沖縄よ! 群星むりぶし日記

沖縄を、日本を、そして掛け替えのない惑星・地球を愛する者として発信していきます。

最善・最良の政治改革は対米従属からの脱却にある

財務省の公文書捏造、防衛省による公文書隠蔽と官僚の腐敗堕落が止まらない。かつて経験したことのないような政治の液状化現象である。何故そうなったか、その原因のひとつは、2014年に制定された内閣人事局にあるのではないか、とぼくは見る。

官僚を内閣の意のままに動かすためには、内閣が人事権を握るのが手っ取り早い。官僚の最大の関心事は、出世にあるとされる。とすれば、人事権が誰に属するかは、官僚にとって死活の問題となる。支配欲の強いお坊ちゃん政治家・安倍首相がそこに目をつけたとしても少しも不思議ではない。官僚たちは必死に抵抗したが、いつの間にか内閣の中に人事局が組み込まれていた。

そうなると、出世欲の強い官僚達の視線が内閣の動向に向けられるのは自然の勢いというものだ。政治家に対する官僚の忖度は、今までにもあったし、あって当然と言えるが、しかし、内閣に人事権を握られたら、忖度の度合いがワンオクターブ上昇しても、これまた当然のことと言えるだろう。

公文書捏造・隠蔽というあってはならない事件が次から次へと表出する一連の流れを見ると、その原因は官僚達の内閣に対する強度の忖度から生まれていることは明白だ。

安倍首相も菅官房長官も、人事局を設置した当初は、官僚達がこれほど自分達の言動を忖度するとは考えていなかったはずである。人事権を掌握すれば官僚達は俺達の言う通りに動いてくれる、としか考えていなかったに違いない。しかし、現実は思い通りにいかないのが世の常だ。

公文書捏造・隠蔽は実務に優秀であるはずの霞ヶ関の官僚達の脆弱さの一面を世間に晒した。ある意味、可哀想といえば可哀想だ。国家のために働きたいのに、絶えず内閣の顔色を気にしなければならないとは。

今の状態が続けば、日本という国自体が世界の信用を失う危険さへある。公文書捏造・隠蔽問題は、それほど深刻な事態と言える。この泥沼から抜け出るためには、一体どうすれば良いのか。

小手先の改革で済むような類のものではない。根本的大改革が必要である。まずは、安倍内閣が総辞職をして人心を一新する事。そこからスタートすることが第一条件だろう。そして、内閣人事局を廃止して、元の状態に戻すこと。そもそも、内閣に人事局を置くこと自体が、政治家自身が自分達には官僚を動かす能力も自信もないと宣言しているようなものだ。

官僚は実務に長けている。データの蓄積も膨大だ。その優秀な官僚群を動かすためには内閣を構成する政治家にそれ相当の能力が要求される。しかし、今の内閣にそのような政治家は一人もいない。だから安倍首相と菅官房長官は官僚を脅す人事権が必要だったのだ。ところが4年経過して出た結果は、見ての通り惨憺たるものだ。官僚達はすっかり萎縮してしまっている。国家のために働くどころではない。意に反して、実は国家を弱体化する方向に動いているのではないか。

ではどうすれば良いか? 振り返って見ると、高度成長期、官僚から絶大な信頼を得た政治家がいた。

田中角栄がその人だ。ロッキード事件で潰されたあの田中角栄である。ロッキード疑惑の巨大な影に覆われて、田中角栄が遺した業績は人々の記憶から忘れ去られつつあるが、田中ファンは今もまだ数多く存在する。僭越ながら、ぼくもその一人である。天才政治家・田中角栄は大変な勉強家、努力家だった。無名時代に成立させた議員立法には日本の高度成長を促進させる重要な法案がいくつも含まれている。国土総合開発法電源開発促進法、住宅金融公庫法、公営住宅法道路法、等々33もある。その記録はまだ破られていないどころか、議員立法に関心のある政治家が、今日果たして何人いるか、心細い限りだ。学歴こそ他の政治家より見劣りするものの、法律は東大法学部卒の官僚達を唸らせるほど詳しかった。政策立案能力もずば抜けていた。

記憶力が高く、決断力、実行力もずば抜けていた。郵政大臣、大蔵大臣と歳若くして重要閣僚となり、次々と実績を積んでいった。四十四歳という史上最年少で大蔵大臣に就任した時の挨拶。

