沖縄よ! 群星むりぶし日記

沖縄を、日本を、そして掛け替えのない惑星・地球を愛する者として発信していきます。

3回目の辺野古

今日辺野古へ行ってきた。これで3回目だが、帰りのバスの中では、正直疲れ切っていた。これまでは、島ぐるみ会議の土曜日発のバスで行ったが、2回とも機動隊の動員はなく、工事車両の搬入もなかった。それで今回は趣向を変えて、平和市民連絡会のバスで行くことにした。総勢18名。少ない。参加費ではなく、カンパをお願いすると言うことで、大きな紙袋が回ってきた。島ぐるみ会議は、参加費として千円に決まっていたので、同じ額で良いだろうと思い、強制されてではなく、あくまでも自分の意思で千円札を入れた。100円でも200円でも良いらしいが、そんな気持ちにはなれない。
現場に着くと、うるま市宜野湾市沖縄市から参加者が大勢来ていた。総勢で150人くらいか。長板を置いただけの椅子に座って、隣の人にいろいろと話を聞いてみると、午前9時頃に、工事車両が50台ほど入って行ったと言う。我々が到着したのが10時半だから、間に合わなかったことになる。リーダー格の一人、伊波氏が新たな戦術を考える必要があるかもしれない、と言うような話をしていた。
昼食を終えて間も無く、機動隊が来た。できるだけ中央に集まるようにとのアナウンスに従い、中央の1番前の席に座った。ごぼう抜きの標的になる場所だ。大型車両から降りて来た大勢の機動隊員が、ぞろぞろとぼくらの方へやって来た。機動隊は帰れコールの中、一人づつごぼう抜きされて行く。二人が片方の脇をそれぞれ抱え、もう一人が両足を持ち上げる格好で、次々と引き抜いて行く。ぼくの隣に座っている「文子おばあ」こと島袋文子さんは、流石に高齢のため、腰掛けている椅子ごと持ち上げられて移動させられた。いよいよぼくの番だ。
二人が脇を片方づつ抱えて、”さあ、立ってください”と言うのを聞かないで、そのまま踏ん張っていると、もう一人が両足を持ち上げ、3人がかりで運んで行く。機動隊の車両にぶち込まれるのかと思ったら、少し離れた歩道に降ろされた。そこから移動できないように、周りを数名の機動隊員が囲んでいる。そこへ他のメンバーが次々と運び込まれてくる。その間も、機動隊は帰れコールが木霊して、現場は騒然となった。搬入入り口に陣取る人たちが全員排除されると、工事車両が流れるように入って行く。大声で反対の声を上げるが、どうすることもできない。この状態が30分から40分くらい続いただろうか。
搬入が終わると、機動隊は引き上げた。我々の負けだ。悔しい。虚しくなる。心が崩れそうになる・・・・。なんだ、こんなことだったのか。ここに集まる人々が日々味あわされてきたのは。少し考えてみた。しかし、これはすごいことじゃないのか?
徹底的な敗北にもめげずに、戦いを挑み続けること。これはすごいことじゃないのか?理が我にあれば、敵がどんなに強大であろうと、一歩も引かない。辺野古の人々は、まさしくこれを実践してきたのではなかったか?この場合の敵は、在沖米軍であり、安倍内閣である。と言うように考えて、なんとか崩れそうな心が、持ち直して来た。
そして15時頃、機動隊はまたやって来た。抵抗して、ごぼう抜きにされて、工事車両が流れるように基地の中へ入って行く。そして終了と同時に、機動隊が引き上げて行く。予期された敗北。これで良いではないかと開き直る。どんなに打ちひしがれようが、また立ち上がる。ウチナーンチュもっともっと図太くなれ!敵が降参するまで決して諦めるな!

お知らせ(保守も革新も日本人なら辺野古へ行こう!NO MARINE !)
月曜日 午前9時発 平和市民連絡会
火曜日 午前9時発 オール沖縄那覇の会
水曜日 午前6時発 平和市民連絡会  
               午前9時発 島ぐるみ会議
木曜日 午前9時発 平和市民連絡会
金曜日 午前9時発 平和市民連絡会
土曜日 午前6時発 平和市民連絡会  
               午前9時発 島ぐるみ会議
 (いずれも県庁前広場発)

 

 

 

 

 

 

 

カヌー隊とともに頑張ろう!

