沖縄よ! 群星むりぶし日記

沖縄を、日本を、そして掛け替えのない惑星・地球を愛する者として発信していきます。

那覇市長選雑感

朝6時半頃家を出た。家々はまだ寝静まっていて静かで、空気は新鮮で気持ち良い。最近、体力の衰えが気になりだして急に早朝の散歩を思い立った次第。幸いなことに、近くに散歩にうってつけの公園がある。歩いて15分くらいである。

初日から無理はせず普通に歩いたり、小走りしたりして公園内を2周した。鉄棒にぶら下がって筋肉をほぐしたり、腹筋台で腹筋運動をしたり。結果的に体力の衰えを痛感させられた。日課に組み入れて根気よく続けることにしよう、と自分に誓いを立てた。

さて、那覇市長選挙。NHKは投票締切時間と同時に城間幹子の当選確実をテロップで流した。これほど早いということは、大差に違いないと推測した。今朝の新聞を見ると、やはりそうだった。

城間幹子 79677票

翁長正俊 42446票

37231票の大差である。城間氏の勝利は動かないだろうとは思ったが、予想以上の大差である。ぼくは専門家ではないので、今回の選挙の勝敗の中身を分析しようとは思わないし、その興味もない。

ただ、感じた事だけを述べるにとどめたい。2000年の那覇市長選挙で翁長雄志が当選するまで、那覇市長は革新系の牙城だった。本土復帰の年1972年から平良良松が3期、1984年から親泊康晴が4期勤めた。38年の長期間、革新政治が続いたことになる。

その革新の牙城であった那覇市長の座を2000年の選挙で自民党の翁長雄志が奪還した。実はこの頃から革新系の衰退が始まるという政治状況を考慮に入れる必要があるだろう。98年の知事選では保守系の稲嶺恵一氏が革新系の大田昌秀(当時現職)を破っている。

沖縄が以前に比べて経済的に豊かになったことが、革新系が衰退する原因のひとつになったのは間違いない。さてこのように政治状況が変化する中、那覇市長を務めた約16年間、翁長市長は自らの政治理念をどのように熟成させていったか。

翁長雄志の言葉を調べていくと、彼が保守政治家であるのは確かだが、あくまでも沖縄の歴史・文化・伝統に深く根ざした保守であることがわかる。

「私は保守だが、沖縄の保守だ」と彼自信が強調していた。

これは何を意味するだろうか?例えば、「私は保守だが、高知の保守だ」あるいは「私は保守だが、群馬の保守だ」とわざわざ言及する本土の政治家がいるだろうか?ちょっと考えにくい。

「私は保守だが、沖縄の保守だ」と翁長雄志が強調した背景には明らかに、沖縄が歩んできた独自の歴史認識がある。本土とは根本的に異なる沖縄独自の歴史。

1609年の薩摩侵略以来、今日に至るまで沖縄の歴史は本土による差別の歴史だった。数ある歴史的事実がそれを証明している。特に目の前に顕在化する米軍(占領軍)基地の存在は、政府による最大の差別であり、沖縄の最大の政治課題でもある。

この問題を乗り越えるためにどうすれば良いか。翁長市長は長年基地問題で革新と保守が争う政治を自らも巻き込まれる体験を通して、何とかして保守も革新も沖縄の為に融合出来ないか、悩みに悩み、考え抜いたに違いない。

そして長年胸の内に温めた方向性を実践する為に、14年の県知事選は、計らずも千歳一隅の機会となったのではないか。沖縄の売国的言論人に翁長雄志は、以前からどうしても県知事になりたくて共産党に魂まで売ったのだ、と言うお馬鹿さん(又吉ヒジャイ)がいるが、全くの嘘であり、物事の表面しか見ない軽薄な見解にしか過ぎない。

仲井真知事が公約を守り、辺野古新基地を承認しない立場を貫いていたら、翁長雄志は、そのまま那覇市長を続けただろう。彼は那覇市長として政治生命を完全燃焼させたいと考えていたのだ。

仲井真知事が公約を破ったおかげで、自民党那覇市議団12名の推薦を受けたのが発火点となり、翁長雄志を県知事候補に担ぐ動きが顕在化したのである。

那覇市議団12名から推薦を受けて、翁長雄志は考えたに違いない。長年温めてきた政治理念を実行に移す時が来た、と。それは辺野古新基地を認めない革新と保守が合同すること。

