西郷隆盛と愛加那そして琉球
新都心のメインプレイスの二階にある球陽堂書店で二冊の本を抜き出し、併設のコーヒーショップの空いている席のテーブルに置いて席を確保してから、カウンターへ行き、本日のコーヒー・Sサイズとチョコ菓子を注文して席に戻った。コーヒーを注文すれば書店の本を三冊まで試読することができ、試読後は必ずしも購入する必要はなく、後はただ返却棚に置くだけ、という有難いサービスが気に入って、よくこのお店を利用するようになったのである。
試読できるのは単行本だけで、雑誌類はご遠慮くださいとの店の注意事項があるにも関わらず、守らない客がいる。特に女性客に多いようだが、店員が注意するのを今まで一度も見たことはない。東京ではそうはいかないだろう。規則を守るのは当然のことで、客も店員もしっかりと了解しているからだ。沖縄はのんびりしている。
さて、選んだ本は大川周明著『日本二千六百年史』と副島隆彦著『真実の西郷隆盛』の二冊。
試読して興味が湧き、二冊とも購入することにした。『日本二千六百年史』は名著の誉れ高い作品であり、日米両政府が発禁にした問題の本である。日本通史として活用できそうだ。
副島隆彦著『真実の西郷隆盛』は副島氏の最新刊で、出版日は6月4日。出たばかりのホヤホヤだ。「はじめに」を読んでいきなり興味をそそられた。西郷はキリシタンであったと書いている。面白い。目次を追いながら気になる項目を探す。NHKで放映中の「西郷どん」で観た奄美大島での西郷隆盛の生活。
「西郷隆盛、奄美大島へ」という項目を見つけた。読んで見ると、テレビで放映されたより詳しく書いてある。島津家による奄美大島の農民に対する収奪は、残酷であった。それを現地で見た西郷は激怒する。「松前藩のアイヌに対する取り扱いよりも酷い」
「割り当ての砂糖を差し出すことができない農民たちを藩の役人が拷問していることに憤慨し、「殿様に手紙で現状を訴える」と抗議し止めさせた逸話は、西郷隆盛を取り扱う書籍の多くに出てくる。」
西郷隆盛に人望が集まった理由の一つとして、西郷の弱者の側に立つ正義感にあったのは確かのようだ。島に来た当初、一人で暮らし木刀を振り回して奇声を発する西郷を見て、島の人々は「大和のフリムン(琉球語で頭のおかしい人の意味)」と噂していたが、時の経過とともに西郷は島の人々から信頼されるようになる。そして九歳年下の愛加那と結ばれる。
長男菊次郎が生まれた時、西郷は三十五歳だった。翌年には菊草(きくそう)と言う名の長女が生まれている。しかし、奄美大島での生活は三年で終わる。当時の規則では家族を連れて本土に帰ることはできない。島津家の島の人々に対する歴然とした差別意識を見せられる思いだが、それでも薩摩藩士と結婚した島の女性には藩から手当が出たらしい。正確な数字は書かれていないので、どれくらい愛加那の生活の足しになったのかは分からない。
ところで西郷は余程運が悪かったのか、帰還してわずか三ヶ月余で久光の怒りを買い、奄美大島から約百キロある徳之島に流される。琉仲為という島の役人のおかげで、島の子供たちに読み書きを教えたり、釣りをしたりという静かな生活を送っていた。そこへ子供二人を連れて愛加那がやってくる。
再び一緒に生活できるかと思われたその同じ日に、藩から命令書が届き、徳之島から更に南の沖永良部島へ移されることになった。この頃の西郷は余程運に見放されていたようだ。沖之永良部島で西郷は吹きさらしの狭い牢に幽閉されて、過酷な環境下で生死を彷徨うような日々を送る。
陰嚢が肥大化するフィラリアという風土病にかかったのもこの時期である。この風土病は戦後の沖縄でも見られた。ぼくが小学生の頃、銭湯で肥大化した陰嚢を持つ大人を何人か見た記憶がある。メロンほどの大きさの立派なものであった。
土持正照という大久保利通の異母姉を妻とする島役人がいなければ、西郷は沖之永良部島で命尽きてもおかしくはなかった。土持は西郷を救済するために奔走する。藩の代官所と交渉して、座敷牢に幽閉して保護することになった。これで西郷はなんとか一命を保つことができたのである。
この間、佐藤一斎の『言志四録』を徹底的に読み込む。島の子供たちに読み書きも教えたらしい。沖永良部という小さな南の島での生活は、西郷にとって後に歴史の表舞台で活躍するためのエネルギーを蓄積する場となったのではないか、と考えると人間の運命というものは、実に不思議で興味深いものだとつい感嘆してしまう。
さて、言うまでもなく、薩摩藩と琉球は歴史的に深い関係があるのはご承知の通りだ。一六〇九年、薩摩による琉球への武力侵攻。それからおよそ260年間、琉球は形式上、王国を名乗ったが実態は薩摩の支配下に置かれたのである。そのために、租税制度は王府に納める分とは別に薩摩藩にも納めるという、農民にとっては過酷なものとなった。琉球が疲弊する大きな要因になった。
薩・琉関係史について全般的に言及するのは、今は控えたい。本書『真実の西郷隆盛』に書かれている興味深いところだけを取り上げたいと思う。それは、倒幕に向かわせた薩摩の潤沢な資金力の源泉は何処から来たか、と言うことである。
本書に「薩摩藩の実力の源泉となった資金力の3本柱」という項目がある。
そこに書かれた内容を要約すると、薩摩藩の資金力の第一の柱は、琉球の対中国貿易を独占して利益を得た。第二の柱は、奄美群島で栽培されるサトウキビから精製される黒糖を専売品として利益を得た。そして第三の柱は、これが面白いのだが、貨幣鋳造(偽金づくり)、えっ?薩摩藩なかなかやるじゃないか!
この三本柱で得た資金が、蒸気船になり、鉄砲になり、倒幕に偉大な力を発揮したのだ。そこでよく考えてみよう。奄美群島はもともとは琉球王国に属していたが、一六〇九年の琉球侵攻で薩摩藩の領土に組み込まれたのだった。そこから藩の圧政による島民達の筆舌に尽くせぬ苦悩が始まる。
テレビでも放映されたように、自分たちで生産した黒糖を食べることはおろか、子供たちにひとかけらでも与えることすら許されなかったのである。黒糖を隠し持っていることがバレると、拷問を受けることもあった。島民はソテツを食用として栽培しなければならなかった。薩摩藩の収奪がいかに厳しく過酷なものであったかがわかる。
つまるところ、長州藩とともに倒幕に大きく貢献した薩摩藩の行動を縁の下で支えたのは、琉球と奄美群島の人々からの苛酷な収奪だった、ということになる。二百六十年に及ぶ薩摩による琉球支配はあまりにも長すぎた。ウチナーンチュのヤマトゥンチュに対する根強い不信感はこの時から芽生え定着する。
沖縄の若い人たちが琉球・沖縄史を学ぶ時、薩摩による琉球への武力侵攻と、長期に及ぶ支配と収奪は喉に刺さる棘として受け止めなければならないだろう。歴史は苛酷なものである。苛酷な中に一筋の光があるとすれば、西郷どんが奄美大島の人々の側に立ち、藩の役人に立ち向かい横暴な姿勢を少しでも変えさせた、という事実だろう。愛加那の子孫は今頃どのような生活を営んでいるだろうか?
喉に刺さったトゲは、無理して抜く必要はない。時の経過とともに自然にポロリと抜け落ちる迄、忍耐強く待つことも大事である。