沖縄よ! 群星むりぶし日記

沖縄を、日本を、そして掛け替えのない惑星・地球を愛する者として発信していきます。

我が国に国家の理念ありやなしや?

今日の予算委員会で、民進党長島昭久議員が質問に立って、政府は尖閣諸島に対して、日米安全保障条約第5条が適用されると米国が表明する度に、日米同盟の揺るぎない安定を繰り返し言明するが、人民解放軍尖閣諸島に上陸して、現在の竹島のように実効支配したらどう対応するのか、と質問したのに対し、岸田外務大臣はそのような事態に至らないように日々対処している、というような内容の答弁をするのが精一杯であった。

次に、稲田防衛大臣に対して、政府はオスプレイを17機購入することを決定したが、非常な高額になると予想されるが、最終的な総額はどのくらいになると見積もっているか、と質問したのに対し、正確に応えることができなかった。

この両大臣の答弁を聴いて、背筋が凍りつく思いがした。国防に対する意識が、歴代内閣同様、今の内閣には希薄である。自主防衛の気概が完全に失われている。第5条の適用を米国が何度表明したからといって、戦闘を交えることなく人民解放軍尖閣諸島に上陸すれば、日本には領土を守る意思はないと見て、米軍が出動することはあり得ない。

そのような事態になる可能性は大いにありうる。なぜなら、いま尖閣諸島海域をパトロールしているのは、海上保安庁の巡視船のみだからだ。そして、中国の船舶は堂々と領海内を出たり入ったりしている。戦闘を交えずに、いかに自国民を上陸させるか、その隙を虎視眈々と狙っているのだ。海上保安庁は警告を発するだけだから、その日は必ずやってくるだろう。

そして、一旦上陸を果たすと、自衛隊に交戦権がないことを現場で実際に確認して、そのまま居座り続けて、実効支配の実績を認めさせる作戦だ。竹島という好都合なお手本もある。

中国の野望を打ち砕く手段はただ一つ、海上保安庁に代えて、海上自衛隊護衛艦を投入し、常時監視体制を敷くことだ。それでも中国の艦船が領海に侵入したら、その時は静かに、憲法を無視して撃沈すればよい。自衛隊の武士道精神の恐ろしさを見せつけると良い。

反撃してきて交戦状態となれば、その時こそ米軍が出動してくるだろう。自国の領土を守るのに、自ら戦わずしてどうして他国の軍隊が駆けつけるか。これぐらいのシュミレーションを披瀝できる大臣が一人もいないとは情けない。

そこで、自衛隊の最高指揮官たる安倍総理に言いたい、我が自衛隊員は、国家のために命を捧げる覚悟はできているし、命令が下ればいつでも出動できる体制でいるが、隊員の士気は総理が本気かどうかに左右されるので、出動を命じる際は、隊員一人一人の顔を正面から見添えて次のように述べて欲しい。

憲法改正には時間がかかるので、武器を使用せねばならなくなったら、総理大臣の名において許可する。国家の威信をかけて交戦せよ。すべての責任は私が取る。』

「沖縄に内なる民主主義はあるか」批判 4

アメリカのポチ、又吉(ヒジャイ)の言論には矛盾する箇所が多数あるが、その中の一つを取り上げてみたい。普天間基地の周りに、民間の住宅が密集している現状は、全国的に知られるようになったが、なぜ危険な米軍基地の飛行場の周りに、多くの住宅が建つようになったのか、その原因について又吉(ヒジャイ)は、次のような意味合いの言及をしている。すなわち、米軍基地が及ぼす経済波及効果、軍雇用、米兵の遊交費等、が地元住民を引き寄せたのであり、その結果、基地の周囲は住宅密集地になったのだと。

彼の説がその原因の全体像とは思わない(終戦後、荒廃した街の復興は、普天間基地周辺に限らず、全国的に見られる現象である)が、部分的に真実であると仮に認めるとしよう。

そうすると、住民は経済的理由により、自らの意思で積極的に基地の周りに住むようになったことになり(これが彼の意図するところであるが)、現在の普天間基地の危険な状態の責任の一端は、住民側にあることになる。