イデオロギーよりもアイデンティティ。沖縄の政治的困難性を乗り越え、未来に向かって前進する為にはこれ以外の政治理念はない。

「私は保守だが、沖縄の保守だ」

何も本土の政党と完全に一体化する必要などさらさらない。翁長雄志に倣って、沖縄の革新諸君も「私は革新だが、沖縄の革新だ」と勇気と誇りを持って宣言すれば良い。

国政に通じる以上、本土の政党に系列化せざるを得ないという、沖縄政治の不幸な条件はあるにしても、聞き入れられない圧力ははっきり断れば良いのだ。要するにウチナーンチュによるウチナーンチュのための政治をすることだ。自明のことであり、何の問題もない。

オール沖縄の理念はここから来ている。各政党間のイデオロギーは腹八分に抑えて諸問題を解決し、共通の目標に向かって、ともに前進する。故翁長知事が切り開いて実現した保革合同の政治理念は、どれほど称賛してもし足りないくらいの素晴らしい政治遺産である。

豊見城市長選と那覇市長選でオール沖縄が勝利した。故翁長知事の政治遺産は継承された。目指す先は「誇りある豊かな沖縄」だ。

かつて革新は誇りのために闘い、保守は豊かさを求めて闘った。これからは、玉城デニー新知事のもと、保革が力を合わせて「誇りある豊かな沖縄」を目指して政治基盤を強固にするべきだ。

安倍売国奴政権は牙をむき出しにして襲ってくるだろう。しかし、すでに政権のレームダック化は始まっている。むき出した牙にひび割れが見える。

辺野古新基地はあらゆる面で欠陥品だ。欠陥品はいつか必ずボロを出して回収される運命にある。安倍晋三菅義偉辺野古新基地と運命をともにするタダの大根役者に過ぎない。

それにしても、城間幹子市長のカチャーシーは見事だった。あまりのうまさについ見惚れてしまった。デニー知事の男性的な個性溢れるカチャーシーも見応えがあるが、城間市長の方が少し上かな・・・。

四年前、知事選に勝利した翁長知事のカチャーシーも良かった。あの時の魅力的な笑顔が忘れられない。辺野古新基地が頓挫したら、ぐすーよー、するてぃ、かちゃーしー、もーてぃんじゃびら。

ちなみに、ぼくの今は亡き母のカチャーシーは、それはそれは国宝級の踊りでした。市長も知事も到底及ばないほどの野生的で艶かしい見事なものでした。

 

国家を「自作自演」する安倍内閣

声を大にして叫びたい。安倍政権は売国奴政治家の集団に他ならない、と。戦後73年が経過して今なお、占領軍に手も足も出ない政権を売国奴政権と呼ばずになんと呼ぶ。

4年前も今回も辺野古新基地に反対する知事が当選した事実を無視し続ける中央政府。彼らの視線は決して沖縄県民に向けられることはない。ビクビクしながらワシントンを見ている。

「わが国は米国と100パーセント共にある」と言ってのけた安倍首相。このように言える国家指導者は、世界広しと言えど、安倍晋三だけだろう。思慮に欠ける言葉は軽く罪深い。強者に臆病で弱者に威張ってみせる。国家の指導者として最も不適任者である。

戦後レジームからの脱却」「日本を取り戻す」全て嘘である。実態は、戦後レジームの定着(占領軍の駐留永続化)、日本を外国資本(グローバリスト)に売り渡す、である。

安倍政権下で成立した安保法制、カジノ法案、種子法廃止、水道民営化、外国労働者受け入れ促進、これらがその証拠だ。

自衛隊は米軍の従属軍となり、日本人の財産は外国資本に売られ、日本人労働者は低賃金に押さえつけられる。

このような売国奴政治を実行する安倍政権が、沖縄の民意を考慮するはずがない。安倍晋三にとっての民主主義は彼に都合のいいものでなければならない。彼に反対する側に民主主義は存在しない。

対話で辺野古問題を解決したいと話した玉城デニー知事に対し、知事の顔を正面から見ないで、右脇下のテーブルに置かれたメモに目を落としたまま、これまで繰り返してきた同じ文句を述べるにとどめたのは、彼にとって都合のいい民主主義を実践したに過ぎない。

玉城デニー知事に対する侮辱は、沖縄県民に対する侮辱でもある。ことここまで至れば、我々も受けて立つだけだ。辺野古新基地は絶対に阻止する。あらゆる角度から検討して、満身創痍で欠陥だらけの辺野古新基地は建設不能の運命にある。

安倍政権といえども、期限付きの代理人に過ぎない。その自覚のない連中が暴走している。防衛省国土交通省に助けを求める。身内同士の気持ち悪い馴れ合い!

