が社会で生きていくためには、記録に拘束されないことが保証されなければならない。
それを保証する社会システムが民主主義である。又吉(ヒジャイ)は民主主義を形式的に理解するだけで、民主主義の本質を理解していない。又吉(ヒジャイ)は民主主義から遠いところにいる。
前川氏が出会い系バーに通った過去も又吉(ヒジャイ)は非難しているが、しかし、報道で知る限りでは、前川氏は風俗産業の実態を調査する目的だったと述べていた。前川氏の言い分を信じるか否かは、判断する側の勝手だが、ぼくはそんなことは大した問題ではないと思う。
中学生を前に講演する時に問題とされるべきは、講演の内容そのものであって、講演者の経歴は関係ない。又吉(ヒジャイ)のように講演の内容に言及しないで、講演者の経歴をあげつらって非難するのは卑劣な人間のすることである。

≪ 衆議員は国民の選挙で選ばれた国民の代理人である。議員が国民に代わって中学生に講演する資格のない人物が講演したことについて文科省に調査以来するのは当然である。このような議員による政治介入はどんどんやるべきである。
議員は国民に選ばれた人物である。しかし、校長は国民に選ばれてはいない。そのような校長が学校では独裁的な地位にある。≫
これは驚天動地の大変な問題発言であるが、同じような酷い発言を繰り返してきた又吉(ヒジャイ)の言論だと割り切れば、少しも不思議なことではない。
とは言っても、この発言はあまりにもむごすぎる。文章を読んで、全身が凍りつき思わずぶるっと震えてしまった。議会制民主主義というものを理解する能力が、又吉(ヒジャイ)は初歩の段階で止まったままだ。
選挙で選出された国会議員が、一国民が中学生に講演したことについて、文科省に調査依頼するのは当然であり、この種の政治介入はどんどんやるべきだと強調しているが、その論拠は、議員は国民に選ばれたからという単純な理屈だ。しかも前川氏を招聘した校長は国民から選ばれたわけではないので、学校では独裁的な地位にある、と頭が変になりそうな屁理屈を展開している。
この男をまともに相手にすると、こちらの身がもたないので、常識的判断にたち帰る必要がある。国会議員が国民による選挙で選ばれたからと言ってなんでもやって良いはずがない。そんなことを認めたら、それこそ独裁政治に扉を開くことになる。国会議員の役割は、国民のために働くことである。国民の活動を監視するために存在するのではない。むしろ国民としては、選んだ責任上、国会議員が間違った政治をしないかどうか、監視しなければならないのである。何故なら、彼らには立法権、行政権という権力が与えられているからだ。権力が暴走しないかどうか、絶えず監視する必要がある。
国会議員がまともな政治を行なっているかどうか、国民は監視する責任と義務がある。決してその逆であってはならない。
又吉(ヒジャイ)は何かにつけ独裁的という言葉を使いたがる。民主主義同様、彼のお気に入りの言葉だ。国民に選ばれていない校長が学校で独裁的地位にあると言うなら、会社の社長だって独裁的地位にあると言える。
そして、学校も会社も我が国には無数に存在する。とすれば、又吉(ヒジャイ)の論理に従えば、我が国は学校も会社も国民が選んだのではない独裁者が牛耳る世にも不思議な独裁国家ということになる。
又吉(ヒジャイ)の主張が論理破綻していることは、誰の目にも明らかだろう。彼は議会制民主主義を少しも理解していない。その理解度は中学生以下だ。

≪ しかし、上井校長は、
「何かした人は絶対にだめだとは、人権教育の上でもしたくない。過去の行為を切り離して考えた」
といって前川氏に講演をさせた。前川氏のやったことは「何かした」ではすまされないことである。上井校長がいう過去の行為とは、2017年1月20日に文部科学省における再就職等規制違反を受け文部科学次官を退任したことである。感動した三年前の講演よりも最近のことである。切り離すなら三年前に感動したことを切り離すべきである。最近のことを切り離しそれより前のことを優先された上井校長の説明には無理がある。中学校の校長として上井校長の判断は納得できるものではない。≫
又吉(ヒジャイ)は身勝手な性格の人間である。上の文章を読むと、それが良くわかる。上井校長は、三年前に聞いた前川氏の講演に感動した。だから自校の生徒達にも感動を分かち合えたらと考え、前川氏を招聘して講演してもらった。
そんな上井校長の善意を踏みにじって、3年前の感動を切り離すべきだと、又吉(ヒジャイ)は平気で言う。冷たすぎる。
3年前の感動よりも最近の過失を優先せよ、と言う又吉(ヒジャイ)は人間の善意が理解できない感性の貧弱な、単なる屁理屈家だ。