問題はここからである。辺野古移設賛成派の又吉(ヒジャイ)は、普天間基地移設問題は基地問題ではなく、宜野湾市民の人権問題であると主張しているのだ。つまり、世界一危険とされる普天間基地は早急に返還されるべきであり、それは宜野湾市民の人権問題であるから、辺野古移設反対派の主張は人権問題の立場からすると完全に間違っているというわけだ。

基地周辺に自らの意思で暮らしながら、人権問題だといって、辺野古へ早急に移設せよと主張する又吉(ヒジャイ)の主張は論理的矛盾がはなはだしく、ある意味宜野湾市民を馬鹿にしている。

ぼくは、人権を訴える宜野湾市民がエゴイストで固まった人々だとは思いたくない。佐喜真市長も1日も早い普天間基地返還を訴えながらも、辺野古への移設を公言しないのは、この問題が人権問題だけで割り切ることはできなと考えているからだ。つまり、現在の普天間基地問題は、人権問題であると同時に基地問題そのものでもあると、深く認識しているのだ。

沖縄の首長の大多数は、基地問題が絡むと、賛成するにしろ反対するにしろ、常に苦渋の選択を迫られる。日米両政府の重圧の下、弱い立場の県民に許される手段は非常に限られているからだ。

又吉(ヒジャイ)が主張するように、普天間基地を人権問題に単純化して、基地問題の本質を覆い隠してはならない。外国の軍隊が常駐する沖縄の基地問題は県内だけで議論できるものではなく、我が国に果たして、国家としての確たる理念が存在するのかという、国家のあり方が根本から問われている深刻な問題でもある。

 

拉致被害者は救出できる!

拉致被害者の家族が救出を訴える姿を、テレビで見るたびに、何もできない政府と我々国民の無力を再認識させられて、一体このままで良いのだろうか、否、良いわけがない、と思いつつ悔しさと絶望感に苛まれるという状態が、常に繰り返されてきた。

特に国防の義務を持つはずの政府に対する不信感は、ぼくの胸の内で増大する一方である。憲法9条があるから拉致国家に対して、なんの手だしもできないのだと言われ続けながらも、やはり、感情的にも理性的にも納得できない現実。

そんな鬱状態の中、元自衛官の側から力強い声が聞こえてきたのである。元陸上自衛隊特殊作戦群初代郡長の荒谷卓氏と、元海上自衛隊特別警備隊初代先任小隊長の伊藤祐靖氏。

二人は断言する。「いまでも、拉致被害者を救出せよという命令が政府から下されたら、直ちに特殊部隊は出動し、拉致被害者を救出する準備はできている。そのための訓練は、日々怠ることなく継続している。」

そして、次のようにも述べている。「命令を下す政府の本気度が問われている。しかし、今の政府には、拉致被害者を本気に取り返す気概がない。」

9条のせいで、いろいろと誤解される我が自衛隊だが、その実像は、日々厳しい訓練に耐えて国家防衛の使命感に燃えているのだ。嘘話を繰り返す政治家の不実な千の言葉を聞くよりも、自衛官の誠実な一言を聞くほうが、精神の健康にとってどれほど良いことか。

お二人の発言は、YouTubeで聞くことができるので、できるだけ多くの人に見てもらいたい。そしてお二人の本も推薦したい。伊藤祐靖著『国のために死ねるか』、荒谷卓著『戦う者たちへ』。荒谷氏の『戦う者たちへ』は当ブログでも紹介しているが、あと五、六回続ける予定である。蛇足だが、ぼくは今話題になっている本、『自衛隊幻想』をamazonに注文して、届くのを心待ちにしているところである。

世界が絶賛し畏怖の念を抱く、日本人の武士道精神は脈々と受け継がれている。伝統ある武士道の日本男子は実に美しい!そしてアメリカナイズされた日本人のなんと醜悪なこと。

 