「 海鳴りの島から 」は以下のように報告している。

< 31日は朝、カヌー14艇で瀬嵩の浜を出発し、辺野古弾薬庫下で抗議船2隻と合流した。沖縄では、ハーリー鐘が鳴ると梅雨が明ける、と言われるが、まだしばらくは雨が続きそうだ。雲が垂れこめる空を見ながら、目の前で進められるK9護岸の捨て石投下に対し、この日も抗議を続けた。>

 < 今日の県内紙は、辺野古新基地建設に関し沖縄県が、7月にも工事の差し止め訴訟を起こし、工事停止の仮処分も申し立てる予定であることを報じている。だが、仮処分が認められて実際に工事が止まる可能性はどれだけあるだろうか。沖縄県は撤回の前に訴訟という順序で進めているが、こうやって撤回を先延ばしすることで、撤回の機会自体を失わないか、懸念がある。県民投票の話も出たが、自民党が非協力を打ち出していることに加え、来年の名護市長選挙、名護市議会議員選挙、県知事選挙などの日程を考えると、県民投票をやる余裕はない

工事現場では少しでも進行を遅らそうと、連日カヌーがフロートを越えて抗議を続けている。この日はお昼頃から雨となり、午前中で海上行動を終えたが、カヌーメンバーの必死の訴えが、いつも心に残る。沖縄に犠牲を強要して恥じないこの国はなんと醜いことか。>

 

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(いずれも県庁前広場発)

 

保守も革新も辺野古へ行こう!

今日の「 チョイさんの沖縄日記 」を読むと、カヌー隊が埋立工事を阻止するために、それこそ命懸けの行動をしているのが分かる。以下は「チョイさんの沖縄日記」から。

< 午前9時前に弾薬庫下のK9護岸の工事現場に着くと、すでに捨石の投下が始まっていた。それでもカヌー隊が来ると作業はそのまま止まった。>

 < 海沿いの岩礁にも、海保が20人近く待機している。海には12艇のGB、今日現場に出ている海保は100人近くにもなるようだ。>

 < 午前10時半頃、クレーンが動き捨石の投下が始まった。フロート沿いに待機していたカヌー隊が順次、突入していく。頑張って現場近くまで到達したカヌーもいたが、全員が海保に拘束された。>

 < 最初に突入した7艇のカヌーが拘束された後、しばらく間をおいて4艇のカヌーが突入した。拘束されたカヌー隊は、航路入口付近で解放された。「勝丸」と「平和丸」で引き取りに行く。航路入口の辺りでは大きなうねりが入り込んでいた。>

現場の様子を撮影した生々しい写真も掲載されているので、ぜひ多くの人に見てもらいたい。

明日は辺野古へ行こうと思う。カヌー隊の頑張りに少しでも報いるためにも。

 

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 (いずれも県庁前広場発)

岡本太郎の「 明日の神話 」

10年ほど前、東京で働いていた頃、渋谷駅に通じるビルの中に、岡本太郎の「 明日の神話 」という壁画が展示されていた。高さ5・5メートル長さ30メートルもある巨大壁画だ。
そこへ暇を見つけてはよく観に行った。それは建物の広大な空間の中の壁に、床から3メートルほどの高さに固定されていた。その下を、埃が舞い上がって壁画をダメにしないかと心配になるほど、多くの人が行き交っていた。
この世界的に有名な作品に対して、通り過ぎるほとんどの人は無関心だ。立ち止まって見る人もいるが、ほんの僅かである。長い時間、床上から見上げると首の負担が大きくなるので、中二階に登り、そこから見ることにした。ただ、その場合は大きな柱が邪魔になる。それで左右へゆっくり動かなければならない。右斜めから見たり、左斜めから見たりした。
作品から20メートルほど離れているが、作品自体が大きいため、こちら側に迫ってくるような迫力がある。激しい情熱と破壊、そして告発。「 明日の神話 」は核時代を生きる人間に対する過激なメッセージだ。核時代を生きる諸君、覚悟はできているか?核戦争は、遅かれ早かれ、必ず起きる。その時、諸君は覚悟はできているか?
この岡本氏の乱暴な問いかけに対して、答えを用意している人間は、一人もいないに違いない。我々凡人は日常生活に心奪われて、核戦争が現実に起きるなんて、本気で考えたりしない。
そんなことは、目の前を行き来する大勢の人を見れば分かる。個人的関心ごとで頭の中はいっぱいだ。大衆と「 明日の神話 」は何事もないかのように、すれ違うだけだ。
いったい、右に傾いた髑髏の真っ赤な目は何を睨みつけているのだろうか?この髑髏は岡本太郎自身に違いないとぼくは勝手に想像する。その真っ赤な目に、画家としての、言葉にならない強い意志を感じる。沈黙の一瞬の抵抗。破滅の瞬間でもまだ生きている魂。岡本太郎は核時代を生きる自分自身の覚悟を、「 明日の神話 」の中に埋め込むことに成功した。その時、岡本氏の心を横切ったのは、絶望だったか、それとも一片の希望はあったのか、誰にもわかりようがない。そんなとりとめもないことを考えながら、ぼくもまた群衆に交じり家路に着いた。少し胸を熱くしつつ。

