沖縄よ! 群星むりぶし日記

沖縄を、日本を、そして掛け替えのない惑星・地球を愛する者として発信していきます。

永遠の少女・草間彌生

この優しさ、愛おしさはなんだろう?いまにも崩れそうな危うさからギリギリのところで調和を保つ精神力は、一体どこからやってくるのだろうか?草間彌生の絵をみると、いつもそのような不思議な感覚に捉えられる。激しさと静寂。虚無と豊穣。永遠なる神秘。遊び心に溢れていても、無責任に帰結することのない世界。彼女の絵は、言葉では言い表すことができない愛の物語だ。彼女は、彼女にしか知り得ない愛の語り部を演じているのだ。
何が原因でそうなったのだろう。
少女時代の彼女は、両親の不仲に悩まされて、幼い心に取り返しのつかない大きな傷を負っている。入り婿の父親は、浮気の常習犯だった。それが原因で、夫婦の間に口喧嘩が絶えなかった。母は神経質のうるさい女で、いつも娘に厳しく当たり散らした。そのような救いのない環境のなかで少女彌生は絵を描くことに集中するようになる。無力の女の子にとって、逃げ道はそこにしかなかった。一日中絵を描き続ける娘に辛く当たる母親。
少女は心は病んでいたが、利かん気の強い子供だった。母親の反対、妨害にめげることなく、絵を描き続けたのである。この妥協を許さない気の強さが、結果的に彼女を地獄から救出することになるとは、運命のいたずらと言うよりも、神の意志が強く働いたのではないか、とぼくは勝手に想像する。
この世に生を受けて間もない子供達が、強い意志を発露する時、我々大人は一種の感動を覚えることがある。子供の内面から自然に出てくる自発的な意志。独立心。それに対して喝采を送らない大人がいるだろうか?
我々はジャン・ジュネというもうひとつの例を知っている。身寄りのない私生児であった少年ジュネは、泥棒を繰り返しては、そのつど少年院に送られた。この大人たちが作り上げた地獄のような環境で、生き抜いていくために少年は決意する、「よし、俺は泥棒になるんだ!」と。その他に方法はなかった。
与えられた運命を自らの意志で受け入れること。ここから運命の逆転劇が始まる。
ジュネは地獄のような人生の中で、言葉を手に入れ、フランスを代表する作家へと自らの運命を切り開いていく。自発的意志がなければ、運命の女神は彼を見捨てたであろう。同級生にいじめられただけで、自らの命を絶つ少年、少女達はジュネ少年と彌生少女に是非、学んで欲しい。利かん気の強い子供になって欲しい。歴史の開闢より皇室を戴く日本は良い国だと、言い募る多くの保守派言論人がいるが、果たして現実はそれほど単純なものだろうか?我々の知らない深いところで、日本人は人間にとって最も基本的な野生的強さを失いつつあるのではないだろうか?
草間彌生は絵を描くことで、古いしきたりの家族の地獄から抜け出し、自由の世界へと大きく羽ばたいていく。魂の中で一度自由が爆発したら、神はもはやどうすることもできない。
彼女はニューヨークで大成功を収める。時代の最先端を行く芸術家として絶賛されて、世界的名声を獲得した。
88歳になる今も、憑かれたように絵を描き続けるその姿は、まるで成熟した永遠の少女のようだ。彼女の絵を前にすると、ピカソゴッホ岡本太郎も、そして他のほとんどの画家の作品が色褪せて見えるのは何故だろうか?いづれの絵にも、ある種の計算の働きが感じられるからではないか、とぼくは推測する。
草間彌生の絵にはいかなる計算も感じられない。うまく言えないが、精神が自然に流れるままに任せる。手が自然に動くままに任せる。そこに計算の入り込む余地はない。無我の境地。草間彌生は彼女の精神の自然な流れを絵にしていくだけで、自身の世界に対する果てしない愛の物語を紡いでいる。彼女の絵を観るたびに、静かな感動に酔いしれる。

お知らせ(保守も革新も辺野古へ行こう!NO MARINE !)