荒谷卓 著『戦う者たちへ 日本の大義と武士道』7

今日は、我が国の建国記念日である。

琉球新報の「金口木舌」は「建国記念の日の歴史」と題して次のように書いている。
<「国民の祝日に関する法律」により16の祝日がある。唯一、日付を政令で定めているのが今日の「建国記念の日」だ
▼戦前は「紀元節」だった。初代神武天皇の即位日を日本書紀の記述を基に紀元前660年1月1日とし、日の干支(えと)などを検討して新暦の2月11日と決めたのが1873(明治6)年。以来、国威発揚の日として盛大に祝賀されてきたが、敗戦後、連合国軍総司令部(GHQ)によって廃止された
▼1952年の独立回復後、復活する動きが強まる。神話を基にした天皇制賛美だとして強い反対があり、国会で激しい議論となった。そして、根拠があいまいな日付を政令で定めることとして祝日「建国記念の日」となったのが66年である
▼沖縄では、日本復帰に伴い73年に初めて祝日となった。その前日付本紙で安仁屋政昭沖縄国際大名誉教授(近現代史)は、即位年も即位日も「つじつま合わせ」だと指摘。小国家が成立していない時代の神武即位そのものが「虚構」だと断じた
▼44年を経た今も「虚構であることは全く変わらない」と安仁屋さんは言う。「歓迎する人もいるが、天皇制が悲惨な沖縄戦とその後の米軍支配と関わっていることを忘れてはいけない」と強調する
▼天皇家の祖先によって日本国が建国されたとされる日。この祝日自体の特異な歴史を、沖縄の歴史を振り返りながら考えたい。>

安仁屋政昭氏がどのような人柄であるか、存じあげないが、神武天皇即位そのものを44年を経た今も「虚構であることは全く変わらない」と述べたことについては、安仁屋氏の個人的な学問上の見解としては仕方ないとしても、<天皇制が悲惨な沖縄戦とその後の米軍支配と関わっていることを忘れてはいけない>と強調したとなると、反論せざるを得ない。

先の大戦の時、我が国は絶対君主制ではなく英国同様、三権分立が確立した立憲君主制国家であり、実際の行政権は内閣にあり、天皇は内閣が決定した事項に関しては、それを承認するか、意見を述べられるくらいで、制度上、内閣に命令を下すことは不可能であった、という事実だけでも指摘しておかなければならない。

沖縄戦だけが悲惨であったのではない。第二次世界大戦そのものが悲惨であったのだ。そして、大東亜戦争に限っていえば、我が国は欧米帝国主義国家からアジア諸国の植民地を解放するという大義を掲げて戦ったのであり、敗北したとはいえ、イギリス、フランス、オランダ各国の軍隊をアジアから駆逐した結果、アジア諸国は独立を果たしたのである。現在のアジアの平和の背景には、我が国が三百万人の尊い犠牲を払ったという事実があることを忘れてはいけない。

安仁屋氏は、44年を経た今も、GHQが広めた偏向史観から脱し切れていないようだ。驚くと同時に、残念でもある。

引き続き、荒谷卓氏の『戦う者たちへ』の文章を紹介するが、今日の文題は奇しくも「日本建国の理念」となっている。全くの偶然だが、偶然の必然性という言葉が頭をよぎる。

「 八、日本建国の理念

日本の建国宣言にあたる、神武天皇即位の詔(「橿原建都の詔」)では、次のような日本的社会思想を国造りの理念としている。

『夫(そ)れ大人(ひじり)の制(のり)を立つ義(ことわり)必ず時に随う』とは、人間は自然の心理をすべて感ずることはできないから、人間社会の掟は、決して固定(教義化)することなく、そのときどきに応じて判断すべきことを示していると思う。

これは、人為的に作られた社会規範(経典やイデオロギーや法)を、普遍的、絶対的なものとする思想とは、ずいぶんと異なるところだ。そもそも、古事記日本書紀の神話では、(人には)姿を見せることがない天神五柱から物語が始まる。最初に現れる神「天之御中主神」は、宇宙のすべての根源たる理(万物万象の原理)を現しているものと思われるが、この神様は見えない神様としている。ここは、重要なところで、いわゆる(絶対的)真理は、人にはとても計り知れないとの示唆なのだろう。あたかも宇宙の真理を得たりと『教義』を説こうとする人間への戒めのようにも思われる。