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 (いずれも県庁前広場発)

魂を亡くした男「沖縄に内なる民主主義はあるか」批判 9

又吉(ヒジャイ)は魂を亡くした男である。彼の言論を調べると、そう思わざるを得ない。26日のブログで「沖縄を「もはや戦後ではない」にしたのは基地経済である。:県の「県民は過重な基地負担を背負う」は嘘である。」と断じて以下のように論述している。

< 県は「本土復帰まで27年間にわたり、米軍の施政権下にありました」と書いてあるが、それは嘘である。米軍の施政権下にあったのは1945年からの5年間であった。1950年からは米民政府の統治に変わる。米国は議会制民主主義国家である。米軍は米大統領の指揮下にあり、シビリアンコントロールされている。米軍は軍事を専門に行うものであり政治を行うことは許されていない。沖縄を統治するということは沖縄の政治を行うことである。米軍が沖縄を統治することは許されていなかった。終戦から5年間はインフラ整備のために米軍が統治した。しかし、1950年からは米大統領の直轄になり、沖縄に米国民政府が設置された。その後は祖国復帰するまで米国民政府が統治したのである。米軍ではない。県の米軍が統治していたというのは嘘である。>

又吉(ヒジャイ)は何も理解していない。自分に都合の悪いことは、たとえ真実であっても、嘘であると断じて恥じることがない。米軍が沖縄を占領してから、本土復帰が実現するまでの27年間、米軍の施政権下にあったのは、何人も覆すことのできない歴史的事実である。にもかかわらず、事実を捻じ曲げてまで、根拠のない嘘をつく狙いは何か?
それは単に、彼が盲信してやまない議会制民主主義というものを礼賛し、絶対化するためである。そしてそれに付随するものとして、シヴィリアンコントロールなるものを、必ず付け加えて見せるのだ。
<米軍は軍事を専門に行うものであり政治を行うことは許されていない。沖縄を統治するということは沖縄の政治を行うことである。米軍が沖縄を統治することは許されていなかった。>
一体何を根拠にこのようなデタラメなことが、ヌケヌケと言えるのだろうか?ぼくは、4月6日の当ブログで、又吉(ヒジャイ)の今回と同じ内容の言論に対し、次のように批判した。
「 1945年4月1日に沖縄本島に上陸した米軍は、ニミッツ米海軍元帥の名前で、軍政府布告(ニミッツ布告)を公布する。
日本政府の全ての行政権を停止し、南西諸島の居住民に関する全ての最高行政責任が、ニミッツに帰属するという内容の布告である。これでもって、琉球列島米国軍政府が成立したのである。その後、1950年12月15日に琉球列島米国民政府に改組されるが、最高責任者の民政長官は、全員軍人であった。
1957年に民政長官制は廃止されて、高等弁務官が最高責任者となる。6代続く歴代の高等弁務官は全員、中将の肩書きを持つ軍人であった。
3代目のキャラウェイ中将の時の民政官は、キューン氏という文官で、以下祖国復帰まで、4代の文官の民政官が続くが、あくまでも、琉球列島米国民政府の最高権力者は、軍人である高等弁務官だったのである。
又吉(ヒジャイ)は、民政府という言葉にとらわれて、恰も文官による政治が遂行されたような言い分だが、下手な冗談はやめてもらいたい。
占領期間中、文官による民政ではなく、軍人による軍政が行われたのは明らかである。議会制民主主義がどうあろうと、シヴィリアンコントロールがなんだろうと、アメリカ政府は、27年間沖縄で軍政が実行されることを承認したのである。」
以上の批判で充分、又吉(ヒジャイ)の嘘は完膚なきまでに、論破されたはずである。
それに懲りず、同じ主張を繰り返すなら、同じように叩きのめすだけだ。