≪ 戦後の国家はその反省を踏まえ、国民主権によるシビリアンコントロールの政治になった。
教育もシビリアンコントロール下に置かれ政府以外の『不当な支配に服することなく』と規定した。だから、教育権の独立をうたっているのではない。国民の代表である政府のシビリアンコントロール下に置くと規定したのだ。
国民に選ばれた議員によって、国会で教育に関する法律を制定し、法律に則って文科省が全国の教育を指導している。教育者たちの行き過ぎた勝手な教育を戒め、あるべき教育を指導していくのが文科省である。新報のように「教育の独立」を主張して自分勝手な教育をするのは許されないことだ。自分勝手な教育を戒めるのも文科省の役目である。≫
上の文章も驚天動地、怖るべき内容である。教育もシビリアンコントロール下に置かれ、とは一体どう言う意味だ? この場合のシビリアンとは一体誰を指しているのだ?
又吉(ヒジャイ)君、言葉は正確に使いなさい。
シビリアンコントロールとは、文民が軍部に対して最高指揮権を持つこと、という意味だろう。その解釈でいくと、教育を政府のシビリアンコントロール下に置くという又吉(ヒジャイ)の定義は全く意味をなさないばかりか、危険でさへある。
又吉(ヒジャイ)の考え方は、全体主義へ通じる危険性を内包している。彼は民主主義者を装っているに過ぎない。状況さへ変われば容易に全体主義へ流れる体質の持ち主だ。上の文章を読めば、そう思わざるを得ない。

≪ 新報社説
・・・多様性や異論を認めない国家中心主義が今回の問題の土壌にあるとしたら、警戒を強めなければならない・・・
だから、官僚トップが絶対にやってはいけない組織的天下り斡旋をやり、出会い系バーに通っていたことを認めた前川氏を中学生相手に講演させたことを新報は調査するなというのか。
中学生相手の講演をやる資格を問われる前川氏を校長の独断で講演させたことを調査もしないというのなら、日本の中学校は校長の独裁学校になってしまう。民主主義国家の日本であるのに中学校は独裁学校であるということは許されないことである。新報は中学校が校長の勝手ができる校長独裁学校にしたいのか。≫
又吉(ヒジャイ)は民主主義者を自認しながら、主権在民と謳われた憲法の国民よりも、国民に選ばれた政治家を上位においてものを考えている。
教育者を疑い、中学生の前で講演するなんの権限も持たない一国民を疑い、教育現場の在り方に疑問を呈し、返す刀で教育現場に政府が介入することになんのためらいも感じない。又吉(ヒジャイ)と言う人間は、権力者寄りの危険な男、主権在民の敵である。