月曜日 午前9時発 平和市民連絡会
火曜日 午前9時発 オール沖縄那覇の会
水曜日 午前6時発 平和市民連絡会  午前9時発 島ぐるみ会議
木曜日 午前9時発 平和市民連絡会
金曜日 午前9時発 平和市民連絡会
土曜日 午前6時発 平和市民連絡会  午前9時発 島ぐるみ会議
 (いずれも県庁前広場発)

 

 

 

 

 

 

反沖チャンネル桜「沖縄の声」のデマを斬る Part3

似非保守集団、チャンネル桜「沖縄の声」が流すデマを、本土の言論人が検証もせずに、そのまま垂れ流すことが常態化しているが、そのひとつに、「普天間飛行場の周りに住民が進んで住み着いた。危険へ接近したのは住民の責任だ。」というのがある。
真実はどうなのか、沖縄タイムス社編集局編著『これってホント⁉︎ 誤解だらけの沖縄基地』から引用する。

< ベストセラー作家の百田尚樹氏による米軍普天間飛行場に関する発言は「もともと田んぼだった」という基地の形成過程に加えて「(住民は)商売になるため基地の周りに住みだした」という”誤解”がある。こうした考え方は、住民が原告となって国に普天間の米軍機飛行差し止めを訴えた普天間爆音訴訟でも国側が「危険への接近」の法理として主張した。だが、普天間爆音訴訟で司法が「危険への接近」を認めたことは一度もない。
住民が求める飛行差し止めは、国は米軍の活動を制限できる立場にないとするいわゆる「第三者行為論」によって認められていないが、2008年の一審判決、10年の控訴審判決とともに、国の「危険への接近」の主張は排斥され、騒音を違法として住民への賠償を国に命じた。具体的には、国は裁判で「住民が自由な意思決定によって選択した結果は、自己が負担することが原則だ」として住民が危険を認識したまま騒音という被害を受けた場合、加害者に責任はないと訴えた。一方で、住民側は「普天間は戦後に米軍が住民を収容している間に造られ、危険の方から接近した」とし、危険への接近への法理は適用されるべきではないと反論した。双方の主張に対し司法は08年の一審で「沖縄本島の中部地域は騒音の影響を受けない地域が狭い。沖縄の人は地元回帰意識が強く、普天間周辺の歴史的事情がその意識を強くしている」、10年の控訴審でも本島中部で米軍基地の騒音から逃れるのは難しいとし「原告(住民)は地縁などの理由でやむを得ず周辺に転居したもので非難されるべき事情は認められない」とそれぞれ国の主張を退けた。実際に「危険への接近」は法理の一つとして民間空港などから派生する公害をめぐる訴訟で適用されるケースはある。
ただ、普天間をはじめとする沖縄の米軍基地は戦後に民有地を強制接収された後に造られたという明らかに歴史的、社会的な特殊事情があり、司法はその背景を考慮した格好だ。
危険への接近は普天間だけでなく、嘉手納基地の周辺住民による嘉手納爆音訴訟で1994年の一審判決が国の主張を認めたものの、その後の98年の控訴審判決から2009年の2次訴訟控訴審判決まで一貫して否定されている。
普天間爆音訴訟原告団の島田善次団長は、終戦直後の普天間周辺の様子を振り返り、「住民は戦後、故郷と離れた収容所に集められ、いざ宜野湾に戻ると、基地が作られていた。住民は残された土地で簡素な木造の掘っ立て小屋で暮らし、基地内では軍人が庭付きの広い家に住んでいた」と、悔しさをにじませる。司法でことごとく否定されている住民による危険への接近という考え方が、百田氏をはじめとする本土側に残る現状を嘆きながら続けた。
「メディアを含め、本土側は遠い沖縄のことは無関心。あるいは都合よく解釈しておけばいいとでも思っているのかもしれない」>

お知らせ(保守も革新も辺野古へ行こう!NO MARINE !)
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 (いずれも県庁前広場発)

 

 

 

 

 

 