< 本土で「戦後は終わった」と経済白書で宣言した1956年の前年の沖縄の人口は80万人を超えている。なんと戦前より21万人も増えたのである。経済から見れば沖縄は戦前をはるかに超えたのである。まさに奇跡の経済成長である。
戦前の沖縄と戦後の沖縄の違いは米軍基地があるかないかである。戦前は米軍基地はなかったが戦後は米軍基地ができた。それ以外は同じである。沖縄の経済発展は米軍基地があったからである。それ以外の原因はない。>

この男の短絡的思考癖は、何度も指摘してきたが、ご覧の通り、治る兆候がないばかりか、ますます酷くなる一方のように思われる。人口が増えれば経済成長の結果だと単純に結論付ける頭脳は、何処かに深刻な欠陥を抱えているに違いない。
1956年といえば、終戦から11年が経過している。その間に団塊世代と呼ばれる人口増加があった。1947年、48年、49年の3年間に生まれた人口数は戦後最大を記録している。
この現象は、沖縄においてもみられる現象だ。戦争という殺し合いの残酷な環境から解放され、精神的に安堵できる状況下で出生率が急上昇する傾向にあるのは、世界各地に見られる現象ということができる。人口増加は経済成長が原因だとする又吉(ヒジャイ)の指摘は、あまりにも無理があると言わなければならない。
< 戦前は米軍基地はなかったが戦後は米軍基地ができた。それ以外は同じである。沖縄の経済発展は米軍基地があったからである。それ以外の原因はない。>
もし仮に、沖縄が米軍に占領されずに、戦前同様本土と一体であったなら、つまりGHQ憲法とはいえ、日本国憲法に組み込まれていたなら、朝鮮戦争で経済成長を遂げた本土同様、その波及効果は沖縄にも及んだはずだ。米軍基地による経済発展など比べ物にならないほど、沖縄は豊かになったはずである。少し想像力を働かすことができれば、誰にでも理解できるような単純な理屈だ。又吉(ヒジャイ)君の想像力はどうも貧弱らしい。

<沖縄の経済発展に自分の人生のすべてを打ち込んだアメリカ人がいたことを沖縄の政治家、知識人、マスコミは封殺している。「かみつき」
米民政府は沖縄の民間の企業育成にも尽力したのである。県はその事実を無視して米軍基地の負担だけを取り上げている。>

又吉(ヒジャイ)はサムエル・C・オグレスビーについて述べている。彼のことをマスコミは封殺しているというが、琉球新報は去年の12月15日の「 南風 」というコラムで取り上げている。
<南風>沖縄の産業振興に尽くした米国人
2016年12月15日 
サムエル・C・オグレスビー。1911年10月米国バージニア州生まれ。メリーランド大学やエール大学で極東問題と日本語を専攻した。 氏は、1950年3月に米国民政府職員として、復興途上の沖縄に赴任する。 米軍統治下の沖縄は、琉球政府の上に米国民政府があり、法人認可、貿易管理、復興金融基金などに大きな権限を持っていた。 当時、経済局開発部次長であった氏は、沖縄の復興には産業振興が重要との理念を掲げ、まず、製糖工場とパイナップル缶詰工場の設立に中心的な役割を果たす。また、製鉄、セメント、ビール、肥料、煙草(たばこ)、製菓などの起業化や環境整備に尽力した。同時に、輸出品には特恵措置を、輸入品には物品税を課す措置を取るなどして、操業間もない県内産業を支援した。 しかし、氏の進める施策は必ずしも順調ではなかった。民政府の中には、氏の考え方に賛同しない人もおり、局内の説得には強いエネルギーが必要だった。時には、統治の最高権力者である高等弁務官に企業の視察を促し、産業支援の必要性を説くこともあった。 多くの壁にぶつかりながらも、氏は、次々と産業振興の種子を蒔(ま)き、育て、戦前の沖縄では夢想だにしなかった近代工業の基礎を築き上げた。真に沖縄のためを思わなければ、到底達成できなかった業績である。 オグレスビー氏は66年に55歳の若さで病で逝去した。産業界は浄財を集め、氏が生前希望した泊国際墓地に墓碑を建立した。同時に、産業功労者表彰や奨学金給付を目的とするオグレスビー氏産業開発基金を設立した。 毎年12月20日の命日に関係者が集まり、追悼式を行っている。今年は50回目の節目の追悼式を迎える。今年も沖縄の産業振興に尽くした立派な米国人に衷心より哀悼の意を捧(ささ)げる。 (桑江修、沖縄県工業連合会専務理事)

