沖縄よ! 群星むりぶし日記

沖縄を、日本を、そして掛け替えのない惑星・地球を愛する者として発信していきます。

似非保守・佐喜真淳の正体

佐喜真淳沖縄県知事候補は、デマ常習犯・ボギー手登根(手登根安則)とつながりがある。宜野湾市長時代、ネットTVでボギー手登根と一緒に出演した動画が存在する。この事実だけでも行政者として失格であり、県知事候補としての資格はないはずである。沖縄県知事として最も不適任な人間である。

ボギー手登根という男はデマ常習犯だ。彼がネットで流した悪質なデマは数しれないほどある。辺野古で座り込みをする人たちは日当をもらっていると言って、2万円と書かれた茶封筒を見せびらかしてネットで拡散させた張本人だ。百田尚樹竹田恒泰ら本土の似非保守言論人達が彼のデマを真に受けて、公共のテレビ番組で吹聴した事実は、今も人々の記憶に残っている。

ぼくは去年の夏場、3ヶ月ほど辺野古に通って座り込みに参加したことがある。日当どころか、弁当代はじめ全て自前である。そしてチャンネル桜「沖縄の声」のおぞましいキャスター達が宣伝する、座り込みをする人々の内、約3割が朝鮮人であり、中には工作員もいて、彼らが辺野古反対闘争を仕切っているというのは真っ赤な嘘、デマにすぎないことをぼくは現場で確認した。

チャンネル桜「沖縄の声」が流すデマの中心的な人物がボギー手登根だ。中でも彼が手がけたデマで最大にして最悪なのは、沖縄自動車道で発生した多重衝突事故をダシにして作り上げたものだ。

事故に巻き込まれた日本人を車から助け出したトルヒーヨ海兵隊曹長が後続の車にはねられて意識不明の重体に陥ったのに、なぜ沖縄タイムス琉球新報も事実を報道しないのか、トルヒーヨ氏が海兵隊員だからか、と県2紙を陥れる目的で捏造したデマ事件。

ボギー手登根と連携した産經新聞の高木那覇支局長が、現場の取材もせずボギー手登根のデマに枝葉をつけて記事に仕上げて、なんと産經新聞と産経ニュースで報道したから大変だ。

ヤフーニュースと八重山日報がそのまま事実として追随報道し、海兵隊が騙され自衛隊も騙され、なんと佐喜真宜野湾市長も騙されたのである。

佐喜真淳という男は、実に節操のない軽薄でおっちょこちょいな人間だということを証明したデマ事件であった。市長という市民に対して行政責任を背負う立場にある人間が、時間をかけて事実を検証する慎重さに欠けるということは、政治家として適任性がないということに他ならない。

この事件は琉球新報が県警と海兵隊を取材した結果、デマであることが立証されたため、産經新聞八重山日報、ヤフーニュースは正式に謝罪した。そして可哀想なことに、産經新聞の高木那覇支局長は、更迭されたのである。

しかし、だ。デマ製造の張本人、ボギー手登根はいまだにシレッとして謝罪しないばかりか、相変わらず「沖縄の声」のキャスターとしてデマを垂れ流し続けている。こんな人間の屑のような男と関係を持つ佐喜真県知事候補の人道的責任は重大なものがある。

絶対に県知事にしてはいけない人物だ。

 

玉城デニーこそ沖縄県知事にふさわしい稀有な人材である

選挙の第一声は母親の出身地である伊江島でやりたい。玉城デニー県知事候補の城山(いいじまたっちゅう)を背にした演説は、沖縄が歩んで来た苦難の歴史を象徴するような中身の濃いものになった。

米軍は銃剣とブルドーザーで小さな島伊江島から住民を追い払い、土地を収奪して基地をつくった。伊江島の住民は激しく抵抗し、やがて島ぐるみ闘争へと発展する。以後、伊江島の抵抗運動は全島に拡大し、米軍基地建設反対・島ぐるみ闘争の象徴となった。

その精神を引き継ぐ島ぐるみ会議が、今でも県内各地に存在する。玉城デニー氏の母親はその伊江島の出身である。父親は米軍人。玉城少年は父親の顔を知らないで育った。玉のように可愛らしい赤ちゃんの顔を見ることもなく、若い父親はそのまま米国へ帰ってしまったからだ。