「 私が田中角栄だ。小学校高等科卒業である。諸君は日本中の秀才代表であり、財政金融の専門家ぞろいだ。私は素人だが、トゲの多い門松をたくさんくぐってきて、いささか仕事のコツを知っている。・・・一緒に仕事をするには互いによく知り合うことが大切だ。我と思わんものは誰でも遠慮なく大臣室にきてほしい。何でも言ってくれ。上司の許可を得る必要はない。・・・できることはやる。できないことはやらない。しかし、すべての責任はこの田中角栄が背負う。以上」(早坂茂三著『政治家田中角栄』)

田中大臣が政策の方向性をしっかり示し、それに従って官僚が動く。何かあれば、大臣が責任を背負うと宣言したのだから、官僚がやる気になって一生懸命仕事に励む光景が目に浮かぶようだ。

田中角栄という過去の政治家を例に挙げて、何が言いたいかというと、官僚を動かしてしっかりした仕事をしてもらうためには、大臣こそポストに相応しい能力を持たなければならないということだ。知識も責任感も薄いような大臣の言うことなど官僚が真剣に聞くはずがない。安倍内閣のほとんどの大臣は官僚から軽蔑されている。この負のスパイラルは、内閣が人事権を握ったことで解消するどころか、逆にマイナスに作用しただけである。

今回の公文書捏造・隠蔽事件が立派な証拠だ。責任の所在を明確にするために、安倍内閣は総辞職すること。そして内閣人事局を廃止して元に戻すこと。そしてもうひとつ。外交も安全保障も米国に追従・従属する政治から自主外交・自主防衛を政策に掲げる強力な内閣を組閣すること。

この三点が実行実現されない限り、今の政治液状化現象は永遠に続くだろう。小手先の処方箋で現状を切り抜けても、一時的に過ぎず、混乱は繰り返し最終的に収束することはない。

 

消えた文章

昨日のブログで、呉屋守將氏の論壇全文を引用した後 <呉屋氏の呼びかけに、ぼくは大賛成である。>の後に続く文章が全部消えていることに気づいた。なぜ消えたのか原因はよくわからない。

大賛成と述べてその理由を説明しなければ、尻切れとんぼも同然なので、できるだけ昨日の文章を思い出しながら以下再度陳述したいと思う。

実は、ぼくは辺野古新基地建設の是非を問う県民投票には反対だった。1月6日の当ブログで、その理由を次のように書いた。

< 今朝の琉球新報の「ウチナー評論」で、佐藤優氏は、辺野古新基地建設に関する県民投票についての見解を述べている。「2018年末に予定されている知事選挙に合わせて、辺野古新基地建設に反対する県民投票を行うことについてどう思いますか」と沖縄の友人から問われた佐藤氏は、即座に反対したという。その理由は、直近の知事選挙、名護市長選挙、国政選挙の結果、辺野古新基地建設反対が沖縄の民意であることが明確に示されているからだ、と指摘し、続いて次のように述べている「そのような状況であるにもかかわらず、辺野古新基地建設の是非を問うという県民投票を行うと、日本の中央政府とマスメディア、さらに米国政府に「辺野古新基地建設に関する沖縄の民意はいまだ確定していない」という間違ったシグナルを送ることになる」。佐藤氏の指摘は正しい。これまでの選挙で民意がはっきり示されているのに、さらに県民投票を実施するのは余計なことで、意味のない二重手間にしかならない。しかも県民投票を準備して実施まで持っていくのにどれだけのエネルギーが費やされるかを考えると、労多く実少なしだ。やるべきではない。>

これまでの知事選挙、名護市長選挙、国政選挙はすべて辺野古新基地反対勢力が勝利し、民意は明確に示されてきたのだから、県民投票でさらに民意を問う必要性はないだろう、という意見だった。

しかし、あの時とは政治状況が大きく変化した。名護市長選挙で現職の稲嶺市長が敗北したのだ。勝利は確実だと思われたのだが、相手候補の渡具知氏(現名護市長)の辺野古新基地建設を争点にしない、公開討論も全て拒否するという、考えられないような卑怯な選挙戦術にしてやられたのである。

政府のテコ入れも凄まじいものがあった。稲嶺市長が当選すれば、間違いなく今後予定される防衛局から提出されるであろう設計変更申請が認可されない。そうなれば工事は立ち往生してしまう。それだけは政府の面子にかけてどうしても避けなければならない。だから一地方の選挙になりふり構わず、大量の人員と金をぶち込んだのだ。

