沖縄よ! 群星むりぶし日記

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「沖縄に内なる民主主義はあるか」批判 5

「大城立裕氏は民主主義思想家ではない」(2010-12-01)という題名で又吉(ヒジャイ)は次のように書いている。

< 明治政府は身分制度を廃して、四民平等にした。沖縄も琉球王朝時代の武士の特権を廃して四民平等になった。それは沖縄の民にとって喜ばしいことではないのか 小説「琉球処分」の作者である大城立裕氏が「県知事選を終えて」という評論を新聞に掲載した。 大城氏は「1879(明治12)年に、日本政府が国防のために琉球王国を併合することを企て、琉球側の抵抗を武力で排して、琉球王朝沖縄県にした」ことを琉球処分と呼んでいる。

そして、日本政府は沖縄県民を日本人に仕立てるために「同化」政策をとり、社会生活ではヤマト人による差別が横行したと述べている。 琉球王朝沖縄県にしたというのは廃藩置県のことであり、明治政府が九州から北海道まで日本全国で実施した大改革のことであり、廃藩置県は封建社会から近代社会に転換する第一歩の日本の変革だった。
(中略)
明治維新は日本の夜明けであるというのが常識なのだ。 ところが沖縄では明治維新による日本の近代化を琉球処分として位置づけ否定的に考えているのだ。それでいいのだろうか。沖縄には四民平等の思想、民主主義の思想は育っていないのか。 明治政府は身分制度を廃して、四民平等にした。沖縄も琉球王朝時代の武士の特権を廃して四民平等になった。

それは沖縄の民にとって喜ばしいことではないのか。 大城氏は、日本政府は沖縄県民を日本人に仕立てるために「同化」政策をとったというが、この「同化」というのは明治政府による日本全体の近代化への改革であったのであり、沖縄も全国と同じように変革をしたのであって、特別に沖縄が「同化」されたのではない。

琉球処分とは、琉球王朝の廃止、武士の武器携帯の禁止、ちょんまげの禁止、武士の特権の廃止、四民平等、国内移動の自由などのことである。それを琉球処分と呼ぶのに私は大反対だ。 琉球処分で被害をこうむるのは支配階級の武士であり、農民や庶民は武士支配から開放されて自由になったのだ。 廃藩置県を琉球処分と認識したのは沖縄の支配階級であった。廃藩置県を琉球処分と認識する大城氏には民主主義思想が欠落しているといえる。 福沢諭吉の「天は人の上に人をつくらず。人の下に人をつくらず」という歴史的名言も大城立裕氏には耳障りかもしれない。>
又吉(ヒジャイ)の歴史認識はあまりにも単純である。これだけ単純化されると、批判する気力もなくなるが、沖縄の歴史に疎い人たちに誤解を与える危険があるので、やはり批判せざるを得ない。
幕末の動乱期における武士階級は琉球王朝に民主主義をもたらすために明治維新を断行したのではない。ましてや、農民や庶民を武士階級から解放する目的で明治維新を決行したのでもない。
明治維新の意義を論じる際に重要なことは、できるだけ視野を広げて当時のアジアの状況を的確に把握することである。国内事情だけに限定して論じると、全体像を見ることは叶わず、真実は片手落ちになる。十九世紀は、アジア諸国が欧米帝国主義諸国に植民地化された時代であり、そのなかで唯一日本だけは独立を保っていたが、欧米の武力圧力は凄まじく幕藩体制のままでは他のアジア諸国同様、欧米に侵略されることは火を見るより明らかだった。

まさに日本は建国以来の一大危機に立たされていたと言える。何が何でも欧米の侵略を跳ね返すために明治維新を断行し、近代化政策を推し進めた。圧倒的な近代兵器で襲いかかる欧米と互角に対抗するための唯一の近道は、かれらの諸制度を取り入れて重工業を起こし、近代兵器を生産することであった。そして欧米諸国と互角に渡り合える近代的軍隊を持つことであった。そうすれば、少なくとも欧米諸国の植民地にならずに済む、と考えた開明派達は様々な矛盾を抱えつつも、歴史を前進させて明治維新を発足させたのである。

つまり、明治維新帝国主義という外圧に強いられた歴史の必然であった。
さて、我が琉球王朝に目を転じると、王朝とは言っても内実は、薩摩藩主島津の傀儡政権であり、島津の支配は千六百九年の琉球侵攻以来、廃藩置県まで約二百六十年という長期に及ぶ。島津の琉球支配はその理不尽さゆえに、琉球の人々に感情的しこりを植え付け、大和人に対する不信感は抜き難いものになった。
いっぽう、当時の琉球と清国との関係は、冊封体制であったとはいえ、清国が政治的に琉球を支配統治することはなく、琉球人を虐殺した史実も存在しない。貿易では琉球側に多大の利益をもたらし、琉球と清国は友好関係にあった。そのいっぽう、資源の乏しい琉球から搾取する狡猾で高慢な島津に対して、我々の先祖は言葉に尽くせぬほど苦悩し、不信感は募るばかりであったにちがいない。その薩摩の背後には徳川幕府の存在があったことを忘れてはならない。
そんな大和人が琉球王朝を廃止して日本の一県として日本国に組み入れようとする時、はたして農民や庶民が喜ぶだろうか?その姿をぼくはどうしても想像できないのだ。
< 明治政府は身分制度を廃して、四民平等にした。沖縄も琉球王朝時代の武士の特権を廃して四民平等になった。それは沖縄の民にとって喜ばしいことではないのか。>
まるでマルクス主義の安っぽい階級闘争理論を聞かされる思いがする。歴史の真実はそんな単純な言い回しで説明できるものではない。
表層だけ見て実態を見ないからそのようなことが言えるのだ。形式で判断しても、人間の深い心理心情を理解できるはずはない。
当時の琉球は、本土の諸藩と違って、島津の傀儡政権とはいえ独自の文化、伝統、制度を持つ独立国家であった。明治政府が下した改革に伴う社会的混乱を平準化して諸藩のそれと同一視してはならない。つまり、明治政府が目指した第一の目的は、凶暴な欧米帝国諸国から日本を防衛する事であり、その圧力ゆえの改革であり、琉球編入はあくまでその国策の一環にすぎなかったと考えるべきである。身分制度が廃止され、四民平等になったのは事実その通りだが、その制度が安定するまでには相当の年月を要している。そして農民や庶民の暮らしが楽になったかといえば、必ずしもそうではなかった。なぜなら明治政府は富国強兵策を取ったため、税金が高くなった結果(歴史的資料がある)、地方の暮らしは厳しく、特に沖縄県はそれが原因の一つとなり、大正から昭和にかけて発生したソテツ地獄の遠因となる。以上、我々の先祖の苦悩を考えると、琉球の日本国への編入は大きな時代の流れに呑み込まれる歴史的必然性があったとはいえ、やはり琉球処分と呼んで然るべきである。

歴代の琉球王以下支配層による農民や庶民の虐待、虐殺などの歴史的資料があれば話は別だが、そのような資料は存在しないし、羽地朝秀や蔡温という優れた政治家が出現したことを考慮すると、資源の乏しい琉球の人々は支配被支配関係なく、南国人特有の穏やかで暖かい心の交流が交されていたとみるべきだろう。
又吉(ヒジャイ)の歴史認識は表層的で軽薄で、且つ冷淡である。彼の文章から当時の我々の先祖の生きた表情を見ることは不可能だ。近代が生み出した民主主義思想の観点から古の人々の生き様を説明するには相当無理があると心得るべきである。むしろ、古の人々の視点から、軽薄な現代人を逆照射すべきだろう。