では、時や時代に応じて、何をもって正しさの基準とするかといえば、『苟も民(おおみたから)に利(くぼさ)有らば、何ぞ聖造(ひじりのわざ)に妨(たが)わむ』。すべての民に利益のあることならばそれは正しいことだとしている。神武天皇が即位にあたり、「すべての民に利益をもたらす」政(まつりごと)を行なう「寶御位」の意義をまず示すことで、この御位につく天皇がいかなる御存在であるかを示している。天皇は「しろしめす」存在、すなわち「国民すべての心のうちを等しく知る」ともいわれ、「人々の声を分け隔てなく聞きとどける」という、いわば日本的民主主義の理想を象徴している。

日本的民主主義とは、多数決による意思決定ではなく、少数の意見であっても聞き入れ、優れたものであれば取り入れるというものだ。『上(かみ)は即ち乾霊(あまつかみ)の国を授けたまう徳(うつくしび)に答え、下(しも)は即ち皇孫(すめみま)の生を養いたまえふ心を弘めむ』とは、「天皇は、先祖たる神々の神聖なる徳を受け継ぎ、模範を示し、臣下・民は、その範を見習い、同じように先祖を大切にする心を社会に広める」というもの。神々と同じ徳に満ちた社会を創ろうという大理想を示している。

また、物事を決めるときは、今生きている者たちにとっての利益だけではなく、先祖の経験と知恵に尋ね、将来の子々孫々の幸福をも考えるべきことを明示している。ここも重要なポイントで、民主主義のシステムに歴史的経験値を組み込むことで、特定の世代の幸せのために自然の資源を食いつぶしてしまうような愚かなことがないように戒めているのだ。これは、時代の横軸にあたる同世代間だけの民意だけではなく、各時代を貫く縦軸としての先祖の意思も含めた、壮大なる民主主義の発想である。

『然して後に六合(くにのうち)を兼ねて以って都を開き八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)と為(せ)むこと亦よからずや』とは、そういう大理想を持ちつつ、一つの家のような国を創ることを目指そうという意味だ。

神武創業に日本建国の理念があり、日本の大義はここに存する。」

荒谷卓著『戦う者たちへ 日本の大義と武士道』6

「 七、普遍的な神道の考え方(略)

日本の神話では、風、日、水や草木も人も、すべてのものが神々によって次々に生み出され、それは過去から現在に続き、未来もそれが続く。神々の宇宙万物の創造は、過去の一時点だけではなく、過去から将来にわたり永遠と続いているのだ。我々が子供を産み育てるということは、神々の創造の業の連続である。草木も人もすべてが神々の子孫であり、過去から未来まで、すべての存在が一つの家族のようなものとして考える。したがって、自然界で人間だけが特別な権利を持ち、人間個人の利欲を正当化するという発想は持ち得ない。

神道の発想は、人間と自然の共生と、民族の協和を当然視するものである。また、我々は全員が神々の子孫であるということは、本来、神の心を受け継ぐ神聖なるものを、一人一人が持っているということだ。これが、日本人は「性善説」に立つと言われる所以である。

しかし、肉体は、明らかに個々の所有物で、他との共有はできない。肉体を養うため、他の生き物の命を頂戴し、また肉体が欲する欲望により穢れを纏うことになる。それを放置しておくと、自分の心の中の神聖なるものが欲する声が聞こえなくなる。だから、日々積もった、禍事や罪穢れを取り払って自分の真心を取り戻し、その真心を貫いて人生を全うしようと努力する。

神道の特徴は、肉体が死んだあとの精神世界で神に近づこうとするのではなく、肉体を有する現世において、神々に近づく努力をするということである。

もう一つ、日本の神話の示す大事な点について触れてみる。日本の神話において、仮に、最も武勇に長けたスサノオノ命が最高神であったのならば、それはギリシャ神話のゼウスのように、智謀をめぐらし武力を持って勝ち抜いた者が最高の権力を手にする覇権的民族神話になろう。