名護市長選挙の敗北は新基地反対勢力に大きな痛手になったのは事実である。その責任を取って、呉屋守將氏は、オール沖縄会議の共同代表を辞任した。しかし、辞任した理由はもう一つある。オール沖縄会議の事務局内で、呉屋氏の提案した県民投票がまとまらなかったのである。

しかし、「論壇」を読めばわかる通り、呉屋氏の新基地建設に反対する情熱と、翁長知事を応援する姿勢は少しも変わっていない。

名護市長選挙の敗北以降、沖縄の政治状況が大きく変わった以上、戦略の立て直しは必然であり、迅速に対応しなければ秋に予定される県知事選も危うくなる。大胆な戦略転換が求められる。

呉屋氏が言うように、辺野古新基地建設の是非を問う県民投票の実施は、県知事選勝利への最大の指標となり得る。翁長県政も新基地建設を阻止するためにはあらゆる手段を取る、と公言している以上、県民投票を積極的に政治日程に乗せるべきだろう。

 

県民投票の実施:呉屋守將氏の提案に大賛成

今朝の新報論壇に金秀グループ会長の呉屋氏が、辺野古新基地建設の是非を問う県民投票の実施を呼びかけている。

< ハイサイ、グスーヨー。金秀の呉屋です。沖縄に住む1人の県民として、辺野古新基地建設の是非のみに争点を絞った「県民投票」の実現を提言したい。 新聞報道にある通り、私が「オール沖縄会議」の共同代表を辞任したことは事実だ。しかし辞任したからと言って辺野古新基地建設反対の意思と、翁長雄志知事を支援する立場はいささかも揺るがない。むしろ違う形でこれからも辺野古新基地建設への反対を訴えていくことに変わりはない。

では、なぜ「県民投票」なのか。先の名護市長選挙では、辺野古基地問題が明確に争点化されることなく選挙が実施された。その結果から、あたかも辺野古埋め立て案が認められたかのごとく喧伝されてきた。政府は都合の良いところだけを取り上げて、埋め立てを進めている。政府は県民に寄り添いながら丁寧に説明するという立場を示しているが、現状は結論ありきの工事を強行している。

「工事はもう止めることができない」と私たちはあきらめるしかないのだろうか。否!私は唯一の解決策として、県民投票が有効かつ必要であると考える。県民投票が意味するのは、県民一人ひとりの真意を示すことだ。県全体で、直接的な方法で全県民の意思を示すことだ。その結果、辺野古新基地建設について、容認であれ、反対であれ、全県民の総意として受け入れられるものとなり、県民主体による県民投票の結果をもって一つの大きな区切りをつけることができる。

分断から解放され、次なるステージに向けて新しいスタートを切ろうではないか。このことは反対、賛成いずれの立場でも有意義なことではないか。今こそ辺野古新基地建設の是非だけに争点を絞り、本来の民意を問うべきだ。次代を生きる子や孫に、新しい基地を残すのか?止めるのか?覚悟と気概を持ち、この問題に県民全体で向き合うべきだ。県民投票を通して自由に活発に議論し、一人ひとりの意思を明確に示すことができれば、これを新たな起点としスタートできるはずだ。それができる唯一の方法こそが県民投票なのだ。

一介の企業人である私が、辺野古新基地建設に反対する意見を表明しているのは「沖縄に新基地はいらない」ということを訴え続けるのが何よりも大切だと考えるからだ。そして何よりも一番恐れているのは、県民に意思表明のチャンスが与えられないまま基地建設が進むことだ。

今こそ、県民投票を実現し、党派・思想,信条を超えた県民一人ひとりの問題として辺野古新基地建設について考えていこうではないか!>

呉屋氏の呼びかけに、ぼくは大賛成である。

村松英子の三島由紀夫

以前、プライムニュースで、三島由紀夫の特集があった。ゲストに村松英子西尾幹二を迎えての特番で、両者の話は味わいがあり、深く印象に残るものだった。特に、三島戯曲のヒロイン役を何度も演じ、三島と深い付き合いのあった村松さんの話は、初めて聞くことが多く、濃厚な三島像を堪能させて頂いた。

そして去年の暮れ辺りから、なんとなくもう一度見たくなり、過去のプライムニュースを検索したがついに探すことはできずにそのまま日時が過ぎて行った。ところが、昨日、「西尾幹二のインターネット日録」を閲覧していると、カテゴリー欄に動画の項目があることに気づき、クリックしてみた。

