沖縄よ! 群星むりぶし日記

沖縄を、日本を、そして掛け替えのない惑星・地球を愛する者として発信していきます。

水と火と・・・

何の予備知識もなく観た映画に感動する、という経験をこれまで何度か味わってきた。

2日前にレンタルビデオで観た『the shape of water』もその中のひとつだ。果てしなく想像力を掻き立てる不思議な映画である。

タイトルからして既に奇妙な感じがする。水の形?

shapeには「幽霊」の意味もあるので、「水の幽霊」とも訳せそうだが、監督のギレルモ・デル・テロが「水の形は愛の形だ」と語っているところを見ると、幽霊は当てはまらないかも知れない。

しかし、内容的には幽霊のイメージがつきまとうのは確かなので、そこのところは観客の自由な想像力に任す、という監督の深謀が秘められているに違いない。

アマゾンで捕獲された不思議な生き物・半漁人に魅せられる唖の女性イライザ。

半魚人とイライザに関する過去の情報は極端に少ない。半魚人については、人間の傷を治したり、言葉を理解する能力があるため、アマゾン流域で神のごとく崇拝されていたこと。

イライザについては唖で、その原因が首の傷跡にあるらしいこと。二人の過去における情報はそれだけだ。

この映画の特徴は「今」を重視しているように思われる。「今」起きていることを強調したいがために、あえて過去について言及しないのだ。

イライザは何故、半魚人に魅せられたのか?

彼女の天使のような性格ゆえに、としか言いようがない。普通の人間なら恐れをなして近寄らないような醜い姿の半魚人に対して、初めの出会いから何の抵抗感もなく接触を試みるイライザ。

囚われの身の半魚人は、積極的に接触して来るイライザの手話を理解し、次第に心を通わすようになる。

時代背景は60年代、冷戦絶頂期の頃である。米国の研究機関に囚われた状態の半魚人の情報を得たソ連諜報部は、半魚人を奪うためにいろいろと画策する。半魚人の不思議な能力を解明し軍事的利用を図る目的で。

それを察知した米研究機関は、半魚人の抹殺を決定する。その決定を知ったイライザは、半魚人を助けるために、同じアパートに住む年老いた友人ジャイルズに協力を要請する。

イライザとジャイルズは半魚人を助けることになんとか成功するが、救出劇の最中にイライザの仕事仲間である黒人女性ゼルダソ連諜報員の協力がなければ成功することはなかった。

イライザは自分のアパートの浴槽に半魚人を匿う。水がなければ半魚人は生きられないからだ。

孤独のイライザは、同じ浴槽で時々手淫をしていた。今は心の通う半魚人がいる。二人は自然の勢いで肉体的に結ばれる。

その直後の映像が秀逸だ。大きな清掃用台車を押しながら快活に歩くイライザの足だけが映し出される。

性交の喜びが、この短い映像だけでビシッと伝わる。

一緒に並んで歩く黒人のゼルダがイライザの異変に気づき、どういうふうにやったのかと聞くと、イライザは照れるようにして両手で蕾のような形を作り、その間から人差し指を出したのである。半魚人のペニスは普段は隠れているのだ。

ゼルダは声を出して笑い、つられてぼくもつい楽しくなり大声で笑ってしまった。

バスで帰る場面も美しく感動的だ。窓に頭を寄せるイライザの眼に、ガラス窓についた雨の雫が大きくなりながら流れていくのが映る。優しく嬉しそうな表情をしたイライザの顔がオーバラップする。神秘的な水とイライザの澄みきった心が溶け合う。

しかし、現実はいつも残酷だ。ついに別れの日がやって来た。かねてより計画していた雨の日の夜、イライザはジャイルズの協力を得て、半魚人と一緒に目的の場所である埠頭に立っていた。

その時、追いかけてきた研究機関の人間に撃たれて二人はその場に倒れる。イライザは死んだが、半魚人は暫くすると立ち上がり、銃撃した男の首を爪で掻き切って逆に殺してしまう。