二つの顔を持つ水島総

ぼくが知る限りでは、水島氏は保守論客の一人であり、その思想は、国体護持、自主憲法・自主防衛論が中核をなすものだと、理解している。
しかし、彼の東京での主張と、沖縄での主張は大きく異なる。チャンネル桜沖縄支局「沖縄の声」において、自ら司会を務めて、地元のキャスター達と、何度か議論を交わす映像がネット配信されているので、それを見ることで、水島氏が沖縄をどのように認識しているかがよく理解できる。
今月13日、祖国復帰記念日の2日前、沖縄支局において、討論会が行われた。司会役は水島氏で、沖縄側から金城テル、又吉康隆、ボギーてどこん我那覇真子、我那覇隆裕の各氏、本土側から、鍛冶俊樹、三輪和雄、佐波優子の各氏という顔ぶれだ。
彼らの討論を聞いて思ったことは、水島氏はじめ、本土側の人は全員、沖縄の文化や歴史に対する知識が浅い、という事実である。沖縄支局に居合わせた視聴者のほとんどは水島氏と一緒に来た本土の人たちだ。二十数名いたと思うが、これだけの人数で、わざわざ沖縄に来るなら、せめて沖縄の歴史と文化の基礎知識ぐらい勉強してから来てもらいたい、と感じるのは沖縄の人間からすれば当然のことだろう。
彼らの来沖の真の目的は、復帰45年を祝うためとしているが、それは建前で、本音は沖縄の左翼批判、翁長県政批判であるのは明らかだ。
それから2日後の彼らの行動を見ると、それが良くわかる。辺野古へ行って彼らがやったことといえば、去年と同じように、辺野古漁港にテントを構えた反対派に向かって、全員が大きな日の丸を立てて、代わる代わるマイクで左翼思想批判を展開したのだ。
保守の信条を考えるなら、それ自体は良しとしよう。しかし、彼らは現在進行中の辺野古海兵隊基地建設には反対しないのである。国体護持、自主憲法・自主防衛論者であるなら、せめてキャンプ・シュワブのゲート前で、同じように全員で、大きな日の丸を立てて、日本に占領軍の駐留は許さない、と反対の声を上げるべきではないか。
しかし、水島氏はそうしなかった。那覇市では、県庁前で翁長知事批判を繰り広げた。そして、復帰記念日に一つの日の丸も見当たらないのは何故なのかと、マイクで喋りながら、国際通りを練り歩いたのである。
沖縄の人がなぜ、復帰記念日を心から祝う気になれないのか、本土の人間は不思議に思うかも知れないが、それは本土の人たちの認識不足が原因だ。復帰することで、日本国憲法下で人権が保護されるようになったことを思えば、祖国復帰自体は良かったと、結果論からいえばその通りと言えるかも知れない。しかし、その歴史過程の内実を考えると、複雑な屈折した感情が沖縄の人間にあるという事実を彼らは知らない。「本土並み返還」佐藤総理のこの言葉に、県民(否、まだ県民ではない、ウチナーンチュ)の多くは米軍基地の大部分は撤去返還されるものと期待した。自分たちの土地が帰って来ると信じた。
しかし、これが最初の大嘘だった。ウチナーンチュは失望し、落胆した。復帰が実現した後も、本土の政治家、官僚達の嘘は、大小織り交ぜて続いている。だから、本土に対する不信感が、今も根強く存在している。
この辺の事情をよく理解するためには、沖縄に来るだけでは不十分である。水島氏がやっているような、保守派同士の交流だけでも、不十分だ。保守派にとどまらず、できるだけ多くの沖縄の人々と、偏見抜きに付き合って交流を深めて初めて、沖縄の人の内にある情念を理解することが可能になるはずである。そのためには、どうしても長い月日と忍耐が必要になる。しかし、水島氏には、その労を取る気はないらしい。地元の保守派の主張を聞くだけで十分らしい。それだから、本土から大挙して仲間を引き連れて、大量の大きな日の丸を掲げて、国際通りを練り歩く姿が、我々沖縄県民には、異様な光景としか映らないのである。
東京では、国体護持、自主憲法・自主防衛論を主張する水島氏は、沖縄に来ると、占領軍の駐留を容認する人間へと豹変する。本人はその矛盾に気づかないのだろうか?だとすれば、あまりにも鈍感すぎる。ぼくはこんな人間は信用しないことにしている。
それでも、いつの日か沖縄に対する認識が深まり、大勢の仲間とともに、大量の大きな日の丸を掲げて、キャンプ・シュワブのゲート前で、占領軍の新基地建設反対の雄叫びを上げることを期待したいところだが、多分、無理であろう。
水島氏は、沖縄では、似非保守に過ぎないのだ。