するとなんと、西尾氏が出演した過去の動画がかなりの数保存されているではないか。これはありがたいと思いながら検索していくと、あった、三島由紀夫の特番。日付は2015年5月14日。今からおよそ3年前だ。まだ一年くらいしか経っていない気がしていたので、時の流れの早さに今更ながら驚ろいてしまう。

西尾氏が評論家として駆け出しの頃、三島が氏の作品を称賛したことを知り、お礼に三島邸を訪ねた時のエピソードは、氏の著作集を読んで知っていたので、改めて西尾氏の話に心が動くということはなかったが、村松さんの話には聞き惚れてしまった。

特に、終わり近くで話された三島の戯曲『薔薇と海賊』と『サロメ』の上演日に仕掛けられた三島由紀夫の完璧主義には凍りつく思いがした。『薔薇と海賊』のヒロインの最後の台詞「私は一度も夢を見たことはありません」。

この二日後に三島は市ヶ谷の自衛隊本部で自決した。三島は日本再生の最後の砦、自衛隊に絶望していた。夢を見たところで仕方がないのだ。

年が改まって『サロメ』が上演される。最後の場面。預言者ヨカナーンの首をのせた銀の皿が運ばれ、サロメがヨカナーンに口づけする。この二作品の上演日は三島自身が指定したという。

銀の皿の預言者ヨカナーンの首は、市ヶ谷で自決した三島由紀夫の首だ。しかし、預言者ヨカナーンに口づけするサロメは、いったい誰だろうか?

村松女史によると、三島由紀夫はよく母親に言っていたらしい。「僕がやっていることは、100年、200年経たないと人々に理解してもらえない」。

市ヶ谷自決から今年で48年。100年まであと52年もある。自衛隊日報問題で揺れる自衛隊の哀れな姿を見るにつけ、三島由紀夫の予言が、我々の頭上にますます重くのしかかる。三島の予言は現実となった。市ヶ谷で絶叫した三島由紀夫の声が、今も生々しくぼくの鼓膜を叩く。

「 諸君は永久にだね、アメリカの軍隊になってしまうんだぞ!」

 

乗松聡子の眼は節穴だ

今朝の琉球新報乗松聡子のコラムが掲載されている。今回は15回目で「天皇のタブー視・民主主義と両立しない」とのタイトル名で論じている。

正直、読んで驚いた。特定の頑ななイデオロギーに毒されているとしか思われない論調である。あまりにも酷い内容であるため、座視することができず批判を試みたい。

実は、ぼくは昨年の12月4日の当ブログで乗松氏を批判したことがあった。11回目の同コラムで乗松氏は南京大虐殺を歴史的事実として肯定し、人類史上最も残酷なジェノサイドと断定した。そして南京城が陥落した12月13日を「南京大虐殺を記念する日」と制定する法案をカナダ・オンタリオ州議会が審議していることを報告し、審議に反対する人々を歴史否定主義者たちと断罪したのである。

だからぼくは乗松氏の主張を容認できない立場から批判したのだが、今回のコラムを読んで、乗松聡子は偏見イデオロギーの染み付いたどうしようもない人物だと、改めて認識したのである。さて気がひけるが、平等を期す意味で、まずは乗松氏の全文を掲載することにする。

≪ 今の日本を見ていると、メディアを含む社会全体での「天皇のタブー視」が根強いことがわかる。皇室の人については特別な敬語を使用して区別する。天皇皇后についてはやる事なす事、全てを有り難がる報道ばかりで、批判は一切許されない雰囲気がある。

外国の客相手には、握手するなど、普通の人間同士として接するのに、相手が日本人の場合はそれが許されないような二重基準がある。主権者の市民に会うときも、「一般参賀」のように高い所から手を振っている。

「陛下」という敬称も、「陛」という字が「宮殿の階段」を意味し、身分の上下を強調した言い方であるが、それが問題視されることはない。日本国憲法で保障される「法の下の平等」は度外視した扱いのように見える。

「男女平等」も、男系の世襲を定めている皇室では例外であり、この制度が日本の女性の自尊心に与えている負の影響は測りしれないと思っている。これらの、大日本帝国憲法下の日本と変わらぬような神聖視およびタブー化は、戦後憲法主権在民の精神に反している。

実際、明仁・美智子夫妻がいく先々にはその「タブーの空気」のようなものが一緒について回り、その周りでは異論が許されなくなる。政府はこの傾向を最大限に利用しているように見える。

