沖縄よ! 群星むりぶし日記

沖縄を、日本を、そして掛け替えのない惑星・地球を愛する者として発信していきます。

乗松聡子の眼は節穴だ

今朝の琉球新報乗松聡子のコラムが掲載されている。今回は15回目で「天皇のタブー視・民主主義と両立しない」とのタイトル名で論じている。

正直、読んで驚いた。特定の頑ななイデオロギーに毒されているとしか思われない論調である。あまりにも酷い内容であるため、座視することができず批判を試みたい。

実は、ぼくは昨年の12月4日の当ブログで乗松氏を批判したことがあった。11回目の同コラムで乗松氏は南京大虐殺を歴史的事実として肯定し、人類史上最も残酷なジェノサイドと断定した。そして南京城が陥落した12月13日を「南京大虐殺を記念する日」と制定する法案をカナダ・オンタリオ州議会が審議していることを報告し、審議に反対する人々を歴史否定主義者たちと断罪したのである。

だからぼくは乗松氏の主張を容認できない立場から批判したのだが、今回のコラムを読んで、乗松聡子は偏見イデオロギーの染み付いたどうしようもない人物だと、改めて認識したのである。さて気がひけるが、平等を期す意味で、まずは乗松氏の全文を掲載することにする。

≪ 今の日本を見ていると、メディアを含む社会全体での「天皇のタブー視」が根強いことがわかる。皇室の人については特別な敬語を使用して区別する。天皇皇后についてはやる事なす事、全てを有り難がる報道ばかりで、批判は一切許されない雰囲気がある。

外国の客相手には、握手するなど、普通の人間同士として接するのに、相手が日本人の場合はそれが許されないような二重基準がある。主権者の市民に会うときも、「一般参賀」のように高い所から手を振っている。

「陛下」という敬称も、「陛」という字が「宮殿の階段」を意味し、身分の上下を強調した言い方であるが、それが問題視されることはない。日本国憲法で保障される「法の下の平等」は度外視した扱いのように見える。

「男女平等」も、男系の世襲を定めている皇室では例外であり、この制度が日本の女性の自尊心に与えている負の影響は測りしれないと思っている。これらの、大日本帝国憲法下の日本と変わらぬような神聖視およびタブー化は、戦後憲法主権在民の精神に反している。

実際、明仁・美智子夫妻がいく先々にはその「タブーの空気」のようなものが一緒について回り、その周りでは異論が許されなくなる。政府はこの傾向を最大限に利用しているように見える。

今回、夫妻の最後の沖縄訪問ということだが、3月27日、28日というタイミングは、象徴的にも実利的にも政府に都合のよいものであった。27日は、1879年の「琉球処分」=天皇を中心とする日本国家に琉球が強制併合された139周年であった。1945年、「皇国」を守るために沖縄が犠牲にされた沖縄戦慶良間諸島で始まり、天皇の名の下に多くの住民が集団死を強要された時期とも重なった。

これ自体が残酷なことであったが、それに加え、今政府が推し進めている現代の日本軍=自衛隊の役割強化と、南西諸島への配備が加速する中での来沖であった。27日には、全国の陸上部隊の指揮統制を一本化する「陸上総隊」を新設、「島嶼防衛」のための「水陸機動団」が発足した。28日、与那国訪問の日は、小さな島の住民を分断した陸自配備の2周年の日であった。

日本の最西端、つまり台湾や中国に手が届きそうな場所にまで「天皇のタブー」の空気で包み込むことによって、沖縄戦以来の琉球弧全体の要塞下を丸ごと飲み込ませるという目論見があったのではないか。

明仁・美智子夫妻については、「平和への想い」や「沖縄を思う気持ち」が「本物」であるといった称賛の声が多く聞こえるが、天皇個人の人柄にばかり注目することで、制度自体の問題に向き合うことを避け、タブーを強化してはいないか。

何よりも、天皇が「本物」かどうかよりも、天皇に向き合う自分たちが「主権者」として「本物」なのかどうか問うべきではないか。政府による「天皇タブー」の利用に簡単に乗せられてしまうのではなく、誰の下でもない上でもない個人として自由で主体的な思考や意見表明をしているか、ということである。