米軍占領下の沖縄で、玉城氏と同じような境遇の人は数多い。幸いなことに、玉城少年は心優しい母親に恵まれた。康裕(本名)ちゃんを食べさせるため、日夜働く実の母親に代わって面倒を見てくれた育ての親がいた。玉城氏は自分には二人の母親がいると言う。そして、二人の母親に同じように感謝しているとも語った。

特別な運命を背負わされた一人の人間と、沖縄の過酷な歴史が伊江島で交差し、響きあう。玉城氏の内部で大きな物語が生まれた。それは時と共に熟成され整理されて、伊江島での選挙遊説第一声となって我々の前に姿を現したのである。この感動的な演説はユーチューブで見ることができるので、ぜひ多くの方に見てもらいたい。

玉城候補は、ほんとうに演説がうまい。国会での質疑を見て、彼の弁舌の爽やかさに注目して来たが、県知事候補となってさらに磨きがかかったように思われる。ただ上手いだけではない。沖縄の歴史、政治課題についてよく勉強している。それらのことを淀みなく語るためには、膨大な資料を読み込み、頭の中できれいに整理されていなければならない。

彼の演説を聞いて感動を覚えるのは、その並々ならぬ勉強・努力に裏打ちされた知性を感じるからだ。玉城候補は普段から資料を読み込み整理する作業を通して、巧みな話術に仕上げることのできる、歴代の沖縄県知事に見られない才能豊かな「語れる政治家」だ。

深い知識に裏付けられた明晰で論理的な話術を駆使する県知事候補は、沖縄にとって得難い至宝な人材となる。これからの沖縄にとって世界に向けて発信力のある知事は貴重であり、どうしても必要な人材と言える。玉城候補は、間違いなく我々の期待に応える才能を備えている。期待以上の才能と言うべきだろう。

伊江島から名護、宜野湾と南下して県庁前広場で演説した様子もユーチューブで見ることができる。これも非常に感動的な演説で、多くの人にぜひとも見てもらいたい。

〇違法工事の辺野古新基地建設は何があっても阻止する。〇普天間飛行場は即時閉鎖を求める。そのために安倍内閣と仲井真前知事が約束した5年以内(来年2月)の閉鎖・返還を実現させる

〇3000億円を超える国税を収めるまでになった県経済の実力を発揮させ、政府の補助金頼みの政策から脱却して、アジアのダイナミズムを取り入れて自立型経済を目指し、それで得た原資を県内で循環させて、沖縄の特徴ある優しいしなやかで強い社会を作っていく

〇万国津梁会議(仮名)を県庁内部ではなく、外局として設置し、各層から人材を集め自治体外交と共に沖縄県を世界に向けて発信する

〇子どもの貧困問題を社会全体の責任と捉え、出産から子育てまで切れ目のない安心システムを構築する

これらの政策から聞こえてくるのは、他力本願と真逆の自主性であり自発性である。遠い中央政府に頼るのではなく、自発的に自ら稼ぎに打って出る。この積極性が良い意味で沖縄の未来を開くのだ。「誇りある豊かさ」自立型経済に反対する経済人はいないだろう。

何を隠そう、ぼく自身が玉城氏の発想力に舌を巻き、多くのことを教えてもらっているのだ。ユーチューブで彼の演説を追いかけている自分がいる。

玉城デニーこそ沖縄県知事になって沖縄を引っ張ってもらいたい稀有な人材である。玉城氏に比べると、佐喜真候補はせいぜい市長止まりの、知事としては役不足の凡俗な人材に過ぎない。

4年前の圧倒的票差を超える圧倒的勝利で玉城デニー新知事を誕生させようではないか!

 

沖縄の自立的経済発展を目指す玉城デニー候補

玉城デニー県知事候補は10日に政策を発表した。その翌日11日に県政記者クラブによる討論会が開かれた。録画されたものが同日の午後7時半にNHKで公開されたので、多くの人が見たと思う。

沖縄青年会議所主催で行われた5日に続く2回目の討論会である。やはり候補者自身の口から語られる言葉は、文章化された言葉よりも生々しい。それだけに、発言された言葉にどれだけ誠意が込められているか、真実があるか、 聞き手は発言者の人間性を見ながら、政策を判断評価することになる。

生の討論は真剣勝負である。政策が問われるということは、知性が問われるということでもある。自身が掲げた政策を本人がどれだけ正確に認識しているか、質疑応答で明らかにされる。

基地問題と経済政策で、玉城氏と佐喜真氏とでは大きな違いがある。辺野古基地問題で玉城氏は、先日県が埋め立て承認を撤回したことを支持し、いかなることがあっても辺野古新基地を阻止すると改めて言明した。

対する佐喜真氏は、辺野古新基地に関しては賛成か反対か明確にせず、これまでの主張通り、ただ普天間飛行場の早期返還を繰り返すだけだった。これは誰が考えても明らかにおかしい。確かに宜野湾市長としての立場からすれば、それでよかったかも知れない。しかし、県知事の立場になれば果たしてどうか?