 

お知らせ(辺野古へ行こう!)

月曜日 午前9時発 平和市民連絡会
火曜日 午前9時発 オール沖縄那覇の会
水曜日 午前6時発 平和市民連絡会  午前9時発 島ぐるみ会議
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 (いずれも県庁前広場発)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

辺野古行きバス予定表

昨日の当ブログで、辺野古行きのバスの予定を紹介したが、一部抜けていたところがあるので修正して再掲載する。これは、「 チョイさんの沖縄日記」というブログでわかったことである。

月曜日 午前9時発 平和市民連絡会
火曜日 午前9時発 オール沖縄那覇の会
水曜日 午前6時発 平和市民連絡会  午前9時発 島ぐるみ会議
木曜日 午前9時発 平和市民連絡会
金曜日 午前9時発 平和市民連絡会
土曜日 午前6時発 平和市民連絡会  午前9時発 島ぐるみ会議
 (いずれも県庁前広場発)

無党派の人で辺野古海兵隊基地建設に反対の人は、ぜひ辺野古へ足を運んでもらいたい。那覇から辺野古は遠いのでと躊躇している人がいるかも知れない。しかし、高速道路を行くので、約1時間30分くらいで着く。車窓から景色を楽しみながらだから、あっという間だ。
反対する人数が多ければ多いほど、搬入する工事車両の台数を減らすことができることは、昨日書いた通りである。心の中で反対するだけではダメだということを理解してもらいたい。党派に関係なく、左翼の人も右翼の人もそして中翼の人も、辺野古海兵隊基地建設に反対なら、辺野古へ行こう!
そして、ブログを開設している人は、上記のバス予定表を繰り返し、拡散して欲しい。
当ブログも今日から毎日、書くテーマはちがっても、下段に掲載するつもりだ。

辺野古へいこう!