天皇タブー視と民主主義は両立できない。タブーは打ち破らないといけない。≫

以上が乗松聡子の天皇論だが、当ブログの読者はどのような感想を抱いただろうか。ぼくの感想を一言で述べるなら、乗松氏は天皇陛下及び皇室を一般国民の地位に引き摺り下ろす願望を抱いている、ということである。そして皇室の廃止を願っているとしか思われない。乗松氏の主張は、かつての極左過激集団、革マル派中核派の主張とほとんど変わらない。

中国共産党も皇室の弱体化・廃止を目論んでいる。乗松氏の思想の根底にはコミンテルン共産主義の影響があると見てよい。日本の歴史と伝統を否定し、民主主義の名の下に平等という抽象概念を持ち出す、彼らの得意技だ。

平等という言葉は聞こえは良いが、油断すると大きな落とし穴に落ち込む危険性がある。何故ならば、人間の社会において平等という言葉で囲い込むことの出来る範囲は、具体的に考えると極めて限定されるからである。経済的に豊かで社会が安定した国で暮らす人々と、社会が不安定でその日の食事にも事欠くような国で生活せざるを得ない人々が平等だと言えるだろうか?

豊かで安定した国で暮らす人々を比較考慮しても、なかなか平等と呼べるような局面は少ない。例えばある家族の父親は会社の社長であり、隣に住む家族は母子家庭だ。社長の家族には子供が三人いるが、十八歳になる長男は病弱で長期間、学校を休んでいる。次女は大変な才女で、毎年全校で一、二を争う成績を維持している。そして中学生の次男坊は、街では有名な不良で父親に反抗的でいつも家族に迷惑をかけている。

どこにでも見られるような社会のほんの一コマだが、一体どこに平等が存在するだろうか?

<「陛下」という敬称も、「陛」という字が「宮殿の階段」を意味し、身分の上下を強調した言い方であるが、それが問題視されることはない。日本国憲法で保障される「法の下の平等」は度外視した扱いのように見える。>

乗松氏は、「陛下」という敬称は日本国憲法で保障される「法の下の平等」を度外視していると言うが、日本は立憲君主国家であることがわからないのだろうか?

英国、オランダ、スウェーデン、スペイン、デンマーク、ベルギー等と同じ立憲君主国家。

つまり簡単に言うと、憲法の規定のもとに君主(天皇、王様)が存在する国家、これが立憲君主国家である。日本国憲法は、第1章で天皇について規定している。その限りにおいて天皇は「法の下の平等」を具現化しているのである。

憲法の規定に疑義を挟む乗松氏は、一体何が言いたいのだろうか?憲法の規定が間違っていると思うのなら、憲法改正を主張すればよい。しかし、乗松氏から憲法改正の声を聞くことはない。

<「男女平等」も、男系の世襲を定めている皇室では例外であり、この制度が日本の女性の自尊心に与えている負の影響は測りしれないと思っている。これらの、大日本帝国憲法下の日本と変わらぬような神聖視およびタブー化は、戦後憲法主権在民の精神に反している。>

乗松氏の言う「男女平等」とはいったいいかなるものだろうか?男も女も同じ服装をし、同じ髪型で振る舞いも声の調子も同じにせよ、と言うような意味なのだろうか?もしそうだとすれば、滑稽を通り越してグロテスクな社会が出現することだろう。

男と女は違って当たり前。平等である必要はない。調和という自然の大法則に従うだけでよい。いうまでもないことだが、表向き男性の方が女性より強いように見えるが、実際は女性の方が強いのだ。天皇陛下皇后陛下が仲むつまじく寄り添って歩くお姿を見れば、男女平等とはこういうことか、ということが良くわかる。

皇后陛下天皇陛下の左後ろに寄り添い、陛下の左腕を両手で軽く抱くようにして歩かれる。そして時折、陛下の耳元に何か呟かれる。その時の天皇陛下の和やかな顔の表情は、見る者の心を至福に満たしてくれるのではないだろうか。少なくともぼくはそうだ。思わず微笑んでいる自分に気づくのだ。

真の男女平等というのは、ハーモニーではないだろうか。天皇皇后両陛下が寄り添って歩くお姿を拝見する度に、ぼくはそう思うのだ。そしてハーモニーを奏でることは、そう簡単なことではない。

「男女平等」という言葉を使えば了解されるようなそんな軽いものではない。身を正すための絶えざる修練、精神をまっすぐに整えるための厳しい日々の鍛錬なくしては到達できないような「なにごとか」なのだ。言葉ではうまく表現できないが、両陛下の仕草から感じ取る他ない「なにごとか」なのだ。