玉城デニー知事は、これを「自作自演」と命名した。うまい、流石だ。

安全保障政策で国家が「自作自演」する時、危険水域に入る事態を我々は歴史で学んだ。先の大東亜戦争における大本営発表。国民を向かず「自作自演」で突き進んだ戦争。

無惨な結末で終わったのに、安倍政権にその反省は見られない。歴史に学ばない「自作自演」が待ち受けているのは、やはり無惨な結末でしかない。

 

移設を容認するから補償せよと言う不条理

辺野古区民の方々は一体何を考えているのだろうか?一部の区民が条件付きで普天間飛行場辺野古基地移設を容認していることは知っていた。しかし、詳しい内容は今朝の琉球新報の記事で初めて知ることができたのである。

個別補償を巡る辺野古区の動き

1999年9月:辺野古移設反対を決議

2006年4月:名護市と防衛省がV字型滑走路建設で合意:区が1世帯1億5千万円の補償要求を決議

2007年5月:行政委員会で99年の反対決議撤回を承認

2010年5月:補償拡充などを条件に移設容認を決議

2014年4月:政府などに「永続的な補償」などを要請

2018年8月:防衛省が個別補償を「実施できない」と伝える

辺野古区民は移設の話が持ち上がった当初は反対の立場だった。ところがその後の経過をみると、条件付きで移設を容認してきたことがわかる。

2006年4月には1世帯あたり1億5千万円の補償要求を決議したと言うから驚きである。琉球新報は次のように書いている。

防衛省の方針を伝えられてから約1週間後の8月9日。辺野古区の役員らは市役所を訪ね、渡具知武豊市長に要請書を手渡した。

要請書に明記された「基地がある限り1世帯当たり永続的な補償」「区民に対する見舞金の実施」などの項目は、区が2014年4月に政府に提出した「辺野古区の条件」とほぼ同じで、一貫として要望してきた内容だ。これに対して、渡具知市長は本紙取材に「個別補償に関して詳細なことを聞いていないので、お答えできない」と述べるにとどめた。(略)

今回、防衛省は補償に応じない理由として「法的根拠がない」ことを挙げたが、これまで補償実施に含みを持たせ、はっきり断ったこともなかった。>

人間とはなんと浅ましい存在なんだろう。辺野古区民の態度を見ると、そう思わざるを得ないし、気が滅入って仕方ないのだ。資本主義の世の中とはいえ、これでは守銭奴そのものではないか。

守銭奴とは言葉が強すぎるかもしれない。何故なら辺野古区のホームページには、次のような力強い言葉が散りばめられているからだ。

< わたしたちのモットーは「ヒヌク・クンジョウ」(他人の力を借りず、自分の力で生きていく!)です。 
 辺野古区民は昔から、
 (1)困っている時、他人が物を貸したり与えようとしても、頑として受けない。
 (2)人の恩を受けない。
 (3)度胸があって腕力も強い。
 (4)他人に物を与えるのを惜しまない。
 (5)他人が困っている時、自分がなくても与える。
という個性的な気質を持ち続けています。>

これらの言葉から想像できる辺野古区民像は、苦しい立場に追い込まれても、辺野古新基地建設に抗議する姿である。決して米国追従の政府に金銭をおねだりするような哀れで惨めな辺野古区民の姿ではない。

辺野古区民の皆さん、今一度「ヒヌク・クンジョウ」を天下に披瀝してもらいたい。度胸と腕力を不条理な権力者に向けてもらいたい。

 

渡具知名護市長がヘリパッド全面撤去を公約

渡具知名護市長は昨日の市議会本会議で米軍キャンプ・シュワブ内にあるヘリパッド全7ヶ所の撤去を公約とすると表明した。以下は琉球新報の記事から。

<【名護】沖縄県名護市の渡具知武豊市長は15日、米軍キャンプ・シュワブ内にあるヘリパッド全7カ所の撤去の実現を求めていく考えを明らかにした。市議会本会議で「強く訴えていく」「(撤去を)公約と捉えて結構だ」と明言した。渡具知市長は2月の市長選ではシュワブのヘリパッド撤去を公約に掲げていなかった。市議会3月定例会では国立高専近くのヘリパッド撤去を求める考えを示していたが、シュワブ内全7カ所の撤去を「公約」と明言したのは初めて。

