「ひまわり」と伊和辞典
週二本の映画を観ることにしている。もちろんレンタルだが、ほとんどは昔の作品で、久しぶりにソフィアローレンの「ひまわり」を観た。
あの感動を再び、という気持ちで観始めたのだが、数分も経たないうちにあることに気付いて、なんだか得したような気分になった。昔見たのは、予告編だったのだ。ソフィアローレンとマストロヤンニの魅力的な役柄と、広大なひまわり畑の印象が強烈で、その強烈さが、本編を見たという錯覚を、脳細胞にしっかりと植えつけたらしい。
冒頭のシーン。白い砂浜で男と女が愛し合っている。男(アントニオ)が女(ジョヴァンナ)の唇から首、耳筋にかけて激しい接吻を浴びせている。と、急に男が身を起こして、胸を叩きながら、苦しそうに激しく咳き込む。
驚いたジョヴァンナは、「どうしたの?」と聞くと、咳き込みながら、右手でジョヴァンナの右耳の方を指差す。イアリングがないことに気づいたジョヴァンナは笑いながら「のみこんだの?」。
軽く頷きながら、苦しそうに胸を叩いて「水はないかい?」と聞くと、ジョヴァンナは海を指して「水は海にたくさんあるわよ。」と笑いながら、アントニオの背中をポンと押す。アントニオは決まり悪そうに、海の方へトボトボ歩いていく。
この場面に腹を抱えるほど、大笑いしてしまった。青い空。白い砂浜。古い数隻の小舟。豊かな海。そして、ソフィアローレンのはち切れんばかりの素朴な魅力とマストロヤンニの男臭い魅力的な演技。
今まで見てきた映画の中で、この場面ほど素敵な場面を他に知らない。ソフィアローレンとマストロヤンニの黒髪もいい。素朴で嘘がない。多くの日本の女性の安っぽくて醜い茶髪と対照的だ。
なぜ日本の女性達は、西欧人の金髪に勝るとも劣らない麗しき黒髪を捨てたのだろうか?単なる好みの問題ではなく、戦後日本人の自信消失に関係しているのではないか、とぼくは考えるのだが、果たしてどうなんだろうか。下の方も茶髪にしているのだろうか?あゝ、嫌らしい。
それはともかくとして、アントニオとジョヴァンナは田舎の教会で式を挙げる。アントニオが24個の卵でオムレツを作る場面も秀逸だ。理屈抜きに楽しくなる場面である。哀愁を帯びたテーマ曲も素晴らしい。おっと、これ以上紹介すると、まだ観ていない人に怒られそうだから、下手な解説はこのくらいにしよう。
ソフィアローレンとマストロヤンニのイタリア語に魅せられて、ついに今回も悪い癖で、「ポケットプログレッシブ伊和・和伊辞典」をamazonで買ってしまった。本棚には、英和・和英辞典が十数冊、仏和・和仏辞典が数冊、日中・中日辞典、露和・和露辞典が埃をかぶって堂々と、そして寂しそうに鎮座している。そのほとんどは、amazonで購入した中古本である。マスター率は、いずれも日暮れて道遠し、であります。
嗚呼、愛しのソフィアローレンよ! Amore Mio ! 多くの人に「ひまわり」を観てもらいたい。Ciao !