以上見られるように、サムエル・C・オグレスビー氏は沖縄人に正当に評価され、いまも感謝されて、多くの人々から慕われている。どのような組織においても、必ず良心的人物はいる。そう信じなければ、混沌としたこの世界で、我々は生きていくことはできない。
沖縄人は、米軍関係の人だからというだけで、悪人扱いするわけではない。良心的人物は正当に評価され、悪人は批判される、当然のことだ。サムエル・C・オグレスビー氏が沖縄のために行動していた一方で、米兵の犯罪は多発し、沖縄人の人権が蹂躙されたのも事実だ。
真実の姿を捉えるためには、我々はこの両面を見る必要がある。
しかし、又吉(ヒジャイ)君は、米軍を一方的に賞賛するだけだ。その論理的根拠は、アメリカは議会制民主主義国家であり、米軍はシヴィリアンコントロールされているからというものだ。この揺るぎなき信念は、もはや彼にとって、宗教的色彩を帯びて、何人にも反論を許さない聖なる世界となっている。議会制民主主義国家がすることは、すべて正しい。なぜなら、それは選挙で選ばれた国民の代表が執り行う政治体制だからだ。
こんな単純な論理を振り回されては堪らない。気違いに刃物とは、まさにこのことを指すのではないか?
実際、彼は米兵が犯罪を犯したら、米兵を擁護してきた実績がある。シヴィリアンコントロールされた米軍が悪いことをするはずがない、と。ここまできたら、もはやこの男は沖縄の敵だ。

<県は県民全体が基地の過重負担を背負っているというが、騒音被害についていえば嘉手納飛行場普天間飛行場などの周辺の住民は被害を受けるが那覇市など周辺に住んでいない住民は被害を受けない。騒音被害を受けている住民はわずかである。県民の多くは被害を受けていない。>

那覇市新都心の上空をオスプレイが飛ぶ様子を、ぼくは何度か目撃している。米軍の飛行機は、普天間飛行場嘉手納飛行場の上をぐるぐる飛ぶわけではない。日米地位協定によって、基地の自由使用が保証されているために、沖縄で米軍機が飛行制限されている区域はゼロである。逆に嘉手納ラプコンのように、民間機の飛行制限区域があることからも分かるように、沖縄は今も米軍優先である。県民の多くは被害を受けていないと、現実を矮小化するとは、又吉(ヒジャイ)の狡猾さは筋金入りだ。沖縄県民は全員、騒音被害を受けている住民の側に立ち、その不条理、理不尽に対して怒りを共有してきた。狭い沖縄を、被害の及ぶ範囲と及ばない範囲に区切るなど、全くナンセンスである。

<米軍基地は県土面積の約10%を占めているという。ということは90%には基地はないということだ。人口に当てはめると90%の県民は米軍基地とは関係なく生活しているということになる。>

この男は本物の馬鹿者だ。数字を子供のように解釈して、実体を見ようとしない。こんな人間が塾を経営したことがあるというのだから、愕然として言葉が見つからない。
彼の塾で学んだ子供達は、果たしてまともに成長したのだろうか?
ぼくは現在、那覇に住んでいる。米軍基地を直接感じるのは少ないといえる。しかし、ぼくは島ぐるみ会議が用意してくれたバスで辺野古へ行く。辺野古新基地建設に反対する県民と心を共有するためだ。実際に行動することが、自分の義務だとも思う。
90%の県民は米軍基地とは関係なく生活しているだと?又吉(ヒジャイ)よ、ぼくは君のような人間を心の底から軽蔑するよ。

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辺野古は楽しいゾッ!