市長と県知事では権限に大きな違いがある。辺野古は名護市にあるため名護市長と違い、宜野湾市長としては新基地建設に対して賛否を明らかにしないからと言って、必ずしも厳しく糾弾されるいわれはないだろう。

しかし、知事は沖縄県全体を所管する立場にある。各市町村の首長に比べてより大きな権限と責任を背負う立場にある。ということは、宜野湾市にある普天間飛行場移設問題と名護市の辺野古基地問題に対してどのような立場に立つか、明確にしなければならない責任がある。

しかし、討論会での佐喜真氏の発言は、宜野湾市長時代と全く同じで、これでは県知事としての自覚に欠けるのではないか。佐喜真氏の発言をよく吟味すると、普天間飛行場の1日も早い返還とは、代案がない以上は辺野古以外にない、と言っているに等しいことがわかる。

そうであるなら、なぜ辺野古新基地に賛成であるとハッキリ言わないのか、どう考えても腑に落ちない。このようなあやふやな態度を、世間一般では卑怯というのだ。

普天間飛行場の1日も早い返還を望むなら、安倍内閣が仲井真前知事と約束した来年2月までの『普天間飛行場の閉鎖・返還』を安倍内閣に確実に実行するよう申し入れるべきではないか。玉城デニー候補は強く申し入れると明言している。

しかし、佐喜真淳候補からはその件に関する言及は一言もなかった。これで佐喜真氏の本音は辺野古移設にあることは間違いないことがわかる。そしてこの方向に佐喜真氏の経済政策がそのまま直線で繋がるのが明瞭に見て取れる。

「対立から対話へ」というのが佐喜真氏のキャッチフレーズのひとつになっている。これは何を意味するかというと、翁長県政は政府と対立したことで県の振興予算が大幅に削減された、だから対立ではなく対話することで政府から必要な振興予算を獲得する、これが知事の仕事だ、と佐喜真氏は述べた。

それでは政府と対話をするとは、どのような内容の意味を持つのだろうか?

辺野古新基地を容認するから、県が必要とする振興予算を確保してもらいたい。安倍内閣にそう申し入れる。これが佐喜真氏の言う「対立から対話へ」の意味であるのは明らかだろう。どの角度から検討してもそう考えざるを得ないのだ。

そして佐喜真氏の対話路線とは、可能な限り政府の言うことを受け入れる、ということに他ならない。佐喜真氏が所属する自民党が政権党だから、当然といえば当然のことではある。では、県のお金の問題、沖縄関係予算について少し振り返ってみたい。

ぼくの手元に大田県政、稲嶺県政、仲井真県政、翁長県政に至る「沖縄関係予算の推移」に関するデータがある。これを見ると、時の政権と県政の対立乃至協調関係が、必ずしもそのまま予算に反映されたと判断するにはちょっと無理があるように思われるのだ。

大田県政=最少額3141億円(95年)最高額3524億円(94年)稲嶺県政=最少額2720億円(06年)最高額3490億円(01年)仲井真県政=最少額2298億円(10年)最高額3501億円(14年)翁長県政=最少額3010億円(18年)最高額3350億円(16年)

これらの数字から、政権と県政の関係の善し悪しのレベルで金額の増減を判断するのは非常に困難であることが分かる。

大田県政の時代、知事の代理署名拒否があり、村山内閣と大田県政は決して良好な関係とはいえなかった。しかし、94年から98年にかけて沖縄関係予算は3千億円台を維持していたのである。

稲嶺県政を見ると、05年から06年は2843億円と2720億円で、3000億円台を割り込んでいる。05年は小泉内閣の時で、06年は第1次安倍内閣であった。稲嶺県政は自民党が擁立した政権であり、稲嶺県政の8年間はずっと自民党政権だったから、政府と県政の関係が特別悪かったわけではない。それでも3000億円を割り込んだのである。

仲井真県政は07年の発足時から12年までずっと2000億円台が続いた。仲井真県政も自民党が擁立した政権だったことを考えると、大田県政時と比較して何故1000億円近く少なくなったのか理解に苦しむ。政府と県政の関係の善し悪しだけで判断できないことがよく分かる。