昨日、初めて辺野古へ行った。

県庁前のバス停に着いたのが7時50分頃。受付時間の8時半には少し早いので、近くのファーストフード店で軽い朝食をとることにした。レタスバーガーを食べ、コーヒーを飲みながら、店に置かれた琉球新報にざーっと目を通す。少し緊張しているためか、文字が虚に流れていく。時間がきたので、店を出て横断舗道を横切って、県議会横にある市民広場へ向かう。数本ある柱を囲む簡易椅子に、数人がバラバラの状態で座っている。その前で、痩せて背の高い男性がノートを持って立っている。
受付の人に違いないとすぐわかった。辺野古行きバスの受付でしょうか?と聞くと、ハイ、今日のリーダー役を務める岩村です、と言ってからぼくの名前を聞いて、ノートに書き込む。辺野古へ行くのは今日が初めてなので、気になることを聞いてみた。
昼食はどうするのか、途中で休憩は取るのか、と。昼食は現地のコンビニ店が利用できること、そして高速道路を行くので、途中の伊芸エリアで休憩することになっている、と答えてから、乗車時間やその他のことを丁寧に説明してくれた。
20分ほど待機してから、バスに乗り込んだ。車内は予想していたより綺麗で快適な座席である。乗り込んだ人数は27名。高速に入る途中で7名乗車したので総勢34名になった。
高速道路を走っている間、岩村氏の話が続く。内容は、沖縄に関する政府の対応、東南アジアの政治状況、等多岐にわたる問題を話した。丁寧で落ち着いていて、好感が持てる。
参加費として、千円の徴収があった。那覇から辺野古までのバス往復料金に置き換えて考えると、大変な割安である。通常のバス料金は、片道で1630円である。往復だと3260円になる。
できるだけ参加者に金銭的負担をかけたくないという配慮に違いない。有難い。
本土から来ている人の確認があり、3人の方が挙手した。岩村氏に促されて、その中の一人にマイクが回されて、話し始めた。大阪から来たと言い、辺野古に行く気になった理由を説明した。それから他の人も次々と、積極的にマイクを握って、それぞれの思い、考えを語った。みんな話がうまい。ぼくの想像だが、ほとんどの人が、何度も辺野古へ参加しているに違いない。多分、初参加者はぼく一人だけだろう。だからと言って、ぼくにマイクが回るということはない。このような集まりにありがちな肩苦しさがないのは、参加者がほとんど高齢者だからかも知れない。中には90歳になられる人がいた。上原さんという方で、東京で70年間生活したが、辺野古が心配で、つい3年ほど前に故郷沖縄に帰って来たという。今では辺野古の集会では、ちょっとした有名人らしい。
伊芸エリアで10分間の休憩を取った後、そのまま現場を目指して出発した。車窓から眺める山原の緑は豊かで美しい。ぼくの心の原風景は海だが、山や森の緑をみると、心が落ち着く。隣の席に座った女性は、もちろん初対面だが、いろいろ言葉を交わすうちに打ち解けるようになった。彼女は途中で乗り込んで来た7人のうちの1人である。
いよいよ辺野古到着である。第2ゲート前バス停で降りて、集会場所まで歩くことになった。長時間バスに揺られたので、歩くことで準備運動になる効果があります、という岩村氏の説明は、確かにその通りだと納得できるものだった。
歩いているうちに、ニュースの映像でよく見る青いビニールのテントがズラーっと並ぶところに来た。中には誰もいない。空っぽである。そのまま歩いて行くと、前方の道路の反対側に大勢の人が集まっている。道路を横切ってそちらを目指して歩く。機動隊の大型車両が一台停車しているその横で、多くの人が座って、その前で誰かがマイクを使って喋っている。
音量は大きくてよく聞こえる。
島ぐるみバスの人たちが到着したようです、というアナウンスが流れるが、大きな拍手が起きるわけでもない。非常に落ち着いた雰囲気で、淡々と進行している感じだ。
近くまで行って、機動隊車両の後尾の方で、歩道に立ったまま、演説というよりも、話を聞く。話の内容は、正直のところつまらない。しかし、酷いというものでは、勿論ない。
こういう集会では忍耐が必要だ。ただ気がかりなことがあった。それはいつ工事車両がくるのか、あるいは機動隊はどこにいるのか、ということである。
15分から20分間隔で、コンビニ、御手洗、駐車場の文字が書かれた大きな看板を両手で掲げて、歩道沿いに車道を歩く人がいる。希望する場所までミニバンで送ってくれるらしい。
行き届いた配慮に感心する。ぼくは、12時15分前くらいに利用した。その時の利用者は6名でミニバンは満杯となった。参加者の1人でもある運転手の方が、どこに行きますかと聞く。全員コンビニだという。昼食の買い物ができるのと、手洗いもあるからだ。
車だと短時間でついたが、歩くとなるとかなりの距離だ。手洗いを済ませてから、弁当と缶コーヒーを買った。同じミニバンに乗り現場に戻ると、両端をブロックに載せた長板に座って、昼食をとる。弁当を食べながら、隣に座った人といろいろ話を交わした。その男性は沖縄市から自家用車できたという。ここにはよく来るらしい。彼のおかげで多くのことを知ることができた。今日の参加者は100名を超えているので、今日は工事車両が入ることはないだろうと言う。何故だと聞くと、参加者が多いと機動隊は反対派を排除できないからだ、その理由は、反対者1人を排除するのに機動隊員4名が必要になるからだという。彼のいうことが本当なら、できるだけ多くの人が参加すれば、工事を遅らすことができる。これは重要な情報だ。数の勝負なら、参加者を増やすことだ。
反対派としては、もっともっと宣伝して、参加者を増やすように努力しなければならない。
15時に予定通り集会は終わりとなる。若い人が歌を歌ったりして、余裕の感じられる集会であった。道路の反対側で監視するために椅子に腰掛けている機動隊員が、反対派の話に拍手する姿には驚いた。機動隊との衝突もなく、いささか拍子抜けしたが、第2ゲート前では、プラカードを掲げて全員で抗議行動をした。歌を歌い、拳を突き上げて、辺野古基地建設反対のシュプレヒコールを大声で叫んだ。
実をいうと、ぼくはこういう運動は苦手である。若い頃から特定の団体に所属して活動するのは性格に合わず、同調できる政治集会なども、できるだけ避けて来た。
しかし、辺野古海兵隊基地建設反対は、単なる政治集会とは異なる。日本の真の独立が試される、今世紀最大の事案のひとつであると考えている。戦後72年が経過してなお、占領軍が居続ける理不尽さ。
にもかかわらず、政府は1兆円近い巨額の税金を投入して、ピカピカの新基地を占領軍に提供しようとしている。土地は国有化され、新基地は100年継続するだろう。新基地が完成すれば、日本の真の独立は100年遅れるであろう。
日本人の精神は主体性を失い、他力本願の哀れで情けない、ひ弱なものになるだろう。日本の国体は、音を立てて崩れて行くに相違ない。
それほどの危機感があるから、怠け癖の心に鞭打って、辺野古へ行く決意をしたのだ。
行ってみると、現場は統制の取れた、肩苦しさのない、そして不屈の精神に溢れた集会だったように思う。長い間現場で戦い続ける現場の人たちの知恵が生かされている結果だろう。
プラカードを持って歩道に立ち、通り過ぎる車に、手を振る数人の女性達がいた。
車道に少し踏み出して、皆さんにはご迷惑をかけているかもしれませんが、どうか私たちの運動を理解してください、と無言で手を振っているようであった。通りすぎる車は多くはないが、ブザーを鳴らしたり、手を振って賛同する人も少なくはなかった。
立ちっぱなしのまま、手を降り続ける女性達の姿に深く感動した。
特定の政党を支持しない人、特定の団体に所属しない人で、辺野古海兵隊基地建設に反対の人は、どうか辺野古へ足を運んでほしい。
ぼくも週に一度は参加するつもりでいる。特に若い人たち、動機はどのようなものでも構わない、軽い気持ちで良いから、辺野古海兵隊基地建設に反対なら、ぜひ一度は参加してほしいと思う。
帰りのバスの中で、来週から毎日バスを出すことになったという報告があったのでメモを取る。

