又吉(ヒジャイ)の低級民主主義を批判する11
又吉(ヒジャイ)が性懲りもなく民主主義を曲解して自慢している。自分は民主主義思想家だと言わんばかりのポーズは、彼の本質を知る人間にとっては、哀れな強がりにしか見えない。ぼくは当ブログで彼のデタラメ民主主義論をこれまで何度か批判してきた。今回は去年の6月以来となる。実は、その間何度も彼のデタラメな言論を批判する誘惑に駆られたのだが、彼の論調があまりにもレベルが低いので、貴重な時間を費やしてまで批判することもあるまいと自重してきた。しかし、やはり、この男がいい加減な言論活動を続ける限り、折を見て批判しなければならないだろうと思い直して、久しぶりに批判を試みることにした。
又吉(ヒジャイ)は、19日付琉球新報社説「前川氏の授業調査 国は『不当な支配』やめよ」に理不尽な難癖をつけている。
彼の論究は長すぎて全文掲載するのは億劫なので、論旨から外れない程度にその中の何ヶ所か引用しながら、彼特有の偏屈な思考傾向を指摘して批判のメスを入れることにする。
≪ 前川氏は文科省の組織的天下り問題で引責辞任しただけではない。出会い系バーに通っていたことを認めた人物である。そんな前川氏が名古屋市立中学の授業で講演したのである。大人たちを相手にした講演ならいいが、中学生に講演をしたのである。中学生に文部官僚のトップでありながら組織的天下りをやり、しかも出会い系バーに通った人物を講演させるなんてとんでもないことである。ところが琉球新報は、国は「不当な支配」をやめよと前川氏の講演を擁護したのである。頭がおかしくなったとしか思えない。≫
又吉(ヒジャイ)は前川氏が以前犯した過失を咎めて、大人相手の講演なら許されるが、中学生相手の講演は許されないと言って断罪している。前川氏の講演の内容が問題にされるべきはずなのに、講演者の過去の過失を非難して講演する資格はないと断言しているのだ。
これはどう考えてもおかしな理屈である。
何故なら、組織的天下り斡旋問題に関して前川氏は懲戒(停職)処分を受けて、この問題に対する禊は済んでいるからだ。にもかかわらず、又吉(ヒジャイ)は前川氏の過去の過失を引きずり回すことで、懲戒処分で幕が引かれたはずの正当性を否定しているのだ。
たとえ過去の過失は記録に残っても、禊ぎの済んだ人間が社会で生きていくためには、記録に拘束されないことが保証されなければならない。
それを保証する社会システムが民主主義である。又吉(ヒジャイ)は民主主義を形式的に理解するだけで、民主主義の本質を理解していない。又吉(ヒジャイ)は民主主義から遠いところにいる。
前川氏が出会い系バーに通った過去も又吉(ヒジャイ)は非難しているが、しかし、報道で知る限りでは、前川氏は風俗産業の実態を調査する目的だったと述べていた。前川氏の言い分を信じるか否かは、判断する側の勝手だが、ぼくはそんなことは大した問題ではないと思う。
中学生を前に講演する時に問題とされるべきは、講演の内容そのものであって、講演者の経歴は関係ない。又吉(ヒジャイ)のように講演の内容に言及しないで、講演者の経歴をあげつらって非難するのは卑劣な人間のすることである。
≪ 衆議員は国民の選挙で選ばれた国民の代理人である。議員が国民に代わって中学生に講演する資格のない人物が講演したことについて文科省に調査以来するのは当然である。このような議員による政治介入はどんどんやるべきである。
議員は国民に選ばれた人物である。しかし、校長は国民に選ばれてはいない。そのような校長が学校では独裁的な地位にある。≫
これは驚天動地の大変な問題発言であるが、同じような酷い発言を繰り返してきた又吉(ヒジャイ)の言論だと割り切れば、少しも不思議なことではない。
とは言っても、この発言はあまりにもむごすぎる。文章を読んで、全身が凍りつき思わずぶるっと震えてしまった。議会制民主主義というものを理解する能力が、又吉(ヒジャイ)は初歩の段階で止まったままだ。