しかし、日本の神話は、穢れがなく清らかですべてのものを同じように照らし清めるアマテラス大神を最高神とした。そこに、日本人の価値観がある。

現実においても、アマテラス大神のように穢れがなく清らかで、すべての人々をしろしめす(人々の心を分け隔てなく受け止める)存在である天皇の御位がうえにあって、いかに智謀・武力に優れた強者が現れようと、その者は上の座を侵すことなく、上の意を汲んで、その知能・実力を社会に奉仕することを良しとしてきた。それが日本である。

日本の神話は、神と人の関係を「神の精神を受け継ぐ子孫」とし、「清く穢れのないものが正しい」とする価値観を示しているのである。つまり「神が人間に与えたのは原罪や権利ではなく、神の徳を知る心である」。人間はそれを自覚し、その心に従って生きるべきだという原始的な価値観である。それは、日本神道の地理的・歴史的な特殊性ということができる。しかし、その特殊性は、すべての民族の起源に共通する普遍性を有しているともいえるのではないか。」

「沖縄に内なる民主主義はあるか」を批判する 3

今回は、2014年6月10日のブログ「なぜ、沖縄に米軍基地は必要か」をとりあげる。

社会主義圏が崩壊縮小していった歴史的経過を長々と述べているが、誰でも知っている事を教科書的に書いているだけなので、そこの部分はカットして問題とすべき所に焦点を当てて批判のメスを入れることにする。

< 沖縄に米軍基地がある原因は中国が存在するからである。なぜ中国が存在するから米軍は駐留するか、中国は米国・日本の民主主義国家と対立してきた社会主義国家だからである。そして、軍事力で他国に侵略する国だからである。米軍は中国の沖縄、日本に侵略するのを抑止するために存在している。>

あまりにも単純な認識に愕然とするのは、ひとり、ぼくだけではあるまい。表面の現象しか見ていないから、このように幼稚な、真実を見定めるこのできない、軍事思考に陥るのだ。このようなプロパガンダが歴史をよく知らない若い世代にどれほど悪影響を及ぼすか、よくよく注意しなければならない。

沖縄に米軍基地が戦後七十一年が経過しても、現在なお存在する原因を把握するには、歴史を百年前にさかのぼって、東南アジアの当時の状況の全体像を俯瞰する必要がある。しかし、その全体像を詳細に記述しようとすれば、膨大な量になることは必然なので、今は要点を記述するだけにとどめたい。

さて、日中戦争が泥沼化していく中で、帝国諸国の中で中国大陸における利権獲得に遅れをとった米国は、満州帝国を構築した日本を特に敵視した。新興国家の一アジア民族にすぎない日本が欧米諸国と対等に利権を争うとは生意気だというわけだ。

中国大陸から日本を駆逐するため、米国はヨーロッパ帝国諸国と歩調を合わせて、様々な陰謀を企てながら蒋介石軍に対して、資金と武器の援助をしたことが歴史的事実として明らかにされている。

ルーズベルト大統領は、日本を潰すために戦争に引きずり込む策謀を企て、見事成功する。真珠湾攻撃で太平洋戦争が勃発したのではない。ハル・ノートを突きつけた時点で、実質上、米国は日本に宣戦布告したのである。各地で戦われた戦闘の記述は省く。

沖縄占領、東京大空襲、広島長崎への原爆投下、日ソ不可侵条約を一方的に破棄して参戦してきたソ連ポツダム宣言受諾、そして大東亜戦争の敗北。連合国軍総司令官としてのマッカーサーは、七年間の日本占領期間において、徹底した日本弱体化政策を実行した。

国際法違反の東京裁判、マスコミ他郵便物の大規模な検閲、米国型民主主義を押しつけるための明治憲法破棄、僅か七日で制定された現憲法施行。沖縄の米軍基地建設、本土各地における米軍基地建設。

これら全てが、絶対的権力を持つマッカーサーによって遂行されていったのである。裏返して考えるならば、米国は日本軍の強さ恐ろしさを身に染みて感じていた証拠に他ならない。日本軍の強さの秘密は、アジアを欧米諸国の植民地支配から解放するという立派な大義があったからである。それゆえに、米国は、日本が再び欧米諸国を脅かす軍事大国として台頭してくることがないように、徹底的に骨を抜き弱体化を図ったのだ。