メモの内容は以下の通り。
平和市民連絡会は月曜日、木曜日、金曜日
島ぐるみ会は水曜日、土曜日
オール沖縄那覇の会は火曜日
いずれも、那覇市民広場から9時出発

16時に家に着いた。久しぶりの遠出だったので、少々疲れたが、県民としての義務を果たすことがやっとできた、という思いがあり、心は爽快である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

正当防衛かつ意図せざる殺人以外の殺人犯は全て死刑にすべきだ

今日の産経ニュースの報道から。

< 平成27年11月、東京都江戸川区の自宅アパートに同区の高校3年、岩瀬加奈さん=当時(17)=を誘い込み、首を絞めて殺害し現金を奪ったなどとして、強盗殺人と強盗強姦未遂の罪に問われた無職、青木正裕被告(31)の裁判員裁判の論告求刑公判が19日、東京地裁(島田一裁判長)で開かれた。検察側は「何の落ち度もない加奈さんを性欲発散目的で殺害した。極めて身勝手で悪質な犯行だ」として、無期懲役を求刑した。判決は23日。論告に先立ち、加奈さんの父、正史さん(48)と母、裕見子さん(49)の意見陳述が行われ、「家族は苦しみに一生さいなまれる。反省や更生は望んでいない。二度と加奈を思い出せないようにしてほしい。過去の判例にとらわれない判断をしてほしい」と述べ、死刑を求めた。検察側は「死刑求刑も可能だが、自首や前科・前歴がないことを考慮した」と求刑の理由を説明した。>