東恩納琢磨氏への答弁。一般質問で東恩納氏が「ヘリパッドの全面撤去を掲げていると認識していいか」と問うと「これまで何度か発言している。私の公約と捉えて結構だ」と答弁した。

特に、高専のグラウンドから約300メートルと近い位置にあるヘリパッドについて、渡具知市長は7月に小野寺五典防衛相(当時)を訪ね、早急に撤去するよう口頭で伝えたという。>

この記事を読んで狐に包まれたような気分になったのはぼくだけだろうか。渡具知名護市長は2月の市長選挙で、当事者であるにもかかわらず、辺野古新基地建設の是非について一言も触れず、稲嶺市長(当時)が要求した公開討論から逃げ回るという、無責任で卑劣な手法で当選した人間である。

そんな人物がキャンプ・シュワブ内にあるヘリパッド全7ヶ所の撤去を求めると言う。いかなる心境の変化があったのか、明らかではないが、今からでも遅くはない、辺野古新基地建設に反対するべきだろう。

そうしないなら、政治理念上、論理的に矛盾するのは明白である。と言うのも、辺野古新基地の主要な機能は、オスプレイの常駐だ。その数は100機に上ると言われている。しかも同じキャンプ・シュワブ内にあるヘリパッドと殆ど隣接している。

辺野古新基地が完成すれば、ヘリパッドを利用する回数がさらに増加するのは目に見えている。渡具知名護市長がヘリパッドの全面撤去を主張する最大の理由は、騒音に悩まされる地元住民の訴えであり、市長は地元住民の訴えを聞き入れたことになる。

となれば、渡具知市長のとるべき政治決断は、辺野古新基地に反対することだ。そうでなければ、ヘリパッド全面撤去の主張と整合性が取れないばかりか、市長の公約は仏に魂入らずの結果となる恐れが多分にある。

ともあれ、今回の渡具知名護市長のヘリパッド全面撤去公約は大歓迎である。同時に静観の構えから脱皮して、辺野古新基地建設阻止を公約にしてもらいたい。

そして玉城デニー知事と共に力を合わせて、沖縄人はイデオロギーよりもアイデンティティを大事にする民族であることを示して欲しい。左でもない、右でもない真ん中を突き進む。真ん中とは、古代より綿々と続く我々沖縄人のアイデンティティそのものだ。

我々沖縄人が、アイデンティティのもとにあらゆる知恵を集めて結集すれば、恐れるものは何もない。米国に従属する売国奴政治家どもに毅然として立ち向かうことができる。

 

嗚呼、背筋が凍りつく安倍外交の危険性

日米が9月26日に合意した貿易協定は「物品貿易協定」(TAG)であるとの政府説明は全くの嘘であることが、多くの評論家の指摘で明らかとなった。

中でも佐藤健志氏の解説は明快かつ詳細で説得力があった。Front Japanという番組で佐藤氏は英語正文とふたつの訳文を取り上げて比較検討し、日本政府訳がいかにデタラメか指摘してみせた。

そもそも日米二国間で合意した共同声明の正文が英語のみと言うこと自体信じ難いことだが、まずは英語正文と日本政府訳、アメリカ大使館訳を比較検討して頂きたい。(ついでに佐藤氏の名訳も併記した。)

2018年9月26日の日米共同声明 英語正文

第三項

The United States and Japan will enter into negotiations, following the completion of necessary domestic procedures, for a United States-Japan Trade Agreement on goods, as well as on other key areas including services, that can produce early achievements.

第四項

The United States and Japan also intend to have negotiations on other trade and investment items following the completion of the discussions of the agreement mentioned above.

日本政府訳(注:仮訳。つまり正文ではない)

第三項

日米両国は、所要の国内調整を経たのちに、日米物品貿易協定(TAG)について、また、他の重要な分野(サービスを含む)で早期に結果を生じ得るものについても、交渉を開始する。

第四項

日米両国はまた、上記の協定の議論の完了の後に、他の貿易・投資の事項についても交渉を行うこととする。

在日アメリカ大使館・領事館サイト訳(仮訳)

第三項

米国と日本は、必要な国内手続きが完了した後、早期に成果が生じる可能性のある物品、またサービスを含むその他重要分野における日米貿易協定の交渉を開始する。

第四項

米国と日本はまた、上記協定の議論が完了した後、貿易および投資に関する他の項目についても交渉を開始する。

佐藤健志

第三項

アメリカ合衆国と日本は、必要な国内手続きをすませたうえで、日米貿易協定の交渉に入る。この協定の対象は、物品、およびサービスを含めた他の重要分野で、早期の妥結が見込めるものとする。