今回、夫妻の最後の沖縄訪問ということだが、3月27日、28日というタイミングは、象徴的にも実利的にも政府に都合のよいものであった。27日は、1879年の「琉球処分」=天皇を中心とする日本国家に琉球が強制併合された139周年であった。1945年、「皇国」を守るために沖縄が犠牲にされた沖縄戦慶良間諸島で始まり、天皇の名の下に多くの住民が集団死を強要された時期とも重なった。

これ自体が残酷なことであったが、それに加え、今政府が推し進めている現代の日本軍=自衛隊の役割強化と、南西諸島への配備が加速する中での来沖であった。27日には、全国の陸上部隊の指揮統制を一本化する「陸上総隊」を新設、「島嶼防衛」のための「水陸機動団」が発足した。28日、与那国訪問の日は、小さな島の住民を分断した陸自配備の2周年の日であった。

日本の最西端、つまり台湾や中国に手が届きそうな場所にまで「天皇のタブー」の空気で包み込むことによって、沖縄戦以来の琉球弧全体の要塞下を丸ごと飲み込ませるという目論見があったのではないか。

明仁・美智子夫妻については、「平和への想い」や「沖縄を思う気持ち」が「本物」であるといった称賛の声が多く聞こえるが、天皇個人の人柄にばかり注目することで、制度自体の問題に向き合うことを避け、タブーを強化してはいないか。

何よりも、天皇が「本物」かどうかよりも、天皇に向き合う自分たちが「主権者」として「本物」なのかどうか問うべきではないか。政府による「天皇タブー」の利用に簡単に乗せられてしまうのではなく、誰の下でもない上でもない個人として自由で主体的な思考や意見表明をしているか、ということである。

天皇タブー視と民主主義は両立できない。タブーは打ち破らないといけない。≫

以上が乗松聡子の天皇論だが、当ブログの読者はどのような感想を抱いただろうか。ぼくの感想を一言で述べるなら、乗松氏は天皇陛下及び皇室を一般国民の地位に引き摺り下ろす願望を抱いている、ということである。そして皇室の廃止を願っているとしか思われない。乗松氏の主張は、かつての極左過激集団、革マル派中核派の主張とほとんど変わらない。

中国共産党も皇室の弱体化・廃止を目論んでいる。乗松氏の思想の根底にはコミンテルン共産主義の影響があると見てよい。日本の歴史と伝統を否定し、民主主義の名の下に平等という抽象概念を持ち出す、彼らの得意技だ。

平等という言葉は聞こえは良いが、油断すると大きな落とし穴に落ち込む危険性がある。何故ならば、人間の社会において平等という言葉で囲い込むことの出来る範囲は、具体的に考えると極めて限定されるからである。経済的に豊かで社会が安定した国で暮らす人々と、社会が不安定でその日の食事にも事欠くような国で生活せざるを得ない人々が平等だと言えるだろうか?

豊かで安定した国で暮らす人々を比較考慮しても、なかなか平等と呼べるような局面は少ない。例えばある家族の父親は会社の社長であり、隣に住む家族は母子家庭だ。社長の家族には子供が三人いるが、十八歳になる長男は病弱で長期間、学校を休んでいる。次女は大変な才女で、毎年全校で一、二を争う成績を維持している。そして中学生の次男坊は、街では有名な不良で父親に反抗的でいつも家族に迷惑をかけている。

どこにでも見られるような社会のほんの一コマだが、一体どこに平等が存在するだろうか?

<「陛下」という敬称も、「陛」という字が「宮殿の階段」を意味し、身分の上下を強調した言い方であるが、それが問題視されることはない。日本国憲法で保障される「法の下の平等」は度外視した扱いのように見える。>

乗松氏は、「陛下」という敬称は日本国憲法で保障される「法の下の平等」を度外視していると言うが、日本は立憲君主国家であることがわからないのだろうか?

英国、オランダ、スウェーデン、スペイン、デンマーク、ベルギー等と同じ立憲君主国家。

つまり簡単に言うと、憲法の規定のもとに君主(天皇、王様)が存在する国家、これが立憲君主国家である。日本国憲法は、第1章で天皇について規定している。その限りにおいて天皇は「法の下の平等」を具現化しているのである。

憲法の規定に疑義を挟む乗松氏は、一体何が言いたいのだろうか?憲法の規定が間違っていると思うのなら、憲法改正を主張すればよい。しかし、乗松氏から憲法改正の声を聞くことはない。