< 実際、明仁・美智子夫妻がいく先々にはその「タブーの空気」のようなものが一緒について回り、その周りでは異論が許されなくなる。政府はこの傾向を最大限に利用しているように見える。>

「タブーの空気」のようなものが異論を許さない、とはどういう意味だろうか?何故、両陛下を歓迎している場で、あえて異論を唱える必要があるのだろうか?乗松氏に異論があるなら堂々といえばよいではないか。沖縄が祖国復帰した年の7月、ひめゆりの塔で御献花される明仁皇太子・皇太后両陛下に対して火炎瓶が投げられ炎上する事件があった。左翼過激派による犯行であった。まさしく乗松氏の言う異論を行動に移したのだった。

皮肉なことに、この事件は「タブーの空気」など存在しないことを証明したのである。その後、陛下は天皇に即位されてからも沖縄を何度も訪れている。その真摯で誠実な姿勢が沖縄の人々の蟠りを少しづつ溶かしていったのである。両陛下を歓迎する人々は何も異論を唱える必要を感じないだけである。

もともと存在しない「タブーの空気」を政府が利用できるわけがない。乗松氏の独りよがりに過ぎない。

< 何よりも、天皇が「本物」かどうかよりも、天皇に向き合う自分たちが「主権者」として「本物」なのかどうか問うべきではないか。政府による「天皇タブー」の利用に簡単に乗せられてしまうのではなく、誰の下でもない上でもない個人として自由で主体的な思考や意見表明をしているか、ということである。
天皇タブー視と民主主義は両立できない。タブーは打ち破らないといけない。>

天皇皇后両陛下を貶めた乗松氏は、ついに国民に向かって、天皇に向き合う自分たちが「主権者」として「本物」なのかどうか問うべきではないかと非難の刃を向けてきた。奇妙な思考傾向を持つお人だ。

ぼくが皇室を尊崇の気持ちで敬愛するのは、政府による洗脳によるものではない。全く「 個人として自由で主体的な思考」で意見表明をしている。

実は、若い頃、ぼくは日本は戦争に負けたのに何故天皇は国民に人気があるのか、不思議に思っていた。ウチナーンチュなら多くの人が持つに違いない標準的な疑問。長い間その疑問から抜け出ることができなかった。ところが40代後半にふと閃いたのである。

日本の歴史で天皇自ら人民を殺戮する命令を下したことはない。青天の霹靂であった。この考えをぼくはどの文献でも読んだことがない。まさしく自分の頭で考え出した独自の思惟である。これでやっと長い間悩んだ疑問が氷解した。皇室の歴史において、血で血を争う事件は皇位継承という上部階層での権力闘争に限定される。天皇の権威を持って、人民を直接殺戮、ないしは命令を下した史実は存在しない。そう考えた時、皇室に対する意識が大きく変化した。

浅学ではあるが、調べれば調べるほど、皇室に対する敬愛と畏怖の念は強まるばかりである。緩やかな探求の過程で、神道に出会い、日本文化の素晴らしさを発見し、日本国は我が祖国なりと断言できるまでになったのである。

しかし、ぼくは一部の右翼のような皇室の狂的信者ではない。いかなる組織にも属さない、一生活人として、日本の本来ある文化、皇室を敬愛するのである。

皇室は国民の鏡である。曇りのない鏡を見て、我が身を正す。それだけの力を皇室は持っておられる。歴代天皇が国民を敵に回したことは一度もない。皇室にとって、国民は共に生きる国の宝であり、だからこそ国民の安寧を日々祈るのである。国民はそれを知っているから皇室を敬うのだ。

社会はもともと不平等でできている。これはどうすることもできない歴然たる現実だ。不平等を正常な形にするのは平等という抽象的概念ではない。徳を身につけた人間だけが不平等を正常にし、社会をすみよい環境にすることができる。いつの世になっても不平等が世の中から消えることは絶対にありえない。もともと存在する不平等状態を人間が暮らしやすいように変えていくこと。不完全な人間にできることはそのくらいのことである。

徳を身につけた人間が多ければ多いほど、社会は豊かになり安定する。皇室は徳に輝いている。我々国民が模範とすべき御存在である。燦然と輝く皇室は世界の奇跡であり、日本の宝である。

そして打ち破られるべきは、ありもしない天皇タブーなどではなく、乗松聡子の節穴の眼に映る悪しきイデオロギーに彩られた、この世に存在しない空虚なる風景である。