≪ 前川氏の講演を聞いた中学生がグーグルで前川氏のことを調べる可能性は高い。前川氏に講演を依頼するなら、中学生が前川氏のことをネットで調べることを想定するべきである。新報は前川氏の講演は、天下り加計学園がテーマではなく、自らの不登校経験や学ぶ力の大事さ、多文化共生社会など、中学生に生き方を説く内容だったからいいと判断しているが、中学生がネットで前川氏のことを調べることを想定していない。
前川氏の講演に感動した中学生がネットで調べて、前川氏が官僚のトップの地位にありながら天下り斡旋の罪で文科省を辞めさせられ、しかも出会い系バーに入り浸り買春行為をしていたことを知ったら、中学生は前川氏だけでなく上井校長への不信感、学校や大人への不信感が生まれていくだろう。
新報は学校教育の自主性を理由に前川氏の講演に賛成しているが、中学生の教育はそれでいいのだろうか。≫
又吉(ヒジャイ)は今の中学生を軽く見ている。というよりも軽蔑していると言ったほうがいいかもしれない。上の文章は如実にそのことを語っている。
前川氏の講演を聞いて感動した中学生が前川氏のことをもっと知りたいと思い、ネットで検索したと仮定しよう。そして又吉(ヒジャイ)が言うように、前川氏が現役の頃の懲戒処分と出会い系バー通いの経歴を見たとする。その時、確かに中学生はショックを受けるに違いない。標準的基準で考えるならそういうことになる。
しかし、もう少し探究心のある生徒なら、もっといろいろなことも検索するはずだ。
現役の頃に残した前川氏の立派な業績、退官後、厚木市福島市の自主夜間中学で、週一回講師を務めている活動などを知るかもしれない。
「 人はいくつになっても学ぶ権利があり、学べる手立てが講じられるべきだ。夜間中学は義務教育の最期のよりどころである」として、夜間中学の拡充を訴えている前川氏を発見する可能性だってあるだろう。
それらの事をネットで知った中学生は、前川氏を人間としてどう評価するだろうか?
生徒一人一人違うだろうが、ぼくは、彼らが肯定的に評価してくれると信じたい。
人間を一面だけから捉えるのではなく、全体像を見て判断する。今の中学生にこのくらいの判断力は備わっていると信じたい。
又吉(ヒジャイ)は人間を一面だけ捉えて、そこに現れた欠点を強調し、全人格を否定する方向に走る。そして、そのような過去に過失のあった人間には中学生相手に講演をする資格はないと糾弾する。ネトウヨに共通する有無を言わせぬ排除の論理だ。これでは社会が歪み、健全な教育が育つことはない。成長著しい中学生諸君に排除の論理を押し付けることをしてはいけない。

今回の文部科学省による前川喜平前事務次官の授業内容報告要請は、政治家の文科省に対する働きかけが発端である。自民党赤池誠章参議院議員と同じ自民党池田佳隆衆議院議員。赤城氏は自民党文科部会の部会長、池田氏は部会長代理。この役職にある二人の議員が文科省に個別の授業内容について問い合わせること自体、異常なことである。
池田議員は安倍首相チルドレンと呼ばれても良いような人物だ。そして前川前事務次官加計学園問題で安倍政権を批判したことを考えると、今回の問題の構図がはっきりしてくる。安倍政権を批判した前川喜平はけしからん、八王子中学校でどんな行動したのか調べる必要がある!というわけだ。
しかしその結果はなんともお粗末である。一民間人に過ぎない前川氏が中学校で講演した事実の他に、なんら特別なものは何一つ出てこなかったのである。
後に残ったのは、赤池議員と池田議員の行き過ぎた行動だけである。その生き過ぎた行動を琉球新報が社説で批判した。その社説を又吉(ヒジャイ)が民主主義の印籠を振りかざして批判した。しかし彼が振りかざす印籠は偽物である。
笑いたくても笑えない又吉(ヒジャイ)のあまりにも的外れで低級な民主主義論を聞かされるとは、もういい加減にしてくれよ、と言いたくなるが、しかし、彼が沖縄を貶める言論活動を続ける限り、折を見て批判のメスを入れ、さらに徹底的に叩いてやる。


 

政府、代替案応じず

昨日のブログで、辺野古新基地の代替案についての翁長知事の発言を批判したが、実は今日、切り抜き記事を整理していて見落としがあることに気づいた。昨日参照した記事は、新報の3月17日付の記事だが、その2日前の15日付同紙に知事の代替案発言が載っているのを見逃していたのだ。17日の記事と内容が多少異なるので検討してみたい。

15日付の記事によると、翁長知事は米国ワシントンでのシンポジウム後の会見で次のように語っている。

「 副知事が柔軟性を持って(辺野古以外の)いろんな案について政府の話も聞いた。ただ残念ながら(政府が)辺野古唯一という姿勢が変わったことは一度もなかった」

「 シュワブやハンセン内にヘリポートをという話が少しでも出たら、地元は『とんでもない』となる。県民の思いもばらばらになり、政府は高みの見物をする。県民の心を割る。慎重にやらないといけないことははっきりしている」

官房長官や副長官、防衛大臣と1、2時間しっかり議論させていただく場をつくっていただかないと、(県が)代替案を出すことはできても、(日米)両政府がそれをどう議論してくれるのか、そこがポイントになると思う」