<「男女平等」も、男系の世襲を定めている皇室では例外であり、この制度が日本の女性の自尊心に与えている負の影響は測りしれないと思っている。これらの、大日本帝国憲法下の日本と変わらぬような神聖視およびタブー化は、戦後憲法主権在民の精神に反している。>

乗松氏の言う「男女平等」とはいったいいかなるものだろうか?男も女も同じ服装をし、同じ髪型で振る舞いも声の調子も同じにせよ、と言うような意味なのだろうか?もしそうだとすれば、滑稽を通り越してグロテスクな社会が出現することだろう。

男と女は違って当たり前。平等である必要はない。調和という自然の大法則に従うだけでよい。いうまでもないことだが、表向き男性の方が女性より強いように見えるが、実際は女性の方が強いのだ。天皇陛下皇后陛下が仲むつまじく寄り添って歩くお姿を見れば、男女平等とはこういうことか、ということが良くわかる。

皇后陛下天皇陛下の左後ろに寄り添い、陛下の左腕を両手で軽く抱くようにして歩かれる。そして時折、陛下の耳元に何か呟かれる。その時の天皇陛下の和やかな顔の表情は、見る者の心を至福に満たしてくれるのではないだろうか。少なくともぼくはそうだ。思わず微笑んでいる自分に気づくのだ。

真の男女平等というのは、ハーモニーではないだろうか。天皇皇后両陛下が寄り添って歩くお姿を拝見する度に、ぼくはそう思うのだ。そしてハーモニーを奏でることは、そう簡単なことではない。

「男女平等」という言葉を使えば了解されるようなそんな軽いものではない。身を正すための絶えざる修練、精神をまっすぐに整えるための厳しい日々の鍛錬なくしては到達できないような「なにごとか」なのだ。言葉ではうまく表現できないが、両陛下の仕草から感じ取る他ない「なにごとか」なのだ。

< 実際、明仁・美智子夫妻がいく先々にはその「タブーの空気」のようなものが一緒について回り、その周りでは異論が許されなくなる。政府はこの傾向を最大限に利用しているように見える。>

「タブーの空気」のようなものが異論を許さない、とはどういう意味だろうか?何故、両陛下を歓迎している場で、あえて異論を唱える必要があるのだろうか?乗松氏に異論があるなら堂々といえばよいではないか。沖縄が祖国復帰した年の7月、ひめゆりの塔で御献花される明仁皇太子・皇太后両陛下に対して火炎瓶が投げられ炎上する事件があった。左翼過激派による犯行であった。まさしく乗松氏の言う異論を行動に移したのだった。

皮肉なことに、この事件は「タブーの空気」など存在しないことを証明したのである。その後、陛下は天皇に即位されてからも沖縄を何度も訪れている。その真摯で誠実な姿勢が沖縄の人々の蟠りを少しづつ溶かしていったのである。両陛下を歓迎する人々は何も異論を唱える必要を感じないだけである。

もともと存在しない「タブーの空気」を政府が利用できるわけがない。乗松氏の独りよがりに過ぎない。

< 何よりも、天皇が「本物」かどうかよりも、天皇に向き合う自分たちが「主権者」として「本物」なのかどうか問うべきではないか。政府による「天皇タブー」の利用に簡単に乗せられてしまうのではなく、誰の下でもない上でもない個人として自由で主体的な思考や意見表明をしているか、ということである。
天皇タブー視と民主主義は両立できない。タブーは打ち破らないといけない。>

天皇皇后両陛下を貶めた乗松氏は、ついに国民に向かって、天皇に向き合う自分たちが「主権者」として「本物」なのかどうか問うべきではないかと非難の刃を向けてきた。奇妙な思考傾向を持つお人だ。

ぼくが皇室を尊崇の気持ちで敬愛するのは、政府による洗脳によるものではない。全く「 個人として自由で主体的な思考」で意見表明をしている。

実は、若い頃、ぼくは日本は戦争に負けたのに何故天皇は国民に人気があるのか、不思議に思っていた。ウチナーンチュなら多くの人が持つに違いない標準的な疑問。長い間その疑問から抜け出ることができなかった。ところが40代後半にふと閃いたのである。

日本の歴史で天皇自ら人民を殺戮する命令を下したことはない。青天の霹靂であった。この考えをぼくはどの文献でも読んだことがない。まさしく自分の頭で考え出した独自の思惟である。これでやっと長い間悩んだ疑問が氷解した。皇室の歴史において、血で血を争う事件は皇位継承という上部階層での権力闘争に限定される。天皇の権威を持って、人民を直接殺戮、ないしは命令を下した史実は存在しない。そう考えた時、皇室に対する意識が大きく変化した。