そして安倍内閣の時、公約を破棄して辺野古容認と引き換えに10年先まで3000億円台の予算を約束してもらい、13年度3001億円、14年度3501億円を計上した。

そして翁長県政。15年度3340億円、16年度3350億円、17年度3150億円、18年度3010億円、19年度3190億円(予定)。

以上、沖縄関係予算の推移を検証して考えられることは、政府と県政の関係の善し悪しだけで予算額が決まるとするのはあまりにも単純だと言えそうだが、ただし例外が存在する。それは安倍内閣である。

安倍内閣になってから、内閣の言うことを聞けば予算を増額する現象が見られるようになった。辺野古移設の容認と引き換えに10年先まで3000億円台を確保することを仲井真知事と約束したのである。

しかし、奇妙なことに、この約束の履行は、辺野古移設に反対した翁長県政にも引き継がれている。ただし毎年度減額されてきたが、一転して19年度は180億円増になっている。嫌がらせのために減額したのかどうかは判断が難しい。

安倍内閣の性格からして、そう考えて少しも不思議ではないが、はっきりしていることは3000億円台を割り込むところまで減額するのは不可能だろう、と言うことだ。

なぜなら安倍内閣は、10年先の24年度まで3000億円台を約束したからだ。勿論、内閣が約束を守ると仮定しての上だが。

このように考えてくると、県予算を獲得する目的で「対立から対話へ」と言う佐喜真氏の提言は、あまり意味をなさないのではないか。

意味をなさないばかりか、対話を拒否しているのは県政ではなく、実は内閣であるという事実は、今までの経過ではっきりしているので、「対立から対話へ」という提言自体矛盾しているのだ。むしろ「対立から対話へ」という言葉には、あたかも県政が一方的に悪いという響きがあり、危険でさへある。

佐喜真候補は馬力はありそうだが、どうも知性的ではない。自分が言っていることの矛盾に気がつかない。昨日の討論会を見て、強くそう感じた。

その点、玉城候補の考え方は健全であり正論である。彼はどう述べたか。県の振興予算を決めるのに、基地問題とリンクさせるやり方は明らかに地方自治の精神に反する。地方が伸びていくのを押さえつけるようにして、辺野古移設を容認しないなら予算を減額するというのは、政権にある者としてやってはならないことである。これでは民主主義が成り立たない。

佐喜真候補と玉城候補。どちらの主張が正しいか。誰が見ても玉城候補だろう。佐喜真候補と玉城候補とでは知的水準に大きな差がある。佐喜真候補は物の捉え方が大雑把であり、玉城候補は緻密で論理的だ。

これだけでも誰が県知事としてふさわしいか、歴然ではないか。

両者は発想力にも大きな差がある。佐喜真候補が県予算獲得を重視するのに対し、玉城候補は自立型経済を提言した。自立型経済とは、県予算を政府に頼るのではなく、アジアの成長を沖縄に呼び込み、自ら稼ぐ仕組みを構築して県を豊かにしていく。これが「誇りある豊かさ」となる。

翁長知事が「埋立承認撤回」の手続きを県職員に表明した時の記者会見で述べた「アジアが沖縄を離さない」という言葉に直結する発想である。

自立型経済!

県知事候補からこの言葉が力強く語られる時代が、我が沖縄にようやくやって来た。日本列島における我が沖縄の地政学的有利性が活かされる状況になっている。その大きな可能性に玉城候補は気づいている。沖縄の経済人で自立型経済に異を唱える人は一人もいない。

それほどこの言葉は我々の心に響き我々ウチナーンチュを奮い立たたせて止まないのだ。かつて琉球王国は中継貿易で繁栄した時代があった。自立型経済という言葉には、かつての黄金時代を彷彿とさせる響きがある。

全国民から集められた政府の予算に頼るのではなく、自立型経済を確立して沖縄を豊かにする。沖縄は現在、3000億円の国税を収めるまでの力を持つまでに至った。沖縄を日本経済の牽引役に引き上げる、と言った玉城候補の発言は決して大袈裟ではない。時代状況がそこまで来ているのだ。

政府の予算をあてにする、もうそんな時代ではないのだ。佐喜真候補は玉城候補より若いにもかかわらず、頭の中は旧態依然のままだ。政府からあてがわれる予算をあてにして、いくら大風呂敷を広げたところで行き着く先は奴隷根性に過ぎない。