以上の発言からわかることは、辺野古以外の代替案について、県側は政府と何らかの形で話し合ったことがある。提案した具体的中身には触れていないが、ここで知事はハンセン内という言葉を使っている。続いて「シュワブやハンセン内にヘリポートをという話が少しでも出たら、 地元は『とんでもない』となる。」と語っているところを見ると、ハンセン内移設(これは昨日紹介した『この一冊ですべてがわかる普天間問題』の著者小川和久氏の構想)を提案することには消極的で、政府との話し合いでこの言葉が出たかどうか、確証はつかめない。とは言うものの、翁長知事がハンセン内という言葉を使っているところをみると、個人的に関心を持っていることは間違いないと言えそうだ。

勝手な推測だが、知事は小川氏の本を読んだのではないだろうか。ぼくが3年前に知事宛に送った本か、あるいは違う筋から入手したものかどうかは問題ではない。もし知事が読んだとすれば、小川氏の具体的かつ現実的な構想に心が動いた可能性は高い。

ただ残念なことに、上の発言だけで判断すると、知事はハンセン内移設構想に積極的ではない。県内移設だからという理由で県民が反対することを恐れている。

しかし、知事に強く要請したい。小川氏のハンセン内移設構想が実行に移されれば、2、3年内に移設は完了する。現行のシュワブ案のように大浦湾の美しい貴重な海も砂浜も埋め立てる必要がない。工期は短く、建設費(日本人の血税)も安く抑えられる。

大田知事に普天間飛行場返還を政府に要請するよう促した小川和久氏は以来ずっと、普天間問題に直接的間接的に関わってきた人物だ。そして氏のハンセン内移設構想を、政府は一時期容認する姿勢を示したことがあった。しかし、時の官房長官梶山静六菅義偉官房長官の親分)がボツにしたのだ。

政界は泥沼の世界だ。そこで跳梁跋扈する既得権益を重視する政治家が蠢いて、普天間問題を解決する最善・最良の小川構想を葬り去ったのだ。前近代的政党自民党の厚い壁を突き崩すのは容易なことではない。

官房長官や副長官、防衛大臣と1、2時間しっかり議論させていただく場をつくっていただく」ことを翁長知事は希望しているようだが、その実現のために果たして知事はベストを尽くしたことがあるだろうか? 翁長県政が「 あらゆる手段を使って」政府に対し、代替案を説明するために1、2時間の交渉時間を要求したとは思われない。

翁長知事に辺野古に代わる代替案を政府に突きつける気持ちが本当にあるなら、あらゆる人脈(小川氏を含む)を動員駆使して、政府の説得にあたり、説明に充分な時間を確保すべきだろう。と同時に、県内移設だから県民が反対するであろうなどと、説明もしない前から恐れるのではなく、ハンセン内移設は辺野古移設に代わる最善最良の政策であることを、県民に誠意を持って説明し、県民を説得するべきではないか。

そんなこともできないようでは、オール沖縄の名前が泣くぞ。

 

翁長知事代替案に慎重姿勢

今朝の琉球新報は、翁長知事の辺野古新基地に代わる代替案の発言について報道している。

翁長知事の発言。「(日米両政府にとって)現行案よりも厳しい案を出しても(両政府が)OKするわけない。代替案が出るということは譲歩であり、県民がまだそれを理解するような状況ではない。代替案を出すからには妥協が大事だが、県民が妥協する要素は今のところない。私の政治的なセンスからすると、権力の弱い沖縄から、(日本政府に対し)これでどうかと話をして物事が進むような、良くなるようなことは、今のところ見えない」

この翁長知事の発言は、知事の心境を読み解くうえで、又、知事の政治手法を理解するうえで非常に重要と思われる。まず翁長知事の頭の中に代替案があるのは間違いない。しかし、その代替案が具体的にどのようなものかについては言及していない。にもかかわらず、ここが大事なポイントだが、「 代替案が出るということは譲歩であり、県民がまだそれを理解するような状況ではない。代替案を出すからには妥協が大事だが、県民が妥協する要素は今のところない。」と言っている。

この発言の意味するところは、< 私は代替案を持っているが、それはキャンプシュワブに代わる県内移設である。県内移設(キャンプハンセン?)である以上、今まで主張してきた県外移設から一歩後退した譲歩であり、県民は納得しないだろう。私は政治に妥協はつきものだと思っているが、今のところ県民が政治的妥協を認める要素は見当たらない。>