浅学ではあるが、調べれば調べるほど、皇室に対する敬愛と畏怖の念は強まるばかりである。緩やかな探求の過程で、神道に出会い、日本文化の素晴らしさを発見し、日本国は我が祖国なりと断言できるまでになったのである。

しかし、ぼくは一部の右翼のような皇室の狂的信者ではない。いかなる組織にも属さない、一生活人として、日本の本来ある文化、皇室を敬愛するのである。

皇室は国民の鏡である。曇りのない鏡を見て、我が身を正す。それだけの力を皇室は持っておられる。歴代天皇が国民を敵に回したことは一度もない。皇室にとって、国民は共に生きる国の宝であり、だからこそ国民の安寧を日々祈るのである。国民はそれを知っているから皇室を敬うのだ。

社会はもともと不平等でできている。これはどうすることもできない歴然たる現実だ。不平等を正常な形にするのは平等という抽象的概念ではない。徳を身につけた人間だけが不平等を正常にし、社会をすみよい環境にすることができる。いつの世になっても不平等が世の中から消えることは絶対にありえない。もともと存在する不平等状態を人間が暮らしやすいように変えていくこと。不完全な人間にできることはそのくらいのことである。

徳を身につけた人間が多ければ多いほど、社会は豊かになり安定する。皇室は徳に輝いている。我々国民が模範とすべき御存在である。燦然と輝く皇室は世界の奇跡であり、日本の宝である。

そして打ち破られるべきは、ありもしない天皇タブーなどではなく、乗松聡子の節穴の眼に映る悪しきイデオロギーに彩られた、この世に存在しない空虚なる風景である。

 

 

裏切られた自由

昨年、フーヴァー元米大統領の著作『Freedom Betrayed』の邦訳版が出そうだ、と保守言論人の間で話題になったことがあった。先の日米戦争の責任はルーズベルト大統領にあるとする内容の本で、長期間、米政府の圧力がかかり、禁断の書として公にされることのなかった話題の書である。

それがおよそ半世紀ぶりに2011年に出版された。そしてやっと邦訳版が出るという。できるだけ原書で読みたいと思い、amazonを覗いてみた。高額だ。5700円もする。大いに迷って保留することにした。そのうち安い中古本が出るかもしれないと、我ながら卑しい気持ちで待つことにした。

待つこと約半年、原書の中古本は出ず、ついに邦訳版が出版された。原書は一冊本だが、邦訳版は上・下二冊本になっている。ところがびっくり仰天、値段が高すぎるのだ。上巻が9500円。下巻も9500円 !? 眼の玉が飛び出そうになった。これだと英文が多少読める人間は原書を購入するに決まっている。

敢えて悪意に解釈すると、英文の読めない人を馬鹿にした値段の付け方ではないか。高額の邦訳版に抗議すべく、原書を注文することにした。5700円は大変な出費だが、いずれ購入する書物だと思えば気持ちもお落ち着く。英文が多少読める優越感に浸りたい気持ちが無きにしにあらず。

注文して3日目の今日届いた。速すぎる。中古の仏仏辞典は注文して2週間経ってもまだ届かず、業者に苦情のメールを送ったばかりだというのに。amazon独特の段ボール箱を開ける。予想を超える大冊本である。優に900ページある。さすがに興奮する。さていつから読み始めようか。そしていつ迄に読み終えることができるだろうか?読みたい書物は山ほど積まれているというのに。

さて、話を最初に戻すと、歴史は勝者の歴史だとよく言われる。その説を踏襲すれば、第二次世界大戦前後の歴史は、連合国の都合のいいように作られた歴史認識に基ずくということになる。日本が真珠湾を攻撃したから日米戦争が勃発したのだ、と米国は主張し続けてきた。一方で、真珠湾攻撃に至らしめた原因は、米国による日本への過剰な政治的干渉、経済的抑圧にあるとする主張は歴史修正主義として退けられてきた。

広島と長崎への原子爆弾投下は果たして正当化できるのか?わずか1日で10万人の民間人を殺戮した東京大空襲国際法違反ではなかったのか?東京裁判は暗黒裁判ではなかったのか?

