終戦74回目の全国戦没者追悼式が日本武道館で開催された。その日は偶然にも、沖縄の旧盆最後の日、ウークイと重なった。
追悼式の模様を、ぼくはテレビ中継では見なかった。夜、ウークイを済ませてから、何となくユーチューブで見た。
新しい天皇皇后両陛下のご臨席という新鮮さと、安倍首相の相変わらず心のこもらない式辞棒読みを別にすれば、これまで通り、少しの変哲さへ感じられない式典のようにしか思われなかった。
見るたびに感じるこの当事者意識の持てないよそよそしさは、一体どこから来るのだろうか?
その答えはぼくの中ではっきりしている。戦後74年間に渡って、政府は大東亜戦争(太平洋戦争)の総括を怠ってきた。追悼式で感じるよそよそしさと、真摯な当事者気分に浸れない原因はそこにあるのだ。
亡国を招いた先の大戦の総括を行う義務が、国民を代表する政府にはあるはずなのに、74年間も放置したままにしておいて、全戦没者に対し、どの面下げて慰霊できると言うのだろうか。
無数の菊花の間から聞こえてくる英霊の嘆きの声と、不信の顔。
戦後政府の責任放棄、其の場凌ぎの姿勢は、何の反省すらなく今日まで継続している。大東亜戦争(太平洋戦争)の総括をしないというのは、敗北の原因を突き止めることをしないで、同じ事を繰り返す恐れがあると言う意味だ。
個人でも会社(組織)でも、何かに躓いたらその原因を見極めて反省し、次に備えるのは当然なことであり、この努力を怠れば、次の一歩を確実に踏み出すことができないのは、誰もが承知しているところだろう。
だが戦後、我々の政府は、気が遠くなるほど74年(!)の長きに渡って、その努力を怠り続けたのである。そして恐らく、今後もこの不誠実で幼児的無責任状態は続いていくのだろう。
この絶望感は、故西部邁氏の口癖「この国はもうダメなんじゃないですか」と共振する。
しかし、この先もこの国で生きる一人の人間として考えなければならないことは、たとえ政府にその気が無くとも、大東亜戦争(太平洋戦争)の総括をしない限り、この国がかかえる諸問題を根本的に解決することは不可能であること、たとえ解決したように見えたところで、所詮中途半端なものでしかないことを、機会あるごとに表明することである。
国を挙げて戦った戦争に日本はなぜ敗北したのか。その原因はどこにあったのか。その総括無くして何をやったところで所詮全ては欺瞞的にならざるを得ないのである。