発想力のない人間がいくら夢を語ろうが人々の心を動かすことはない。現実を見据えて新しい発想で現実を乗り越える構想が語られる時、人々の瞳が輝く。

佐喜真候補の旧態依然の政策に乗るか、玉城候補の新時代を告げる政策に乗るか。有権者が乗るべき政策は明らかだろう。

 

ノーム・チョムスキー氏はじめ世界の知性は辺野古新基地に反対している

世界的に著名なノーム・チョムスキーオリバー・ストーン、ジョン・ダワー各氏をはじめとして、世界の文化人・知識人・活動家133人が『辺野古承認撤回を支持する声明』を発表した。今朝の琉球新報がその全文を掲載しているので、その中から2箇所だけ引用したい。

<今回の声明は4年前の声明および、その後2015年の1月と8月に行った声明の形態に倣うもので、2014年声明に賛同した著名者を多く含んでいる。私たちが当時、懸念していた状況は良くなるどころか悪化しているので、今再び私たちは声を上げる。日米の専門家は、軍事戦略的にも、計画されている新基地の機能が存在する場所は沖縄でなければいけないということはないと言っている。(もしそのような機能の必要性があればの話だ。多くの人はそれにも疑問を呈している)。

政府が沖縄に固執する主な理由は、県外にそのような基地を造るのは「政治的に不可能」だと思っているからなのである。>

軍事戦略的必然性からではなく「政治的に不可能」だから沖縄に造るのだ、と安倍首相もつい本音を漏らした。つまり本土では反対が強いから沖縄に造らざるを得ないと言ったのだ。安倍首相の本音は沖縄差別そのものではないか!世界の知性はこの辺の事情をよく見ている。

<2012年2月、沖縄県環境影響評価審査会は前年末に提出された政府の環境影響評価書に対し、150もの「環境保全上問題」となる点を指摘した。それを受けて当時の仲井真弘多知事は、政府に対し「評価書で示された措置では生活、自然環境の保全を図ることは不可能」と意見した。しかし、仲井真前知事は2010年の知事選で普天間飛行場の「県外移設」を求めるとして当選していたにもかかわらず、2013年12月、東京の病院に身を隠している間に国の重圧に屈し、沖縄県民の圧倒的な反対の中、埋め立てを承認した。>

人の良い仲井真前知事が、アメとムチを使い分ける安倍・菅コンビの圧力に屈した時から沖縄の苦悩が始まったのだ。人間は誰でも物事に反対はしたくない。できるだけ協調したい。反対が長期に及ぶと人々は次第に疲労し、意志がくじけそうになる。

政府はうまくそこを見計らってアメとムチで落とし込む。政府と沖縄県基地問題で対立するとき、同じような光景を我々は繰り返しなんども見てきた。いや、見せられてきた。それでも先人達は、歯を食いしばって、圧力に抵抗して歴史を、我々の社会を少しづつ前進させてきたのだ。

辺野古基地問題もそうである。反対疲れのなかで、名護市長選挙は実質的には推進派の渡具知氏が当選した。経済政策を前面に打ち出し、基地問題の争点化を避ける卑怯な戦術が、名護市民の眼を曇らせたのである。13日告示の県知事選挙においても、政府が同じ戦術を踏襲するのはあきらかだ。

佐喜真候補は、新基地については反対か容認か明言しない。そして経済政策では大風呂敷を広げて名護市長選同様、県民の眼を曇らせる戦術を取るだろう。

しかし、予断は許さないとは言え、あきらかに状況は変わってきている。辺野古新基地はあまりにも多くの問題を抱えすぎて、建設は不可能であることが明確になったのだ。

仲井真前知事が埋め立てを承認して、工事が始まって以降、それまではあきらかでなかった新データが次々と出てきたのである。C護岸真下の軟弱地盤、活断層の存在、高度制限を超える建造物、土地の存在。そして米政府機関による、新基地の機能不適格性の指摘。

これらの新しい情報が承認前に出てきていたら、仲井真前知事は、はたして承認する勇気があっただろうか?仲井真前知事と雖も、さすがに承認はしなかっただろうと思うが、県2紙には是非その点を取材して欲しいものだ。

辺野古新基地は道義上も、設計上も建設不可能であることは、世界の知識人達の知るところとなった。海外識者133人による今回の『辺野古承認撤回を支持する声明』はいみじくもその事実を世界に発信することとなった。