日本民族の意識を改造するだけでは安心できない。優秀な民族である日本人はきっといつか再び目覚めて、国際舞台に台頭してくるはずだ。ゆえに、軍事的にも押さえておく必要がある。世界戦略の一環として、米国はそう考えた。

マッカーサーによる日本占領が続く間、連合国の一員として共に戦ってきたソ連と米国の対立が激化し、毛沢東も資本主義体制の米国に敵対するようになる。その脅威が現実になったのが、朝鮮戦争である。最高指揮官のマッカーサーはその時、理解することになる。日本の戦争は自衛戦争だったのだと。

そして米国は、対ソ連、対中国対策として、在日米軍を活用するために、基地を増強強化していく。それを目的に締結されたのが、日米安全保障条約である。

日本国を共産勢力から守るというのは建前であり、本音は日本列島を米国の最西端の国境にして、米本国を共産勢力から防衛することにある。

以上、大雑把ではあるが、米国の極東戦略のあらましを記述した。又吉(ヒジャイ)が言うように、<米軍は中国の沖縄、日本に侵略するのを抑止するために存在している。>

と断定するのは、米軍に寄り添った見解であり、単純すぎて誤解を招く危険性があり、有害でしかない。在日米軍は中国が沖縄、日本を侵略するのを抑止するために存在しているのではない。むしろ、次のように言い換えるべきだろう。

「米国は、先の戦争で日本に勝利したのを最大限利用し、日本に強大な米軍基地を置くことにより、日本の再武装を抑えると同時に、米国本土を共産勢力から防衛することに役立てている。そしてそれは中東方面で軍事展開するときにも、大いに活用できるし、実際そうしてきた。米軍が日本への中国による侵略の抑止になっている事実は、あくまで付随的現象にしかすぎない。」

 

 

 

 

 

 

辺野古米軍新基地は呪われた基地になる!

今日の沖縄タイムスの社説より。
< 山城博治さん、あなたが辺野古・高江の反対運動に絡む三つの罪で逮捕・起訴され、名護署の留置場や那覇拘置所に長期勾留されてから、6日で113日が経ちました。病を抱える身でありながら、弁護士以外、家族さえ接見できないというあまりにも異常な状態が続いてます。
私たちはあなたから直接話を聞くことができず、あなたは身柄を拘束され辺野古に行くことができません。ならば、と、こういう手紙形式の社説を思いつきました。
博治さん。政府は6日朝、名護市辺野古の新基地建設に向け、海上での工事に着手しました。最大で約14トンもある大型コンクリート製ブロックをクレーンで台船から作業船に積み替える作業です。
翁長雄志知事や稲嶺進名護市長らが建設計画の撤回を求めて訪米した直後に、県と協議もせずに、一方的に作業に踏み切ったのです。
自民党二階俊博幹事長でさえ、「沖縄の理解を十分に得られていない状況」だということを認めざるを得ませんでした。>
まさに異常事態と言わなければならない。今の安倍内閣ファシスト内閣である。正当な民主主義の手続きに則って、選挙で何度も沖縄の民意を示したにもかかわらず、米軍新基地建設に有無を言わせぬ態度で強行着手した。しかも、反対派をリードしてきた山城氏を長期勾留し続けている。

病を抱える人間に家族との接見を許さないというのは中国共産党の手口となんら変わらない。沖縄と対峙する時、安倍内閣は独裁政治を行使しても恥じることがないようだ。

振り返ってみると、安倍晋三という政治家は、総理大臣になる前は保守勢力から期待された自民党の星であった。戦後レジームからの脱却、拉致被害者を取り戻す、靖国参拝を実行する等と主張していたにもかかわらず、ことごとく期待を裏切るものであった。