というふうに、ぼくは解釈する。そして問題なのは、この場合の県民とは一体誰のことを指しているのか、はっきりしないことである。もし一般的な意味での有権者とすれば、翁長知事の発言はおかしい。何故なら、代替案をこれまで一度も示したこともないのに、県民が譲歩ないし妥協を認めないだろうと勝手に決めつけているからだ。これはおかしい。そこでぼくなりに解釈すると、翁長知事のいう県民とは、実は県政与党の議員達のことではないか、とりわけ所謂、革新系と呼ばれる議員達を指しているのではないか。革新系議員なら、県内移設に反対するだろう。安全保障に関しては、視野の狭い連中だから、さもありなん。

この仮説が事実なら、翁長知事に同情すると同時に残念と言わざるを得ない。革新系と保守系の合流は、アイデンティティーの強い沖縄でもやはり無理なのか。翁長知事の政治的力量に期待していたのだが。勿論、以上述べてきた事は、すべてぼくの独断的解釈にすぎない。

ついでに言わせてもらうなら、翁長知事の次の発言はいただけない。「 私の政治的なセンスからすると、権力の弱い沖縄から、(日本政府に対し)これでどうかと話をして物事が進むような、良くなるようなことは、今のところ見えない」

翁長知事と雖も、このような発言は慎むべきだろう。と言うより、これは敗北宣言に等しい、と言わざるを得ないからだ。安倍内閣がどんなに分からず屋の強権的政権としても、県民から30万票も頂いた沖縄県知事としては、代替案があれば、政府に対し堂々と提案するべきである。そして政府から拒否されたならその理由と経過を県民に明らかにすれば良いだけの話だ。

それよりも何よりも、奥港と本部港の使用許可を早急に取り消すべきだろう。カヌーで日々、命がけで必死に抗議を続ける県民に対し、後ろから石を投げるようなことをしてはダメだ。今すぐにでも許可を取り消せ!

 

辺野古新基地に代わる代替案

 辺野古新基地阻止を訴える翁長知事が、4回目の訪米直前、那覇空港で「代替案の模索」について初めて言及した、との報道があった。名護市長選に敗れた上更に、訪米中に岩礁破砕差止訴訟敗訴を聞かされた翁長知事の心情を思うと、実に痛ましい感がするのだが、新聞で「代替案の模索」の文字を見た時、思わずあっと唸ってしまった。

と言うのも3年前、ぼくは翁長知事と菅官房長官宛に代替案の手紙を送ったことがあったからだ。当然、其々に文面の違う手紙だが、内容は共通している。その内容とは、小川和久著『普天間問題』(副題:この一冊ですべてがわかる)において言及されたキャンプハンセン移設を提案したものだ。

手紙と同時に、アマゾンを通して同著書を翁長知事と菅官房長官宛に送った。しかし、両者から返事が来ることはなかった。だから手紙も本も受け取ったかどうか、あるいは受け取りはしたが完全に無視したのかどうかさへ、全くわからない。もし受け取ったのなら、手紙に対する返事はなくても、本を進呈されたら感謝の一言くらい寄越すのが礼儀だと思うが。

さて、あれから3年が過ぎ、ぼく自身辺野古阻止運動に、去年の夏場だけとはいえ直接参加したこともあって、この件は完全に頭から消え去っていたのだが、しかし、今朝の新報の報道で「代替案の模索」と言う文字を目にして、もしや、と3年前のことを思い出したのである。

小川和久著『普天間問題』を何故、翁長知事と菅官房長官宛に送ったのか。 それは小川氏の提言が深い軍事知識に裏付けられた合理的かつ現実的な構想であり、普天間問題を解決する最も有力な提言だと考えたからである。

この本の出版は2010年だから、今からおよそ8年前になるが、しかし内容は少しも古くない。むしろ今読み返しても強い説得力を持って迫ってくる。だからこそ小川氏の論理展開の迫力に心動かされて、矢も盾もたまらずに翁長知事と菅官房長官宛手紙で、小川氏を中心とする委員会を組織して、普天間飛行場移設問題の解決を図ってはどうか、と提案したのである。

同著で小川氏は、現在のキャンプシュワブ埋め立て案ではなく、キャンプハンセン内移設を提案している。キャンプシュワブ案に比べて、工期は極端に短縮できるし、建設費(血税)もかなり安く済む。そして工事の間、普天間飛行場を他の米軍飛行場に仮移駐して同飛行場を閉鎖状態にする。以上のような構想の実現性を具体的に論証しているのだ。