安倍内閣は自らの失政を潔く認めて、一日も早く辺野古新基地断念の声明を出すべきだろう。

 

初討論会は玉城デニー候補の勝利!しかし、油断は禁物だ

昨日、佐喜真淳候補と玉城デニー候補の初めての公開討論会が行われた。主催者は日本青年会議所沖縄ブロック協議会。場所は南風原町立中央公民館。

今朝の新報の報道で知り、早速動画はないか調べたらあった。しかし残念なことに音声が悪い。映像の写りも良くない。それでも時間の経過とともに聴覚が慣れてきて、何とか聞き取ることができた。

時間は約2時間。最後まで聞いた。感想を一言でいうと、玉城デニー候補の圧勝である。

その落ち着きぶり、弁舌の爽やかさ、明快な論理性。思考の柔軟性。ソフトなイメージだが、ブレない強さ。そして政治的課題についてよく勉強している。決定的なのは彼の郷土を愛する気持ちは本物だということである。

討論の最後で、両候補に与えられた5分間で有権者に訴える場面。玉城候補は、一番大事にしたいことは「沖縄はイデオロギーよりもアイデンティティ」と言った翁長知事の言葉であると述べ、その重要性を強調してスピーチの最後で「にふぇーでーびぃーたん(ありがとうございました)」と言って聴衆に向かって深々と頭を下げたのである。

一方の佐喜真候補は、声こそ大きいが論理に緻密さがなく大雑把であり、先日発表した大風呂敷の政策を裏付けするような内容であった。グローバルにダイナミックに、という言葉を連発するが、少しも聞き手の心に響くものがない。

政治家にとって言葉は一番大事なものだ。特に「語る言葉」は政治家の命と言っても過言ではない。文章化された政策や、新聞に載る政治家の発言では知ることのできない本音が、ぽろっと出たりするのを見ることができるのは、はやはり生の討論会ならではである。

昨日の公開討論会を見て、多くの聴衆は玉城候補に軍配をあげたのではないか。ぼくの判定は玉城候補の圧勝であった。

当初、佐喜真候補の選挙事務所は、地元メディアによる討論会を拒否し、青年会議所主催の討論会なら出る旨の発言をしていた。佐喜真候補の希望が実現したのだから、今後は是非地元メディア主催の討論会も快諾して欲しいものだ。

正々堂々と有権者の前で議論を闘わせる。そして誰の主張が正しいか、有権者に判断してもらう。民主主義社会では当然のことである。昨日の討論で劣勢に立たされたのを苦にせずに、佐喜真候補は勇気を持って、次回の討論会を受けて立つべきである。

さて、討論で圧倒したとはいえ、玉城陣営は決して油断してはならないだろう。各種世論調査で玉城候補有利と出ているらしいが、少しの気の緩み楽観視が逆転を許してしまうのは、選挙では良くあることだからだ。

今年2月の名護市長選がそうだった。大方の予想は現職の稲嶺市長有利だった。しかし蓋を開けたら大差の逆転負けだった。選挙戦術に長けた自民党はあらゆる手を使って襲ってくる。自公連立を侮ってはならない。前回自主投票だった公明党は佐喜真候補を推薦する。下地幹郎の維新の会も佐喜真陣営に加わった。

そして滑稽にも希望の党が支援することになった。希望の党?まだ存在していたんだ!中山恭子さんもよほど政治運のないお方だ。日本のこころという奇妙な政党がなくなったと思ったらゾンビのように希望の党に在籍しているとは。

少し脇道にそれるが、中山恭子さんが日本のこころの党首だった時、あのデマ常習犯・ボギー手登根が参議院選挙で、日本のこころから九州・沖縄ブロックの比例代表で出馬したことがあった。

当然落選したが、あの出来事は中山恭子さんという方がいかに人を見る目がないか、如実に証明することになったのである。いくらなんでもデマ常習犯・ボギー手登根を参議院選挙に担ぎ出すとは。

余計なことかもしれませんが、中山恭子さん、政界を引退なさったらいかがでしょうか。ぼくはあなたの人柄をどうこう言うつもりはありませんが、蚊のように小さいお声は有権者の耳に届きません。

「語る言葉」は政治家の命です。蚊のような小さい声は政治家に向いておりません。この人何か悪いことでも隠しているんじゃないかしら、と勘ぐってしまうのです。はやく引退なさって日本の文化の向上のために力を尽くしてもらいたいものです。これからはゆめゆめ、ボギー手登根のような精神の薄汚い男を相手にしてはいけません。