第四項

日米は、前項に記した協定(物品と、サービスを含めた他の重要分野で、早期の妥結が見込めそうな事柄に関するもの)の交渉がすんだあと、貿易や投資に関するそれ以外の事柄についても交渉を開始する意向である。

さて如何であろうか。多少英語の読解力のある人なら、日本政府訳がいかにデタラメで杜撰な訳であるか、すぐにわかるだろう。

なぜこのような誤訳を敢えてしたのか。政府の意図ははっきりしている。包括的自由貿易協定(FTA)ではなく限定的な貿易協定(TAG)とすることで国内世論を抑えるためである。

米国とFTAを結ぶとなれば、畜産農家の反発は必至である。貴重な票田を失うことになる。だから英語正文には表記されていないTAGなる言葉を編み出して「物品貿易協定」という小賢しい訳語を当てたのである。

安倍首相自身「これまで日本が結んできた包括的なFTAとは、全く異なる」と述べた。安倍首相が嘘をついていると分かっても、今の官僚に首相を諌める骨のある奴は一人もいない。

だから、親分に最大限忖度して、目の当てられないような誤訳を平気でやってみせる。もはや我が国には本気で国益を守る政治家も官僚も存在しない。みんな保身のために汲々しているだけだ。

世界を140ヶ国以上回ったと言って自慢しているが、質が伴わなければ、それこそ税金の無駄使いではないか。安倍首相の外交は、ただの見栄っ張りで税金の浪費に過ぎず、国益のためにならないばかりか、日本国を亡国へと追いつめる危険性すら孕んでいる。

安倍晋三は、戦後最悪のおぼっちゃん総理であることは間違いない。嗚呼、背筋が凍りつく!

 

多くの県民から憎まれ嫌われる菅義偉

「嘘をつけ!」「帰れ!」

止むに止まれず発せられた怒りの声。厳粛な場においては誰でも静かでいたいと願うのは人情だろう。しかし、菅義偉官房長官の心無い言葉に対して、一般参列者が抗議の声を投げ返したのは当然である。繰り返される侮辱に耐える必要はさらさらない。

故翁長前知事にあれだけ強い圧力をかけ続けた官邸の権力者が、これまでの発言と寸分違わぬ言葉を、あろうことか故人の死を悼む場所で、平然と述べる無神経には、ただ恐れ入るばかりだ。

ぼくがあの場にいたら、間違いなく大声で抗議の声を投げつけただろう。「菅義偉、もう沖縄に来るな、今すぐ政治家をやめろ!」と。

安倍首相の弔辞の代読とはいえ、首相と官房長官は一心同体も同然だ。首相の弔辞は官房長官の弔辞でもある。二人揃って県民の心を逆なでするような言葉を平気で使う無神経で傲慢な姿勢。

「(略)翁長前知事は、沖縄に基地が集中する状況を打開しなければならないという強い意志を持っていた。沖縄県に大きな負担を担っていただいている現状は、到底是認できるものではない。何としても変え、政府としてもできることは全て行う。目に見える形で実現するという方針の下、基地負担軽減に向けて一つ一つ確実に結果を出していく決意だ。これからも県民の気持ちに寄り添いながら沖縄の振興、発展のために全力を尽くす。」

安倍首相の弔辞は、故翁長前知事を遺影の前で再度侮辱しただけではない。故翁長前知事の意思を受け継ぐと約束した玉城デニー新知事をも同時に侮辱したのだ。

翁長氏が四年前、相手候補に十万票の大差をつけて圧勝したにもかかわらず、四ヶ月も面会しないという屈辱を味合わせた時から、玉城デニー氏が県知事選史上最高得票を獲得した現在に至るまで、安倍官邸の沖縄蔑視政策は少しも変わっていないのだ。

官房長官が代読した安倍首相の弔辞はそのことをはっきり示している。何度も繰り返される「県民の気持ちに寄り添う」という言葉。これが大噓であるのは沖縄県民なら誰でも知っている。

「県民の気持ちに寄り添い」ながら、多くの県民が反対する辺野古新基地建設に対して圧力をかけて工事を強行する。一体世界のどこに、この論理の矛盾が理解できる人間がいると言うのだ。はっきり説明してみろ、安倍晋三菅義偉

平気で大嘘をつく官邸と官僚達。この連中が政権を握っている限り、日本が真の独立国家になるのは夢のまた夢にすぎない。売国奴安倍晋三菅義偉、直ちに政治家を辞めろ!