ぼくは、現在の死刑をめぐる裁判には長い間疑問を感じているが、その理由として、正当防衛による本人の意図しない殺人以外の殺人は、全て死刑に処すべきであると考えるからだ。
2年前に江戸川区で起きた女子高校生が殺害された事件で、検察側は無期懲役を求刑したと言う。その理由は、「死刑求刑も可能だが、自首や前科・前歴がないことを考慮した」というものだ。ぼくは法律に詳しくない。だから、あくまでも生活人としての常識から判断する他ないが、検察側があげた理由は非常に疑問であるし、納得がいかない。
殺された娘のご両親は「 家族は苦しみに一生さいなまれる。反省や更生は望んでいない。二度と加奈を思い出せないようにしてほしい。過去の判例にとらわれない判断をしてほしい 」と述べて、死刑を求めている。
至極当然なことだと思う。ご両親の苦悩は言葉にならない位、痛ましいものであろう。検察側はなぜ被害者の立場になって判断しないのだろうか?ぼくが長い間感じてきた疑問もまさにこの点にある。
検察官は職業人として裁判に関わっている。大袈裟に言えば、判決がどうなろうと、彼の実生活にはなんの影響もない。彼の関心ごとは、判例を参考にしつつ、なるべくそれから大きくはみ出ないような求刑を提示することにあるのだろう。
ひとつの裁判が終われば、次の裁判が待っている。それを淡々とこなしていくことで、給料をいただく職業人に過ぎない。
何かおかしい。どう考えてもふに落ちない。恐怖の中で殺された人間は永久に帰ってこない。犯人は無期懲役に処せられたとしても、獄中死しない限り、いつか社会復帰する。そして再び殺人を犯さないとも限らない。こんな不条理が許されて良いものだろうか?「 正当防衛による本人の意図しない殺人以外の殺人犯は、全て処刑に処する」という趣旨の厳格な法律を制定すれば、殺人事件は減少していく効果があると思うが、どうだろうか?
何よりも残された遺族が、少なくとも胸をなでおろす助けになるのではないだろうか?
無論、裁判は慎重に行われるべきだ。本人が希望すれば、最高裁まで争える保証をする。冤罪とならないように最善を尽くす裁判が求められるのは、当然のことである。
殺人事件の犠牲者は、弱い立場の女性が圧倒的に多いという現実がある。犯人の動機は大概身勝手である。そして裁判になると、勝手な言い訳をして、減刑を願いでる卑劣漢ばかりだ。死刑以外の判決だと、彼らの思う壺にはまり、同じような犯罪が繰り返さる恐れがある。実際そうなっている。故に、残された家族を地獄の淵から救済するために、そして、理不尽な殺人事件を根絶するためにも、正当防衛かつ意図せざる殺人以外の殺人犯は、全て死刑にするべきである。

反沖チャンネル桜「沖縄の声」のデマを斬る!Part 2

「沖縄の声」のキャスター、栗秋琢磨、平原信泰、鉢嶺元治3氏が香山リカさんに名誉毀損で訴えられた。その訴えた文章を読んだが、それが事実なら、先日話題になったニュース女子と同じ位の酷い内容である。
左翼寄りの発言をする人なら誰構わず、非難中傷し、平気で嘘をつく悪態ぶりは異常で、目を覆うばかりだ。
平原、鉢嶺両氏の動画も発言も知らないので、なんとも言えないが、栗秋琢磨については、基地反対派が配信した動画があるので、それを見た上でいうと、彼は教養のかけらもないチンピラそのもだ。見ていて反吐がでるくらい品性に欠ける人物である。
水島社長は、今回の訴訟を正面から受けて立つと言明したが、それは責任ある立場からすれば立派だとは思うが、しかし、そろそろ「沖縄の声」のキャスターをふるいに掛けて、ダメ人間は出演停止にするくらいのことを考慮すべきだろう。
ぼくは、東京のチャンネル桜はよく見ていて、見識の深い論客の方々から学ぶところ大であるが、しかし、それに比較して「沖縄の声」のキャスターはあまりにも酷すぎる。
彼らの教養は浅く、品性に欠け、左翼を批判する他に能力のない連中ばかりである。特に酷いと思うのは、沖縄で生まれ育ったにもかかわらず、沖縄を貶める発言が多すぎることだ。我が郷土に、どんな欠点があろうとなかろうと、沖縄は郷土である、というそれだけの理由でぼくは、琉球・沖縄を、理屈抜きに心の底から愛している。だから、ぼくの立ち位置は、反チャンネル桜「沖縄の声」だとはっきり宣言したい。
さて、彼らが流す多くのデマのひとつに、「普天間飛行場は田んぼの中にできた」というのがある。それがデマに過ぎないことを、昨日紹介した『誤解だらけの沖縄基地』が歴史と事実をもとに論破しているので、その31項目から引用する。