話を元に戻すと、独裁体質の強い安倍政権を決して侮ってはならない。しかし勿論、少しも恐れる必要はないが、トップが米国追従の頭の悪いお坊ちゃんだから、下々の連中が何をしでかすか最大限警戒する必要があるだろう。

今回の知事選を落としたら、安倍・菅コンビのプライドに深い傷がつく。ただそれだけの理由で、我が国の安全保障上の確たる信念もない安倍・菅コンビはなりふり構わず牙を剥いて襲いかかってくる。

彼らに対抗するための手段は、辺野古新基地がいかに理念なき不条理の論理に立っているか、怯まずブレずに正論を主張し訴え続けることである。そして針の穴ほども楽観ムードがあってはならない。

 

デマ常習犯ボギー手登根と佐喜真候補の親近性

佐喜真候補が知事選に向けて政策を発表した。歯の浮くような良いことづくめの政策をずらっと並べてある。

よくもこれだけの大風呂敷を広げることが出来たものだ。玉城デニー候補は、まだ政策発表はしていないが、経済振興策・福祉政策・その他において両候補にそれほど大きな違いがあるとは思えない。

県民の生活向上を目指すのは政治家として、当然の義務と言えるからである。しかし、佐喜真候補の財政の裏付けのない大風呂敷は有権者の心を誘惑するためだけのものであるのは、見え透いている。

賢明な有権者は、こんな子供っぽい大風呂敷に、どんなことがあっても惑わされてはいけない。両候補に経済振興・福祉政策・その他にそれほど大きな違いはないと思われるが、肝心なことは現実を見据えて、実現可能性を追求する誠実な対応が求められるということではないか。

佐喜真候補が広げた財政の裏付けのない大風呂敷は、可能なら全て実現して欲しいところだが、恐らく半分も達成されないだろう。その目指す規模を別にして、経済振興・福祉政策・その他に両候補の違いは、それほどないだろう。とすれば、両候補の政策の違いはいったい何だろうか?

言うまでもなく、米軍基地問題である。現時点においては、普天間飛行場移設と辺野古基地問題が、両候補にとって、最大の争点となるのは明らかだ。

この問題に対する玉城候補の主張は明快である。2019年2月までの普天間飛行場の閉鎖(仲井真前知事と安倍内閣が約束して閣議決定した)と、辺野古新基地阻止である。

対する佐喜真候補は、普天間飛行場の1日も早い返還を言うだけで、辺野古新基地に対しては、態度を明確にしていない。昨日の政策発表の場で、記者の質問に次のように答えている。

ー 政策で辺野古に1行も触れていない。県民を二分する大きな争点だ。

「先般、県が(埋立承認を)撤回した。政府と県の法廷闘争も考えられており、法的にどうなるかを注視する。現在はこのスタンスでいきたい。ただし最も重要なのは普天間の固定化は避けなければならないということだ。1日も早い返還が原点だ。」

一見最もらしい見解のように思われるが、その間接的遠回しの言い方に惑わされてはいけない。自民党特有のオブスキュランティズム(非明晰性)に用心する必要がある。

彼の見解を注意深く考察すると、辺野古新基地建設は容認せざるを得ないと言っているようにしか聞こえない。「法的にどうなるかを注視する」ということは、自分は責任ある当事者から身を引く、ということであり、最高裁の判決が下る迄、静観すると言っているのだ。

容認すると明言しないで、静観者を装うその姿勢は卑怯であるばかりか、県知事候補者としての資格があるかどうかさへ疑われる。いったい辺野古はどこにあるのだ? 山口県か、北海道か?

沖縄県知事を目指す人間が、沖縄に駐留する米軍の辺野古新基地に対して、第三者的立場をとることが、果たして許されるものだろうか?

佐喜真氏の態度は卑怯であり、無責任である。沖縄県知事に不適格である。容認するなら容認するとはっきり言えば良いじゃないか。

その点、公約を破ったとは言え、容認すると明言した仲井真前知事のほうが、佐喜真氏よりも立派だったと言える。容認すると断言したことで、仲井真前知事は泥を被る覚悟を決めたからだ。

佐喜真氏の真意ははっきりしている。容認すると言えば、選挙戦に不利になると計算しているのだ。だから意図的に辺野古問題をぼかして、経済振興策の大風呂敷を広げてみせる。多くの県民はそのいかがわしい節操のなさをとっくにお見通しだよ。