 

芸術のテロリスト・バンクシー讃歌

心地よい秋風を感じる今日この頃だが、自分の知識がいかに貧しいかを思い知らされるようなニュースが飛び込んできた。

オークションで約一億五千五百万円で落札された絵画が、その直後額の中をずり落ちて、その下半分が、額縁に仕込まれたシュレッダーによって、縦に細かく切り裂かれるという衝撃的事件。

作者はバンクシーという世界的に有名な路上芸術家で、シュレッダーを仕込んだのも彼の仕業らしい。ぼくはこのニュースではじめて彼の存在を知った。いかに自分が呑気な暮らしをしているか痛感している。と言うよりも、世界は想像を超えて広すぎるのだ、と言うべきか。

衝撃と痛快。この相反する感情を掻き立てたバンクシーなる人物とは、一体いかなる者なのだろうか?昨日来、この人物のことを調べ、いろいろ考えに耽っている。英国生まれだけは分かっているが、正体不明の謎の芸術家。

神出鬼没で世界中の壁に風刺画を描く。予め用意した厚紙を壁に当てて、スプレーを吹きかける手法であっという間に作品は完成するので、足が付くことはない。パレスチナイスラエルとの間に造られた高い壁に壁画を描いた時は、イスラエル兵に殺されかけたが、素早い行動で難を逃れたらしい。

彼が一人、アトリエで腰掛けている写真が、Sputnikに掲載されている。黒づくめの服装に身を包み、黒頭巾を頭からすっぽり被っているため、顔は全く見ることはできない。

行動する芸術家。孤独の叛逆者。

何が彼を叛逆的行動に駆り立てるのだろうか?その動機を知るためには、彼の作品を鑑賞するのが一番手っ取り早いだろう。シュレッダーにかけられる前の『Girl With Balloon』を観てみよう。

三、四歳くらいの女の子が、風で飛ばされた❤️型の赤い風船を見上げて、左手を差し伸べている。女の子はモノクロで描かれ、風船だけが赤色である。突風が吹いたのだろう、一瞬の隙を突かれて、女の子は風船を手放してしまった。それだけの構図だが、想像力の逞しい人は、この作品の前で釘付けになるに違いない。

赤い風船は女の子にとって大切なものだ。それが自然という思いもよらない力によって奪われてしまった。思わず左手を上げて掴もうとしても、無理である。背後から吹く突風はまだ勢いがあり、女の子はもう風船の紐を掴めないことをよく理解している。

手が届きそうな距離にありながら、どうすることもできない絶対的不可能性を示す距離感。大切なものを一瞬で失う時の心理。

人間にはどうすることもできない永遠の離別というものがある。取り戻すことが不可能ならば、潔く諦めるしかないのだろう。離別と諦念を固定化すること。

しかし、人間が生きている限り、物語が固定化することはあり得ない。作者・バンクシーは数年前に『Girl With Balloon』に精巧なシュレッダーを組み込んだ。その動画がある。

オークションの落札の鉦の音と同時に絵がずり落ちる。センサーが働いたのかどうかは分からない。そしてシュレッダーが与えられた任務を遂行する。実に鮮やかな手口だ。

問題は、なぜバンクシーはこのように手の込んだ叛逆的行動に出たかである。理由は、オークションに集まる大金持ちの連中を軽蔑していると表明するためだ。バンクシーは、並みの芸術家ではない。

彼の叛逆は同時に犯罪に重なる部分がある。それを覚悟の上で行動する。今の世界は馬鹿者ぞろいだ。特に大金持ちと権力者どもは、軽蔑すべき連中だ。彼らの傲慢さ、馬鹿さ加減を風刺することがなぜ悪い。俺は銃火器でテロをやるのではない。絵画を武器に観念のテロをやるのだ。

馬鹿な連中の頭と心に爆弾を仕掛けるのだ。

バンクシーの作品は、いわゆる単なる風刺画とは違う。巷に散乱する風刺画は後味の悪さが残るものだが、バンクシーのそれは見る人々を沈思黙考させる力がある。作者に深い思想的裏付けと芸術的センスがなければ、出来ることではない。

実に偉そうな感想を述べてきたが、バンクシーのような天才が現代にいるおかげで、世の中楽しくなるというものだ。

どうぞこれからも馬鹿な世の中を覚醒させるような、ワクワクするような作品を描き続けて欲しい。そのためには、勿論、芸術を理解できない馬鹿な連中に逮捕されてはダメですぞ。

I ❤️ Banksy !