そして死んだイライザを抱きかかえて、半魚人はそのまま海へ飛び降りた。雨に濡れながら見送るジャイルズとゼルダ

暗い海中に沈んでいくイライザの周りを半魚人が泳ぎ回る。するとイライザが生き返った。半魚人の神秘的な力。「水の形は愛の形だ」という監督の言葉を噛みしめる。

実を言うと、この映画を観る前に首里城の火災があった。あっという間の炎上に言葉を失った。

火と水。ぼくの内部で不思議な観念が渦巻いているのを感じる。なんとかまとめようとするが、なかなか上手くいかない。

現実の火と映像の中の水。明らかに前者は実在であり、後者はフィクションだ。しかし、ぼくは首里城が炎上するのを映像で見ただけで、実際に現場で見たわけではない。だから首里城炎上は、意識の上ではフィクションの状態なのだ。

実在として認識するためには現場に行って確認する必要があるだろう。しかし、現場において実際に眼に映るのは、焼け跡だけで燃え上がる炎ではない。

映像で見たあの火はもはや存在しないのだ。動画は残っているので再生すればいつでも見ることができる。しかし、それはあくまでも映像の中の炎にすぎない。

その限りにおいては、映画の中の水と同格のフィクションである。もう少し考察を深めてみよう。近くの海岸に出かけてイライザが生き返った実在の海を確認したらどうなるか?

勿論、イライザも半魚人もいないだろうが、映画に映し出されたあの海は、ぼくがこれから見るであろう実在の海と同じ海だ。なぜなら海はどこまでも繋がっていてひとつだからだ。実在の海がなければ、映画の海は存在し得ない。

ここで少し整理してみる。実在と非在の境界線。首里城炎上は事実だが、実在するのは焼け跡だけで、あの時の火は存在しない。

『the shape of water』という映画はフィクションだが、その非在性は首里城を炎上させて消えた火の非在性とはその様相の次元において異なる。

なぜなら映画は映像として存在するのに対して、火が自らの存在を主張できるのは、動画に記録された映像の中においてだけであり、あの時実在した火はもはや消え去ってどこにも存在しないからである。

ここで不思議な事実に気づく。ここで問題にしている実在と非在は、実は意識の問題そのものに直結しているのではないだろうか、ということ。

ぼくの中ではイライザの方が、首里城の焼け跡より身近で存在感があるのだ。イライザが生き返った海は、現実の海を豊かにしてくれた。

しかし、首里城炎上は巨大な消失感を感じたとはいえ、感覚的に距離が遠いのだ。歴史は確かに、それに対して真摯に向き合えば、そこで繰り広げられた無数の物語は、我々の世界を豊かにしてくれる。

しかし、沖縄の歴史を見守ってきた首里城という建造物は果たして、イライザが現実の海を豊かにしてくれたように我々の精神を豊かにしただろうか?

首里城はあくまでも人が住まない歴史の遺物であり、観光名物のひとつに過ぎない。勿論、その勇姿は県民の誇りであり、宝物であることに変わりはない。しかし、ただそれだけのことだ。

できるだけ早く再建しようという声がマスコミを賑わしているが、それほど騒ぐ必要があるのだろうか?

もっと腰を落ち着けて悠々と構えてもいいのではないか。首里城先の大戦で米軍の攻撃で徹底的に破壊された。だったらその時の記憶を永遠に刻み込む意味でも、炎上焼失した建物は再建せずに、残った建物だけを維持管理することでも良いのではないだろうか。

広島の原爆ドームは当時の姿のままだ。原爆の残酷とその無意味を、裸の姿だけで世界に発信し続けている。

あえて再建しないで、米軍の非情さと首里城の地下に本陣を施設した日本軍の馬鹿さ加減を世界に晒すためにも、その方が良いと個人的には思うのだがいかがであろうか。

再建して華やかさを誇るよりも、ギレルモ・デル・テロ監督のような芸術的才能に溢れた人材の輩出に力を注ぐべきだと思うのだがどうだろうか。

監督は同名の小説も書いていて、評価がすこぶる高い。一般的な現象として、著名な小説を映画化したものは、出来の悪い作品が多いのだが(カミュの「異邦人」トルストイの「アンナ・カレリーナ」等)、この小説は映画にはないイライザの過去が詳しく書かれていて、映画をさらに見応えのあるものにしているらしい。

で早速、竹書房文庫から出ている同小説を注文した次第である。