辺野古へ行くために、普段より早く起きる。色々準備して、忘れ物はないか確認してから、家を出て、先週と同じ、7時30分発のバスに乗る。15分ほどで県庁前バス停に到着した。受付の時間まで45分ほどあるので、久茂地パレットにあるファーストフード店で朝食をとることにした。
レタスバーガーを食べ、コーヒーを飲みながら新聞に目を通す。今日、辺野古で県民集会が開催されると言う記事を見て驚いた。25日の記事を読み違えていたのだ。
自分の呑気な性格に我ながら呆れてしまった。8時30分に県庁前広場に行くと、大勢の人が集まっている。やはり県民集会は今日、予定されているのだ。バスは2台あり、ひとつは平和市民連絡会が用意したもの、もうひとつは、島ぐるみ会議のものということで、二列に並んでいる。平和市民連絡会のほうは、集会が終わり次第引き上げる予定になっているが、島ぐるみの方は、その後も3時半迄現地にとどまるらしい。
平和市民連絡会のバスに乗ろうか迷ったが、並んでいる人数があまりにも多いので、先週と同じ島ぐるみのバスに決めた。顔見知りの人が3、4名いた。そのほかの人はほとんど知らない人たちだ。その中に、かなり高齢の外国人が一人いた。確かVeterans for Peaceのメンバーの一人で、新聞で見たことのある人だが、名前は思い出せない。
乗車の時間がきた。満杯だ。4名が溢れた。その中の一人が、予備シートを倒して座ろうとするが、予備シートにはシートベルトが付いていないので、利用できないこと、理由は高速道路で行くから、検問で見つかると全員が降車を命じられる羽目になる、との説明があり、残念なことに、4名は乗ることができなかった。
高速道路の入り口手前で待っていた14、5名の人たちも乗車できず、岩村氏はバスから降りて、その人たちに事情を説明して陳謝した。それほど今日は参加希望者が多いのだ。
乗車できなかった人たちを拾うバスが、あとで手配されたかどうか、確認していない。伊芸サービスエリアまで、数名の人がマイクを握り、それぞれの思いや考えを述べた。歌を歌う人もいた。堅苦しさはいっさいない。伊芸サービスエリアに着くと、7、8台のバスが止まっている。全部辺野古へ向かうバスだ。熱気を感じる。現地は予想を超えてたくさんの人が集まっている。これほど人が集まる集会に参加するのは、本当に久しぶりだ。
家を出るとき、今日の集会を予期していなかったので、浮いたような気分になっているのがわかる。演台の車の方へどんどん歩いて行く。正面斜め向かいに立って演説の開始を待つ。車道の両脇の歩道は、大勢の人で埋まっている。快晴のため暑い。日焼けを避けるために、長袖にしたのは正解だった。襟を立てる。照屋寛徳他、国会議員、県会議員、市会議員らが演説したが、内容はありきたりなものだ。しかし、辺野古新基地は造らせないという情熱はしっかり伝わったので、大きな拍手で応えてやった。12時15分くらい前に全ての演説は終わり、平和市民連絡会のグループは帰り始めた。コンビニで弁当を買うために、送迎車を待つが、なかなか来ない。人数が多すぎるためだ。するとテントが並んでいる方向から、騒々しい音が聞こえてきた。大勢の機動隊員が二台の黒い車を囲んでいる。右翼団体だ。
テントの中で食事をして休憩をとっている人たちに、大音量で嫌がらせの言葉を浴びせている。彼らの挑発に乗らないでください、という反対派のアナウンスが流れる。ぼくの方角からは、はっきり見ることはできないが、テントの中の人たちは、黙ってじっとしているに違いない。それでも、右翼の汚い言葉は、辺野古の青い空に響き渡る。20代のあどけない若い声だ。黒い車はぼくらの方へ進んできた。金色で大きく大日本忠仁社と書かれている。
機動隊の車両が止まっている前で座り込みをしている人たちの前にきた時だ、右翼の若いにちゃんが、座り込みの中に知っている人を見つけたらしく、彼の名前を呼びながら、今夜お前の家に行くからな、覚えておけよ、と言って興奮したのか車道に飛び出して相手の方へ走り出すと、機動隊員が制止してそのおにいちゃんを車の中に押し戻したのだ。
二人は多分、かつての同級生だったに違いない。そのことを思うと、胸が痛む。そして沖縄がおかれた状況に、怒りの感情が沸き起こる。若い人たちに罪はないのに、と思いつつ。
二台の黒い車はそのまま直進してからUターンしてきた。と同時に、良いタイミングで送迎車が来たので、それに乗り込んでコンビニへと向かう。同乗者は6名であった。
ゴーヤーチャンプルー弁当と、缶コーヒーと菓子一個を買う。現場に戻ると、大日本忠仁社は引き上げたらしく静かだ。おかげで、のんびりと食事を楽しむことができる。腹が空いていたので、うまい。外で食事するのも良い。あゝ健康だっ、とつい叫びたくなる。機動隊車両前の座り込みに参加する。工事車両が来たら、機動隊員に排除される対象となる場所だ。
一緒に来た高齢の外人がぼくの前に座った。後で知ったが、名前はダグラス・ラミス。ぼくの右隣の女性は日傘をさしているので、その間に座るようにダグラス氏を促す。彼はぼくの好意を理解してくれた。しかし、ぼくの隣に座ると、これであなたは前が良く見えますね、と言った。車道の真正面向こう側は、仮ステージになっていて、いろんな催しが行われているのだ。ダグラス氏に一本取られた。
しばらくすると、青いTシャツを着た不思議な集団がやってきた。グリーンコリアという組織に属する韓国人達らしい。初めて聞く名前だ。34、5名の若い人達で、女性が多い。反対派の応援に来たという。ありがたい、と素直に思う。世界中から応援に来てほしい。
その彼女達が、仮ステージでパフォーマンスをやってくれた。自作した沖縄を応援する歌を韓国語と日本語で代わる代わる歌ってくれたのだ。世界のどこにも良識派は必ず存在する。心の交流はいい思い出となるだろう。パフォーマンスが終わると、大きな拍手に送られて、彼女たちは帰っていった。
続いて、知念良吉さんがステージに躍り出た。マラカスを振ってくれる人を彼がお願いすると、なんとダグラス氏が、それじゃやるか、と呟いて立ち上がり、車道を横切り始めたではないか。しかし残念なことに、希望者が他にもいて、彼は次の曲に回された。
演奏が始まり、知念氏はギターを弾きながら歌い、彼の両脇でマラカスを振る人がいて、ダグラス氏は横に座って、次の出番を待っている。しょんぼりしている姿を見ると、ちょっと気の毒な感じがする。彼は空のペットボトルを手に持っている。立ち上がると、横の草が生えている歩道の方へ歩き始めた。草の上で休むつもりなのかな、と思っていたら、なんと持っているペットボトルに小石を入れ始めたのだ。入れ終わると、演奏者たちに加わり、ペットボトルを調子よく振り始めた。彼のパフォーマンスに我々観客側から大きな拍手が沸き立った。
知念氏のうまい演奏も手伝って、辺野古の現場は野外劇場と化して、大いに盛り上がったのである。県庁前広場に戻ったのは、16時半であった。ミスターダグラス、また会いましょうと固い握手を交わして、そのまままっすぐ家路を急いだ。家に着いたのは、17時15分だった。そしてネットで、ダグラス・ラミスと入力してみた。
大変な人物である。著作も多い。その中から『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』を早速、amazonに注文した。
きっと書き忘れたことがあると思う。それほど今日は、多くのことを経験した中味の濃い充実した1日だった。