これらの問いかけに対し、すべてが戦勝国側によって都合の良いように解釈されてきた。広島と長崎への原爆投下がなければ日本は降伏しなかった。東京大空襲は戦争を早く終結させるための正当な作戦行動であった。世界征服を企んだ日本政府を人道の立場から裁いて何が悪い。今でも米国の平均的な一般人に問いかけたら、それに似たような答えが返ってくるだろう。それ以外の見解は歴史修正主義と呼ぶようにほとんどの米国人は洗脳されている。

しかし、歴史の真実のみを語らんとする使命感を持つ米国人が、少数ではあるが存在することを我々は知っている。第31代米国大統領フーヴァー氏もその一人である。その他にも日米開戦の責任はルーズベルトにあると主張する声が、米国の側からぽつりぽつり聞こえるようになってきた。

まだまだ少数だが、彼らの声を聞いて史実に基づく歴史の真実を知れば、歴史修正主義とは本当のところ何を意味するか、理解できるはずである。情報過多の現代を生きる人間にとって大事なことは、情報の荒波に揉まれて真実に至る道を見失わず、誰にも憚ることなく、ただひたすら真実を追求することではないだろうか。『Freedom Betrayed』はそのことを教えてくれるに違いない。

真実は人間を自由にする、と言われるが忍耐が要求される。残された時間は短い。

 

日米地位協定は日本の恥

日本の政治は売国奴政治であると断言できる。独立国家の体裁はしているが、内実は外交も国防も米国に追従する従属国家であるに過ぎない。そのような条件下で行われる政治を売国奴政治と呼ぶのだ。

その売国奴的性格をよく表しているものの一つに日米地位協定がある。米国は米軍基地を置く他国との間で地位協定を締結しているが、他国のそれと比較することで、日米地位協定がいかに不平等であるかがわかる。

ドイツとイタリアは先の大戦で日本と同盟関係にあった国である。日本同様、米国の敵国であった。

戦後、米国は戦勝国の権利として敗戦国に対し、特に軍事面で差別的扱いを施し抑圧してきた。ドイツ、イタリア、日本に戦後ずっと米軍基地を駐留させている目的の一つは、これらの国に本格的な再軍備を許さないためである。

特にドイツと日本は強力に抑え込んでおく必要がある。共に優秀な民族であり技術大国だから、抑圧の蓋を取り去ると再び米国を脅かす軍事大国になる恐れがあるからだ。

ドイツと日本にだけは核兵器を持たすわけにはいかない。米国が中心となって進めた戦後の核不拡散条約の最大の眼目はそこにあった。しかし、このNPT体制という大状況下で、地位協定に目を転じると、実に不可解な現象の存在に気がつく。

日米地位協定は、ドイツやイタリアの対米地位協定と比較してあまりにも見劣りのする粗悪品であるということ。例えば、米軍の活動に対して、日本は国内法を適用できないが、ドイツとイタリアは自国軍と同じ法規制が適用される。また日本政府と基地所在の自治体が米軍基地内に立ち入ることはできないが、ドイツ政府と自治体は立ち入り可能であり、緊急時は事前申請する必要すらない。イタリアの場合は、イタリア軍に米軍基地の管理権がある。

等々、ドイツとイタリアと比較して、日米地位協定がいかにお粗末な不平等条約であるかがよくわかる。問題は何故そうなっているかだ。黄色人種と白人という人種偏見もあるだろうが、一番大きな原因は日本政府の主体性の欠如ではないか、と思われて仕方ないのだ。外交も国防も米国に追随することからくる主体性の欠如。

日本と違い、ドイツもイタリアも自主外交を展開している。ワシントンの顔色を気にすることなどないのだ。地位協定も自国民を守ることを優先して何度も改定している。ちゃちな運用改善を安倍首相自ら自慢してみせる日本とは、その政治姿勢に大きな違いがある。

そう、日本は米国のポチにすぎない。世界中がそう思っている。だから英語圏のメディアで日本の政治が報道される回数は極端に少ない。米国の陰に隠れて存在感があまりにも薄いのだ。

何故日本の政治家は米国をこれほどまでに恐れるのだろうか? 実に不可解である。ただはっきりしていることは、米国に対して堂々と物が言える政治家が現れない限り、日本の衰退は誰にも止められないだろうということである。

「 日米は100%ともにある」と安倍首相は断言した。一国の行政のトップが言ってはならない言葉である。日本は100%米国に従属します、と宣言したのに等しいからだ。頭の悪い安倍晋三が率いる売国奴政治が続く限り、日本に明るい陽射しがさすことはないだろう。

「 この国はもはやダメなんじゃないですか」(故西部邁談)