普天間解決に必要な具体的作業

作業1・・普天間飛行場の航空機を「仮の移駐先」に移動させる。

作業2・・日米同盟はベターな選択であることを、沖縄県民と確認する。

作業3・・沖縄が米軍基地問題を解決する条件を、沖縄県民と確認する。

作業4・・普天間返還を突破口に、沖縄の未来を展望し、その自立を実現する構想を描き、本格的な移設先を決定する。≫

そして小川氏は、今後の米軍基地の整理・統合・縮小に向けたロードマップ(時系列の工程表)を作る必要性を説いて次のように言う。

≪ ロードマップの終着点は「日米関係を壊すことなく、沖縄の軍事基地をすべて廃止する」ことですが、これには10年どころか、100年以上かかるかもしれません。期限は示さなくても、それが最終目標だとしておけばよいでしょう。そして、その目標に向けて、日本が平和主義によるイニシアチブをとってアメリカとの同盟関係を変容させ、そのなかで極東、アジア、世界の軍縮を進め、沖縄米軍基地も減らしていくという工程表を描くのです。≫

ここまで言える小川和久氏は、単に軍事評論家と呼ぶより軍事思想家と呼ぶほうが適当ではないだろうか。小川氏の軍事知識は、他の追随を許さない程深いのだ。

翁長知事の「代替案の模索」の中に、小川氏が描く構想が影響しているかどうか、これからの翁長知事の発言に注目する必要がある。

 

南から北へ散っていく桜花

緋寒桜が散って 、春の光を受ける青葉が瑞々しい。中には花が残っている木も見られるが、仲間外れにされているようでなんだか哀れに感じられる。日本列島の桜前線は沖縄からスタートして次第に北上していく。

第二の故郷、東京のソメイヨシノはいつ頃咲くだろうか? 緋寒桜と違い、ソメイヨシノは短命だ。人生の儚さを象徴するように一気に満開になり、一気に散る。武士道とは死ぬ事と見つけたり。死を恐れぬ武士の勇ましさは、惜しげも無く美を捨て去る桜の潔さに倣ったのだろうか? 日本人は桜が好きだ、という表現はあまりにも単調すぎる。世界がいっきに豪華絢爛となり、ぱっと消える。

狂喜が狂気になるという信じられない夢のような世界を、ぼくは長い東京暮らしで、毎年体験してきた。7年前、東北大震災が起きた後、1ヶ月後に、ぼくは沖縄に帰ってきた。あれ以来、ソメイヨシノの花吹雪を観ていない。

緋寒桜なんてつまらない。ぼくにとって、桜の花と言えばソメイヨシノだけだ。緋寒桜を可愛い女子学生とすれば、ソメイヨシノは薄命の絶世の美女だ。永遠に手の届かない叶わぬ夢。だから狂喜が狂気となる。

それでもソメイヨシノは桜ではないと言った人がいた。小林秀雄だ。美食家にして常識の大家とも言える小林秀雄によると、本物の桜の花は山桜らしい。

敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花

ぼくに神道を開眼させてくれた本居宣長も山桜花をこよなく愛した一人だ。その山桜花というものをぼくはまだ見たことがない。生きてるうちに見る機会はあるのだろうか。いつか是非見たいと思うのだが。

桜の種類は結構あるらしいが、その中でも十数年前テレビで見た緑色の桜の花に驚いたことがある。しかしさらに驚いたのは、この緑色をした桜花に、ぼくは全く偶然に出逢ったのだ。東急田園都市線桜新町駅という駅がある。この駅から用賀駅に至る線路は地下を走っているが、その上の道路が桜並木になっている。桜新町駅から職場に通うのにいつもこの通りを歩いていたが、ある日突然、満開の桜の木で一本だけ様子がおかしいのに気づいた。近づくと花の色が緑色なので驚くと同時に感動したのである。

大分前テレビで見たあの桜である。名札を見ると御衣黄とある。木も花も桜そのものだが花の色が緑色なのだ。同じ通りにもう一本あることがわかった。偶然とは不思議なもので、ほとんど奇跡のような感じがした。思えば、この世そのものが奇跡なのかもしれない。インド人はこの世をマーヤ(幻)と呼ぶらしい。少しわかるような気がしないでもない。