 

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目覚めよ!海兵隊は抑止力にならない!

予定していたのに、昨日の辺野古集会には参加できなかった。呑気な暮らし方をしているので、昨日が25日とは思っていなかったのだ。日付感覚が1日ずれていた。明日は参加するつもりでいる。一週間ぶりだが、様子を見ながら、回数を増やして行くことになるかもしれない。辺野古海兵隊基地建設反対に理があるのは、当然のことだからだ。
1.自国は自国で守る・自主防衛路線    2.嘗ての敵国の軍隊の駐留を許さない・日本は独立国家である    3.海兵隊は抑止力にならない・尖閣戦争は海軍と空軍の戦闘が中心となり、輸送ヘリに過ぎないオスプレイの出る幕はない
以上の理由から、ぼくは辺野古海兵隊基地建設に反対する。辺野古だけではない。在沖海兵隊基地は完全撤去するべきである。多くの専門家が指摘するように、全く抑止力にならないからだ。在沖米軍基地は、当面の間は、東洋で最大規模を誇る嘉手納空軍基地だけで十分である。
沖縄の地図を見ると、嘉手納基地以外の基地は、ほとんど全部海兵隊の基地が占有していることがわかる。広大な面積だ。これを撤去してもらう。論理として明快である。

お知らせ(保守も革新も日本人なら辺野古へ行こう!NO MARINE !)
月曜日 午前9時発 平和市民連絡会
火曜日 午前9時発 オール沖縄那覇の会
水曜日 午前6時発 平和市民連絡会  
               午前9時発 島ぐるみ会議
木曜日 午前9時発 平和市民連絡会
金曜日 午前9時発 平和市民連絡会
土曜日 午前6時発 平和市民連絡会  
               午前9時発 島ぐるみ会議
 (いずれも県庁前広場発)