選挙で選出された国会議員が、一国民が中学生に講演したことについて、文科省に調査依頼するのは当然であり、この種の政治介入はどんどんやるべきだと強調しているが、その論拠は、議員は国民に選ばれたからという単純な理屈だ。しかも前川氏を招聘した校長は国民から選ばれたわけではないので、学校では独裁的な地位にある、と頭が変になりそうな屁理屈を展開している。
この男をまともに相手にすると、こちらの身がもたないので、常識的判断にたち帰る必要がある。国会議員が国民による選挙で選ばれたからと言ってなんでもやって良いはずがない。そんなことを認めたら、それこそ独裁政治に扉を開くことになる。国会議員の役割は、国民のために働くことである。国民の活動を監視するために存在するのではない。むしろ国民としては、選んだ責任上、国会議員が間違った政治をしないかどうか、監視しなければならないのである。何故なら、彼らには立法権、行政権という権力が与えられているからだ。権力が暴走しないかどうか、絶えず監視する必要がある。
国会議員がまともな政治を行なっているかどうか、国民は監視する責任と義務がある。決してその逆であってはならない。
又吉(ヒジャイ)は何かにつけ独裁的という言葉を使いたがる。民主主義同様、彼のお気に入りの言葉だ。国民に選ばれていない校長が学校で独裁的地位にあると言うなら、会社の社長だって独裁的地位にあると言える。
そして、学校も会社も我が国には無数に存在する。とすれば、又吉(ヒジャイ)の論理に従えば、我が国は学校も会社も国民が選んだのではない独裁者が牛耳る世にも不思議な独裁国家ということになる。
又吉(ヒジャイ)の主張が論理破綻していることは、誰の目にも明らかだろう。彼は議会制民主主義を少しも理解していない。その理解度は中学生以下だ。
≪ しかし、上井校長は、
「何かした人は絶対にだめだとは、人権教育の上でもしたくない。過去の行為を切り離して考えた」
といって前川氏に講演をさせた。前川氏のやったことは「何かした」ではすまされないことである。上井校長がいう過去の行為とは、2017年1月20日に文部科学省における再就職等規制違反を受け文部科学次官を退任したことである。感動した三年前の講演よりも最近のことである。切り離すなら三年前に感動したことを切り離すべきである。最近のことを切り離しそれより前のことを優先された上井校長の説明には無理がある。中学校の校長として上井校長の判断は納得できるものではない。≫
又吉(ヒジャイ)は身勝手な性格の人間である。上の文章を読むと、それが良くわかる。上井校長は、三年前に聞いた前川氏の講演に感動した。だから自校の生徒達にも感動を分かち合えたらと考え、前川氏を招聘して講演してもらった。
そんな上井校長の善意を踏みにじって、3年前の感動を切り離すべきだと、又吉(ヒジャイ)は平気で言う。冷たすぎる。
3年前の感動よりも最近の過失を優先せよ、と言う又吉(ヒジャイ)は人間の善意が理解できない感性の貧弱な、単なる屁理屈家だ。
≪ 戦後の国家はその反省を踏まえ、国民主権によるシビリアンコントロールの政治になった。
教育もシビリアンコントロール下に置かれ政府以外の『不当な支配に服することなく』と規定した。だから、教育権の独立をうたっているのではない。国民の代表である政府のシビリアンコントロール下に置くと規定したのだ。
国民に選ばれた議員によって、国会で教育に関する法律を制定し、法律に則って文科省が全国の教育を指導している。教育者たちの行き過ぎた勝手な教育を戒め、あるべき教育を指導していくのが文科省である。新報のように「教育の独立」を主張して自分勝手な教育をするのは許されないことだ。自分勝手な教育を戒めるのも文科省の役目である。≫
上の文章も驚天動地、怖るべき内容である。教育もシビリアンコントロール下に置かれ、とは一体どう言う意味だ? この場合のシビリアンとは一体誰を指しているのだ?