憲法改正、自主防衛を唱えながら、蓋を開けてみると、相変わらずの歴代自民党政権と同じ対米従属の軟弱振りである。強い相手に対しては腰を低くして、沖縄のように弱い立場にあるものに対しては強硬になる、弱い者いじめのお坊っちゃんである。真の勇気のない安倍晋三に期待してはいけない。

山城博治氏をテロリスト呼ばわりする連中がいるが、言葉は正確に使えと言いたい。時の権力に追い詰められてどうしようもなくなった時、人民が抵抗するのは正当な行為であり、山城氏がとった暴力行為というのは諸外国の人民の抵抗運動が破壊活動を伴うことに比べれば、カワイイものである。

一昨年、イギリスで起こった大学の授業料値上げに抗議する学生の反対運動は、投石、車両の焼き討ち、店舗のショーウインドウを破壊するというようなものであったし、昨年アメリカで起きた人種差別に対する黒人たちの抵抗破壊活動が凄まじかったことを思えば、山城氏の行動を非難する人間はきっとモヤシのような、いてもいなくてもいいような役立たずの人間に違いない。

テロリストというのは、罪のない人間を無差別に殺傷する人々をさすのであって、山城氏がいつそのような行為を実行したというのだ。

< 反対側の歩道で折りたたみ式の簡易イスに座って様子を見守っていたのは島袋文子さん(87)でした。「動悸がしてドクターストップがかかっている」というのに、居ても立ってもいられず、現場に駆け付けたのだそうです。
機動隊員が一人一人を3、4人がかりでごぼう抜きし始めたため、現場は悲鳴と怒号が飛び交い、騒然とした雰囲気になりました。「暴力はやめろ」「海を壊すな」「沖縄は絶対諦めない」
驚いたのは文子さんの行動でした。イスから立ち上がって道を渡り、付き添いの女性に両脇を抱えられながら、ひるむことなく機動隊の前に進み出て、抗議の声を上げたのです。「戦争の中から逃げるのはこんなもんじゃないよ」と文子さんは言います。
沖縄の戦中・戦後の歴史体験に触れることなしに、新基地建設反対運動を深く理解することはできない。翁長知事が政府との協議の中で何度も強調してきたことですが、正面から受け止めることがありません。>

島袋文子さんといえば、「沖縄に内なる民主主義はあるか」というブログの中で、又吉(ヒジャイ)が彼女を非難して「島袋オバーには議会制民主主義がどのようなものであるか教えてあげなければならない。」と書いている。

又吉(ヒジャイ)よ、逆ではないか?君の方が彼女に民主主義とはどのようなものかについて学ぶ必要があるのではないのか?

島袋さんの勇気を称賛すると同時に深く感謝したい。そして、その心意気を共有したい。
< 問題は、強権的な基地建設だけではありません。国際人権団体のアムネスティ・インターナショナルは、博治さんの釈放を求める緊急行動を始めました。国連の「被拘禁者人権原則」は、「家族や弁護士との間のコミュニケーションは、数日間以上拒否されてはならない」とうたっています。
かつて悪性リンパ腫の治療を受け、今も体調が万全でないにもかかわらず、3カ月余も勾留が続き、家族も接見できない状態になっているのです。
政治的意図に基づく長期勾留であるのは明らかであり、人権侵害の疑いさえある、と言わなければなりません。
博治さん。拘置所の狭い空間の中では一人ですが、外の世界では決して一人ではありません。県内や国内だけでなく海外からも、多くの励ましの声が届いていることをお伝えしたいと思います。>

社説が述べているように、政治的意図に基づく長期勾留であることは明らかである。保守革新関係なくウチナーンチュは心を一つにして、未来の担い手である子供や孫達に住み良い沖縄を引き渡していく責任が我々大人にはある。我々の魂が辺野古の海に沈められて行くのを黙って見過ごしてはいけない。

小さな声で構わない、小さな行動でも良い、各自にできる範囲で辺野古米軍基地建設反対を訴えて、全世界の良識派を巻き込もう!

安倍総理、菅官房長官、そして本土の真ならぬ、親米保守派の連中に告ぐ、ウチナーンチュウセーテーナランドーサイ(沖縄の人間をばかにしてはいけませんよ)。