奇跡の中の現実。桜前線。東北の桜はいつ咲くだろうか? 今年も間違いなく満開となり、花吹雪、花嵐となることだろう。千の風になって東北の花吹雪にまみれてみたい。厳寒の冬を潜り抜けて桜の花が咲く。春夏秋冬、四季のはっきりした本土で暮らす人々が、嗚呼なんとも羨ましい。

 

米朝首脳会談は拉致被害者全員を取り戻す最大のチャンス

トランプ大統領金正恩朝鮮労働党委員長の首脳会談提案を受け入れた。予測不能トランプ大統領の面目躍如といったところだが、実現すれば日本にとっては、拉致被害者を取り戻すための最大のチャンスとなる。

このチャンスを確実に活かすためには、北朝鮮、韓国、米国そして日本の当事者同士がwin-winとなる取引を構築できるかどうかが問われることになる。この場合、各国が共通の了解事項とすべき基本原則は、自国の主張を相手国に全部受け入れるよう強制しないことだ。

この基本原則がまず了解されなければ、交渉そのものが成り立たない。まずそのことを前提とした上で、国際政治の素人にすぎないぼく自身の見解を述べたい。四ヶ国の思惑は、当然ながらそれぞれ異なる。文在寅大統領の目的は、戦争を絶対にくい止めることと、朝鮮民族最大の悲願南北統一の実現である。入手できる情報を見る限り、文大統領の意志は鋼鉄のように硬い。金正恩委員長も文大統領の主張に異議を唱えることはないだろう。むしろこの若き異能の政治家金委員長こそソ連、中国、米国、そして日本の干渉に翻弄されズタズタに引き裂かれてきた朝鮮民族の歴史的悲劇を知悉している。南北統一は金親子三代に渡る最終目的だと言える。両国の主張に対してトランプ大統領も安倍首相も賛成するだろう。ただし条件が付く。その条件とは、朝鮮半島の非核化である。

この非核化をめぐる交渉が最大の難関になる筈で、ここをうまく乗り越える事ができるかどうかで極東に平和が訪れるか、もしくは武力衝突に至るかの分岐点になる可能性さへある。

トランプ大統領も安倍首相も、今までの主張通り完全非核化を主張するだろう。金正恩委員長も非核化の用意があると伝えて、米朝首脳会談の誘い水にしている。実は、この金委員長の発言が曲者だ。

なぜなら北朝鮮事情に詳しいプーチン大統領が言ったように、「彼らは草を食べることになっても核兵器開発を諦めることはない」からだ。もしそうだとすれば、金委員長の言う非核化の中身が具体的にどのようなものかが問題になる。現在所有している核兵器のうち、米国に届くとされるICMBのみを廃止すると同時に今後の開発を凍結する。その代わり残りの核兵器保有を認めるよう迫る。

とりも直さず、これが北朝鮮の国体保持のための最低条件だと金委員長は強調するに違いない。この提案をトランプ大統領が呑むかどうかは、極めて微妙なギリギリの線だろう。金正恩とトランプ氏の交渉の最大の見せ場になる筈だ。結果が吉と出るか、凶と出るか、神のみぞ知る。

さて、そこで脇役の安倍首相がやるべきことは、四月初旬に予定されているトランプ大統領との会談で、拉致被害者全員の帰国を条件に、金委員長が提案してくるであろう先に述べた条件を日本としては受け入れるから、その線で解決の糸口を見つけて欲しいと、要望することだ。

米国に届くICBMの廃棄と核開発の凍結、そして残る核兵器保有の承認。拉致被害者全員の日本への帰国。この図式が成立するならば、当事国全てがwin-winとなると思うが、いかがなものだろうか。

勿論、日本としては北朝鮮を核保有国として承認する覚悟が求められるだろう。しかし、それでも拉致被害者全員を取り戻す事ができれば、良しとするべきではないか。朝鮮半島の緊張緩和のために南北統一に向けて、日本が積極的に助力するぐらいの度量が政治家にあってもいいと思うが。

ただ懸念されることは、お坊ちゃん政治家・安倍首相にそれだけの頭と胆力があるかどうかだ。安倍晋三になくても、誰か周りの知恵者が安倍の尻を叩いて、実行させて欲しいものだ。拉致被害家族に残された時間はない。米朝首脳会談は拉致被害者を取り戻す千歳一遇の好機と成り得る。

安倍内閣には是非持てる力全てをこの一点に投入してもらいたい。一国民として切に要望する。