又吉(ヒジャイ)君、言葉は正確に使いなさい。
シビリアンコントロールとは、文民が軍部に対して最高指揮権を持つこと、という意味だろう。その解釈でいくと、教育を政府のシビリアンコントロール下に置くという又吉(ヒジャイ)の定義は全く意味をなさないばかりか、危険でさへある。
又吉(ヒジャイ)の考え方は、全体主義へ通じる危険性を内包している。彼は民主主義者を装っているに過ぎない。状況さへ変われば容易に全体主義へ流れる体質の持ち主だ。上の文章を読めば、そう思わざるを得ない。
≪ 新報社説
・・・多様性や異論を認めない国家中心主義が今回の問題の土壌にあるとしたら、警戒を強めなければならない・・・
だから、官僚トップが絶対にやってはいけない組織的天下り斡旋をやり、出会い系バーに通っていたことを認めた前川氏を中学生相手に講演させたことを新報は調査するなというのか。
中学生相手の講演をやる資格を問われる前川氏を校長の独断で講演させたことを調査もしないというのなら、日本の中学校は校長の独裁学校になってしまう。民主主義国家の日本であるのに中学校は独裁学校であるということは許されないことである。新報は中学校が校長の勝手ができる校長独裁学校にしたいのか。≫
又吉(ヒジャイ)は民主主義者を自認しながら、主権在民と謳われた憲法の国民よりも、国民に選ばれた政治家を上位においてものを考えている。
教育者を疑い、中学生の前で講演するなんの権限も持たない一国民を疑い、教育現場の在り方に疑問を呈し、返す刀で教育現場に政府が介入することになんのためらいも感じない。又吉(ヒジャイ)と言う人間は、権力者寄りの危険な男、主権在民の敵である。
≪ 前川氏の講演を聞いた中学生がグーグルで前川氏のことを調べる可能性は高い。前川氏に講演を依頼するなら、中学生が前川氏のことをネットで調べることを想定するべきである。新報は前川氏の講演は、天下りや加計学園がテーマではなく、自らの不登校経験や学ぶ力の大事さ、多文化共生社会など、中学生に生き方を説く内容だったからいいと判断しているが、中学生がネットで前川氏のことを調べることを想定していない。
前川氏の講演に感動した中学生がネットで調べて、前川氏が官僚のトップの地位にありながら天下り斡旋の罪で文科省を辞めさせられ、しかも出会い系バーに入り浸り買春行為をしていたことを知ったら、中学生は前川氏だけでなく上井校長への不信感、学校や大人への不信感が生まれていくだろう。
新報は学校教育の自主性を理由に前川氏の講演に賛成しているが、中学生の教育はそれでいいのだろうか。≫
又吉(ヒジャイ)は今の中学生を軽く見ている。というよりも軽蔑していると言ったほうがいいかもしれない。上の文章は如実にそのことを語っている。
前川氏の講演を聞いて感動した中学生が前川氏のことをもっと知りたいと思い、ネットで検索したと仮定しよう。そして又吉(ヒジャイ)が言うように、前川氏が現役の頃の懲戒処分と出会い系バー通いの経歴を見たとする。その時、確かに中学生はショックを受けるに違いない。標準的基準で考えるならそういうことになる。
しかし、もう少し探究心のある生徒なら、もっといろいろなことも検索するはずだ。
現役の頃に残した前川氏の立派な業績、退官後、厚木市と福島市の自主夜間中学で、週一回講師を務めている活動などを知るかもしれない。
「 人はいくつになっても学ぶ権利があり、学べる手立てが講じられるべきだ。夜間中学は義務教育の最期のよりどころである」として、夜間中学の拡充を訴えている前川氏を発見する可能性だってあるだろう。
それらの事をネットで知った中学生は、前川氏を人間としてどう評価するだろうか?
生徒一人一人違うだろうが、ぼくは、彼らが肯定的に評価してくれると信じたい。
人間を一面だけから捉えるのではなく、全体像を見て判断する。今の中学生にこのくらいの判断力は備わっていると信じたい。
又吉(ヒジャイ)は人間を一面だけ捉えて、そこに現れた欠点を強調し、全人格を否定する方向に走る。そして、そのような過去に過失のあった人間には中学生相手に講演をする資格はないと糾弾する。ネトウヨに共通する有無を言わせぬ排除の論理だ。これでは社会が歪み、健全な教育が育つことはない。成長著しい中学生諸君に排除の論理を押し付けることをしてはいけない。
今回の文部科学省による前川喜平前事務次官の授業内容報告要請は、政治家の文科省に対する働きかけが発端である。自民党の赤池誠章参議院議員と同じ自民党の池田佳隆衆議院議員。赤城氏は自民党文科部会の部会長、池田氏は部会長代理。この役職にある二人の議員が文科省に個別の授業内容について問い合わせること自体、異常なことである。
池田議員は安倍首相チルドレンと呼ばれても良いような人物だ。そして前川前事務次官は加計学園問題で安倍政権を批判したことを考えると、今回の問題の構図がはっきりしてくる。安倍政権を批判した前川喜平はけしからん、八王子中学校でどんな行動したのか調べる必要がある!というわけだ。
しかしその結果はなんともお粗末である。一民間人に過ぎない前川氏が中学校で講演した事実の他に、なんら特別なものは何一つ出てこなかったのである。
後に残ったのは、赤池議員と池田議員の行き過ぎた行動だけである。その生き過ぎた行動を琉球新報が社説で批判した。その社説を又吉(ヒジャイ)が民主主義の印籠を振りかざして批判した。しかし彼が振りかざす印籠は偽物である。
笑いたくても笑えない又吉(ヒジャイ)のあまりにも的外れで低級な民主主義論を聞かされるとは、もういい加減にしてくれよ、と言いたくなるが、しかし、彼が沖縄を貶める言論活動を続ける限り、折を見て批判のメスを入れ、さらに徹底的に叩いてやる。