佐喜真氏が節操のない性格なのは、あのデマ常習犯・ボギー手登根(手登根安則)との親近性を見るとはっきりする。佐喜真氏はボギー手登根のネット番組に出演したことがある。

それだけではない。宜野湾市長時代、社会を大混乱に陥れた恥ずべきデマ事件に、まんまとのっかったのである。その恥ずべきデマ事件とは、ボギー手登根が発信したデマを元にして、産經新聞の高木那覇支局長(当時)が記事にし、マスメディアに拡散させ、産經新聞、産経ニュース、八重山日報、ヤフーニュース、在沖海兵隊自衛隊、その他大勢の人々が騙された一大疑獄デマ事件である。

地元紙でありながら(デマの元になった)事故を、なぜ報道しないと非難された琉球新報の慎重な調査により、デマであることが確定したため、記事を書いた高木支局長は責任を負わされて更迭された。報道した新聞各社・ニュースサイトも正式に謝罪するという大掛かりなデマ事件であった。

多重衝突事故に巻き込まれて意識不明の重体に陥ったトルヒーヨ海兵隊曹長をダシに使って練り上げたボギー手登根の恥ずべきデマ。

そのデマに乗って、トルヒーヨ曹長の回復を祈る英文が書かれたTシャツをかざす佐喜真宜野湾市長の頓馬な姿を、我々はネットで見ることができる。何という節操のなさ!

しかも、祈るという英単語が餌を意味する英単語になっているというおまけまで付いているのだから呆れてしまう。デマを練り上げて拡散することに人生の価値と喜びを見出すボギー手登根。

嘘の塊のようなこの不実で薄気味悪いボギー手登根のデマに、いとも簡単に騙される佐喜真淳なる人物に沖縄県知事の職務を任せてはならない。彼には人を見る目がないのだ。

彼は子育て・教育支援政策で「子育て・教育王国おきなわ」を実現すると謳っているが、ネトウヨの子供が育ってはそれこそたまらない。巧言令色鮮し仁。くわばらくわばら。

 

公開討論から逃げる佐喜真淳県知事候補

佐喜真県知事候補は、マスコミ各社が個別に主催する討論会や対論番組に一切出席・出演しないことに決めたらしい。その理由がいかにもこの人の節操のない性格を表している。

「異例の超短期のため日程がつかない」

ということらしいが、こんな理由で候補者が討論会を拒否することが、はたして正当化されるのだろうか? 明らかにノーである。なぜならば、選挙は各立候補者がどのような政策を掲げているかを見極めた上で、誰に投票するかを有権者は判断するのであり、そのために各立候補者が自らの政策を有権者に訴えるのは当然のことだからだ。

政策を表明するだけなら、文書で十分だという主張もあるが、文書に書かれた公約が本物かどうか、有権者が判断するのはなかなか困難である。大概、政策・公約を羅列した文書・チラシ類は、歯の浮くようないいことばかりが書かれているからだ。

そのように考えると、政策・公約が本物かどうか判断するための手段として、候補者同士が有権者の前で、直接議論をぶつけ合う姿を見せるのが最良の手段と言えるだろう。

政治家は文学者とは違う。言葉を操る点で同類と呼べるほど似通っているが、言葉に与える価値観が大きく異なる。政治家の言葉は実用的・実際的なものであるのに対して、文学者の言葉は芸術的であり非日常的である。

文学者は一人書斎で言葉を紡ぐ。良い作品を生産するために孤独になる必要がある。しかし、政治家は全く異なる。彼は大衆に直接語らなければならない。自分の考えを多くの有権者に訴えて理解してもらう必要がある。

政治家の言葉は本質的に「語る言葉」なのだ。だから政治家の本領は語る技術を駆使して聴衆を魅了することにある。語る側と聞く側の真剣勝負がそこで展開される。聴衆は政治家の口から語られる言葉が偽物か本物か独自に判断する。偽物と判定されたら政治家の負けだ。

公開討論会は、立候補者同士が議論を闘わせることで、語られる言葉が本物か偽物かが浮き彫りにされる舞台である。自身の政策・公約に自信があれば、進んで公開討論会に臨むだろう。

しかし、佐喜真候補は拒否した。自信のない証拠だ。今回の知事選の日程が超短期なのは、玉城デニー候補にとっても同じことである。同じ条件であるにもかかわらず、超短期日程を理由に公開討論を拒否するのは卑怯である。これだけでも佐喜真候補は知事にふさわしくない人間であることがわかる