< 「米軍普天間飛行場は、もともと田んぼの中にあり、周りは何もなかった」「商売になると、みんな何十年もかかって基地の周りにすみ出した」2015年6月25日に開かれた自民党若手議員らの勉強会での、ベストセラー作家・百田尚樹氏の事実とかけ離れた発言は、宜野湾市民の猛反発を買った。
米軍普天間飛行場がある場所には戦前、村役場や宜野湾国民学校もあり、南北には宜野湾並松(ジノーンナンマチ)と呼ばれた街道が走る生活の中心地だったからだ。「住民をばかにしている」「ネット情報をうのみにしたような幼稚な発言だ」
3日後の28日、大部分の土地が接収された宜野湾郷友会(宮城政一会長)の総会では、怒りの声が噴出した。宜野湾の住民は、ほぼ現在の飛行場内に住んでいた。このような「基地は田んぼにできた」という発言は過去にもあった。2010年、当時のケビン・メア在沖米国総領事だ。その要人の認識不足の発言に、宮城さんが「カチンときた。ならば証明しよう」と始めたのが、戦前の集落の様子を再現するジオラマ作りだった。
お年寄りへの聞き取り調査を重ねているさなか、著名な作家によって再び古里を侮辱された。「またか、という思い。ちょっと調べればすぐわかること」宮城さんは悔しそうに語る。「私たちの古里がなかったことになる。先輩からは市場で買い物したこと、馬場にンマハラシーを見に行ったこと・・・。たくさん聞いた。生活の場であり、憩いの場でもあった場所だ」そんな人々の生活拠点はどのようにして奪われたのか。宜野湾市史によると、沖縄戦前年の1944年、宜野湾村(当時)には22の字があり、人口は1万3635人。そのうち、普天間飛行場は14字にまたがる宜野湾の中心に建設された。その14字では8880人が生活していた。人々の古里が奪われたのは45年の沖縄戦だ。宜野湾へ侵攻した米軍が占領と同時に土地を接収し、滑走路の建設を始めた。住民は同年10月以降に順次、収容所や避難先から帰村が許されたが、多くが古里に戻れず、米軍に割り当てられた飛行場周辺の土地で、集落の再編を余儀なくされた。
百田氏が言う「商売目当て」では決してなく、基地の周りに住まわされたのが実情だ。古里を奪われた住民の先祖が眠る墓や御願所は、いまも基地の中だ。基地内に入るには米軍の許可が必要になる。宜野湾郷友会
年中行事で拝むウブガー(産井戸)はフェンスの奥わずか100メートルほどの場所にたたずむ。宮城郷友会長は、「古里の土地に入るのに、許可を得なければならないと言うのは・・・。矛盾してますよね」と話す。>


以上、百田氏の発言がいかにデタラメかが分かる。「沖縄の声」から発信されたデマを検証もせず、そのまま借用して流すいい加減さ。このような人間が本土ではベストセラー作家として持て囃されるのだ。氏の講演料は高額らしい。呆れて声も出ない。
『これってホント⁉︎ 誤解だらけの沖縄基地』を多くの人に読んでもらいたい。