沖縄よ! でぃぐぬ花日記

祖国は日本。郷土は沖縄。日本国を愛し、沖縄を愛する者として、発信していきます。

本居宣長の言葉が意味するもの

二十代前半、精神的に悩んでいた頃、キリスト教に入信しようかどうしようか、と迷ったことがあった。新約聖書に記されたイエス・キリストの言葉は、悩める魂を救ってくれそうな気がしたからである。伝道に訪れたエホバの証人を家に招き入れ、彼らの話に耳を傾けたこともある。しかし、入信に至ることはなかった。最後まで入信を踏みとどまらせたものは何だったのだろうか?それが判明するまで長い歳月が流れた。東京で暮らしていた頃、池袋の有隣堂書店で『般若心経』という本を偶然目にした。著者はバグワン・シュリ・ラジニーシという。著者というよりも講話者というのが正確かもしれない。弟子たちの前で話した内容をそのまま弟子たちが本にしたものだからだ。最初のページを開く。
「あなたの内なるブッダにごあいさつします」
最初に飛び込んで来たこの言葉は、予期せぬ不思議な力でぼくを魅了した。ラジニーシが語る平明な言葉には深い意味が込められていることが、読み進むにつれ分かってくる。忽ちラジニーシの言葉の虜になり、その日以来、彼の本を次々買い求めるようになった。気がつくと数十冊が本棚に並ぶことになった。三十代後半から四十代にかけて、ぼくはラジニーシの弟子だったことになる。勿論、聖名をいただかない、ヤクザな弟子にしかすぎないのだが。しかし、そんなことはどうでも良い。長い間解決できなかった宗教に対する疑問が、ラジニーシのおかげで完全に氷解したのだ。禅の講話を始める頃、彼はラジニーシの名を改めて、和尚という一般名を使用するようになる。その和尚から学んだことは、知識としての宗教ではなく、宗教の本質である。宗教は完全に個人的なものであるということ。組織化された宗教は、宗教とは言えず、むしろ政治と呼ぶべきである。その目的は、一人でも多くの信者を増やすことだからだ。宗教の本来の姿は、禅において体現されている。人間にとって一番大事なことは、いまこの瞬間のここである。この真理が理解できたら、あとは実践するだけだ。長期間にわたる独自の実戦の結果、ぼくはようやく和尚を卒業できたように思う。和尚の本は、数冊だけ残して、ほとんどを処分した。
「私の言葉にとらわれてはいけない。夢の中に、私が現れたら、私の首を切り落としなさい。」
和尚自身の言葉である。本物の光明を得た仏陀に匹敵する人物であった。
さて、個人的に自分の中で宗教に対する疑問は解決したが、ぼく自身は光明を得たわけではない。未だに極平凡な一人の人間にしかすぎない。そんな折、本居宣長の次のような言葉に出会った。
「さて又神道に教えの書なきは、これ眞の道なる證也。凡て人を教えておもむかするは、もと正しき經の道にはあらず。然るに其教えのなきを以て、其道なしと思ふは、外國の小き道々にのみならひて、眞の道を知らざる故のひかごと也。教のなきこそ尊とけれ。教を旨とするは、人作の小道也。」
まさに目から鱗である。教えの書なき神道!なんという爽やかなる道であろうか。キリスト教イスラム教も仏教も、凡て分厚い教書を持っている。だから後世の信者による解釈の相違が出て来た。争いの種が発芽し、論争が巻き起こり、戦争にまで発展した。しかし、我が神道は、教えの書を持たないという。我が国の古代人は、教えの書を作れば、解釈の争いが起きることを予見し、ある意味、人間の愚かさを、達観していたのだ。以来、ぼくが信じる宗教は神道である、と自信を持って言うことにしている。悟りを説く和尚の教えは、ぼくのような凡人には高級すぎる。しかし、神道は自然にすんなりと、少しの無理もなく、ぼくの中に入るのである。教えの書はなくとも祈る心があるだけで十分ではないか。古代の人々のとてつもない知恵に敬意を払いたい。さて、さらに論じれば、神道を持つ我が国であれば、憲法不文憲法で良いではないか、と言いたいのだ。現在の占領憲法を廃止して、不文憲法とするのだ。スッキリして良いと思うが、いかがなものだろうか。我らの先祖にできて、今を生きる我らにできないはずはないと思うが。

 

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