沖縄よ! 群星むりぶし日記

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乗松聡子の眼は節穴だ 乗松批判3

乗松聡子の眼」というコラムが今朝の琉球新報に載っている。

「3・1運動100年と沖縄」と題する今回は24回目のものだが、一昨年12月4日の11回目、昨年4月4日の18回目をぼくは当ブログで取りあげて批判したことがある。

今日で乗松批判は3回目ということになる。乗松氏は次のように書いている。

≪その県民投票の同日、沖縄に対する植民地主義を象徴するような出来事があった。「天皇在位30周年記念式典」において、天皇が作った琉歌に皇后が曲をつけ、なんと沖縄出身の歌手に歌わせていたことだ。

私は目を疑った。私の住むカナダは英仏の植民者が先住民の土地を支配して作った国だが、カナダはいまでも元首が英国女王であり、カナダには女王代理の総督という立場の人がいる。

もしその人が、自分のための祝賀行事で、自らが先住民の言葉で作った歌を、先住民のアーティスに歌わせたりしたら、権力者による被災者の「文化盗用(cultural appropriation)」であると、非難ごうごうになるのは間違いない。≫

乗松氏の歴史認識は大いに問題があると言わざるを得ない。そもそも彼女は、「天皇御在位30周年記念式典」で沖縄出身の歌手・三浦大知が歌った「歌声の響」が作られた経緯を知っているのだろうか?

1975年7月、天皇皇后両陛下は皇太子時代に初めて沖縄を訪れてひめゆりの塔にご献花なされた。その時壕の中に潜んでいた過激派が、皇太子めがけて火炎瓶を投げつけ炎上するという事件が発生した。

その時の様子はメディアで何度か放映されたから、知っている人も多いはずである。少しも取り乱さない皇太子と皇太后に多くの関係者は驚嘆したが、さらに驚かされたのは、同じ日に名護市にあるハンセン病棟「沖縄愛楽園」をご訪問されたことである。

お二人が望んだ訪問だったという。ハンセン病に対する差別や偏見が残る時代に療養所を訪れて、入所者と交流する。入所者はどんなに喜び感激したことだろうか。

そして帰り際、入所者は感謝を伝えようと沖縄の船出歌「だんじゅかりゆし」を涙ながらに歌ったという。

この時の交流がきっかけとなって「歌声の響」は誕生したのだ。

この時の情景を思い浮かべると、ぼくは目頭を抑えることができない。驚きと感動で胸がいっぱいになり、言葉がでない。

一般常識のある人間ならば、乗松氏のように「沖縄に対する植民地主義を象徴するような出来事」などとは、とても言えるはずがないではないか。

乗松氏の心は偏見と憎悪に満ちている。それは間違った歴史観によるところが大きい、と言わなければならない。

コミンテルン史観の残滓が染み込んでいるのだ。

コミンテルン史観は人間の平等を唱えながら、実は共産党による一党独裁体制を全世界に浸透させることを目的とする悪しき思想である。

コミンテルン史観の中枢だったソ連は30年前に崩壊した。一党独裁による国家運営は不可能であると自ら証明してみせたのである。

コミンテルン史観はもはや否定的評価の定まった遺物にすぎない。

そんな過去の遺物で日本の天皇制にケチをつけ、良き伝統の破壊を示唆する乗松氏の眼に映るのは、人間は全て平等でなければならないという固定観念だ。

固定観念は真実をありのままに見通すことができない。

はじめから結論ありきの姿勢は、あらかじめ設定された枠に収まらない現実は全て排除しようとする。

違う立ち位置から同じ姿勢を取る女性がもう一人いる。我那覇真子だ。彼女は原理主義的保守思想の立場から、自らの考え方に合わないものは全て左翼リベラル、悪しき者と分類して非難し排除する。

乗松聡子と我那覇真子は、左翼リベラルと原理主義的保守の対極に位置しながら、固定観念で他者を排斥する点で見事に一致するのだ。

乗松聡子は天皇制を否定し、辺野古埋め立てに反対。我那覇真子天皇制を賞賛し、辺野古埋め立てに賛成。

ふたりの立場は真っ向から対立している。そして実はこのふたりの立場が現代の日本が患っている病気を象徴的に暗示しているのだ。

この日本病を佐藤健志は見事に解析してみせた。すなわち「右の売国、左の亡国」

我那覇真子辺野古埋め立てに賛成することで、米軍(占領軍)の駐留を認めている、すなわち右の売国

乗松聡子は天皇制を否定することで、日本の弱体化を狙っている、すなわち左の亡国。

立場こそ違え、乗松と我那覇は、自らの思想に合わないものは排除するという点で完全に一致するのだ。すなわち同じ穴の狢!

ちなみにぼくは左翼リベラルでもなければ原理主義的保守でもない。天皇制を敬愛し辺野古埋め立てに反対するナショナリスト(愛郷・愛国者)である。

佐藤氏の「右の売国、左の亡国」を超えた地点に立っていると自負する者だがいかがであろうか?

少なくとも固定観念に縛られることなくナショナリズム(愛郷・愛国)の礎石に立って真実を求める姿勢において人後に落ちる者ではないと自負している。

愛郷・愛国者にとっては、右も左も関係ないのである。

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