沖縄よ! 群星むりぶし日記

沖縄を、日本を、そして掛け替えのない惑星・地球を愛する者として発信していきます。

乗松聡子の眼は節穴だ

今朝の琉球新報乗松聡子のコラムが掲載されている。今回は15回目で「天皇のタブー視・民主主義と両立しない」とのタイトル名で論じている。

正直、読んで驚いた。特定の頑ななイデオロギーに毒されているとしか思われない論調である。あまりにも酷い内容であるため、座視することができず批判を試みたい。

実は、ぼくは昨年の12月4日の当ブログで乗松氏を批判したことがあった。11回目の同コラムで乗松氏は南京大虐殺を歴史的事実として肯定し、人類史上最も残酷なジェノサイドと断定した。そして南京城が陥落した12月13日を「南京大虐殺を記念する日」と制定する法案をカナダ・オンタリオ州議会が審議していることを報告し、審議に反対する人々を歴史否定主義者たちと断罪したのである。

だからぼくは乗松氏の主張を容認できない立場から批判したのだが、今回のコラムを読んで、乗松聡子は偏見イデオロギーの染み付いたどうしようもない人物だと、改めて認識したのである。さて気がひけるが、平等を期す意味で、まずは乗松氏の全文を掲載することにする。

≪ 今の日本を見ていると、メディアを含む社会全体での「天皇のタブー視」が根強いことがわかる。皇室の人については特別な敬語を使用して区別する。天皇皇后についてはやる事なす事、全てを有り難がる報道ばかりで、批判は一切許されない雰囲気がある。

外国の客相手には、握手するなど、普通の人間同士として接するのに、相手が日本人の場合はそれが許されないような二重基準がある。主権者の市民に会うときも、「一般参賀」のように高い所から手を振っている。

「陛下」という敬称も、「陛」という字が「宮殿の階段」を意味し、身分の上下を強調した言い方であるが、それが問題視されることはない。日本国憲法で保障される「法の下の平等」は度外視した扱いのように見える。

「男女平等」も、男系の世襲を定めている皇室では例外であり、この制度が日本の女性の自尊心に与えている負の影響は測りしれないと思っている。これらの、大日本帝国憲法下の日本と変わらぬような神聖視およびタブー化は、戦後憲法主権在民の精神に反している。

実際、明仁・美智子夫妻がいく先々にはその「タブーの空気」のようなものが一緒について回り、その周りでは異論が許されなくなる。政府はこの傾向を最大限に利用しているように見える。

今回、夫妻の最後の沖縄訪問ということだが、3月27日、28日というタイミングは、象徴的にも実利的にも政府に都合のよいものであった。27日は、1879年の「琉球処分」=天皇を中心とする日本国家に琉球が強制併合された139周年であった。1945年、「皇国」を守るために沖縄が犠牲にされた沖縄戦慶良間諸島で始まり、天皇の名の下に多くの住民が集団死を強要された時期とも重なった。

これ自体が残酷なことであったが、それに加え、今政府が推し進めている現代の日本軍=自衛隊の役割強化と、南西諸島への配備が加速する中での来沖であった。27日には、全国の陸上部隊の指揮統制を一本化する「陸上総隊」を新設、「島嶼防衛」のための「水陸機動団」が発足した。28日、与那国訪問の日は、小さな島の住民を分断した陸自配備の2周年の日であった。

日本の最西端、つまり台湾や中国に手が届きそうな場所にまで「天皇のタブー」の空気で包み込むことによって、沖縄戦以来の琉球弧全体の要塞下を丸ごと飲み込ませるという目論見があったのではないか。

明仁・美智子夫妻については、「平和への想い」や「沖縄を思う気持ち」が「本物」であるといった称賛の声が多く聞こえるが、天皇個人の人柄にばかり注目することで、制度自体の問題に向き合うことを避け、タブーを強化してはいないか。

何よりも、天皇が「本物」かどうかよりも、天皇に向き合う自分たちが「主権者」として「本物」なのかどうか問うべきではないか。政府による「天皇タブー」の利用に簡単に乗せられてしまうのではなく、誰の下でもない上でもない個人として自由で主体的な思考や意見表明をしているか、ということである。

天皇タブー視と民主主義は両立できない。タブーは打ち破らないといけない。≫

以上が乗松聡子の天皇論だが、当ブログの読者はどのような感想を抱いただろうか。ぼくの感想を一言で述べるなら、乗松氏は天皇陛下及び皇室を一般国民の地位に引き摺り下ろす願望を抱いている、ということである。そして皇室の廃止を願っているとしか思われない。乗松氏の主張は、かつての極左過激集団、革マル派中核派の主張とほとんど変わらない。

中国共産党も皇室の弱体化・廃止を目論んでいる。乗松氏の思想の根底にはコミンテルン共産主義の影響があると見てよい。日本の歴史と伝統を否定し、民主主義の名の下に平等という抽象概念を持ち出す、彼らの得意技だ。

平等という言葉は聞こえは良いが、油断すると大きな落とし穴に落ち込む危険性がある。何故ならば、人間の社会において平等という言葉で囲い込むことの出来る範囲は、具体的に考えると極めて限定されるからである。経済的に豊かで社会が安定した国で暮らす人々と、社会が不安定でその日の食事にも事欠くような国で生活せざるを得ない人々が平等だと言えるだろうか?

豊かで安定した国で暮らす人々を比較考慮しても、なかなか平等と呼べるような局面は少ない。例えばある家族の父親は会社の社長であり、隣に住む家族は母子家庭だ。社長の家族には子供が三人いるが、十八歳になる長男は病弱で長期間、学校を休んでいる。次女は大変な才女で、毎年全校で一、二を争う成績を維持している。そして中学生の次男坊は、街では有名な不良で父親に反抗的でいつも家族に迷惑をかけている。

どこにでも見られるような社会のほんの一コマだが、一体どこに平等が存在するだろうか?

<「陛下」という敬称も、「陛」という字が「宮殿の階段」を意味し、身分の上下を強調した言い方であるが、それが問題視されることはない。日本国憲法で保障される「法の下の平等」は度外視した扱いのように見える。>

乗松氏は、「陛下」という敬称は日本国憲法で保障される「法の下の平等」を度外視していると言うが、日本は立憲君主国家であることがわからないのだろうか?

英国、オランダ、スウェーデン、スペイン、デンマーク、ベルギー等と同じ立憲君主国家。

つまり簡単に言うと、憲法の規定のもとに君主(天皇、王様)が存在する国家、これが立憲君主国家である。日本国憲法は、第1章で天皇について規定している。その限りにおいて天皇は「法の下の平等」を具現化しているのである。

憲法の規定に疑義を挟む乗松氏は、一体何が言いたいのだろうか?憲法の規定が間違っていると思うのなら、憲法改正を主張すればよい。しかし、乗松氏から憲法改正の声を聞くことはない。

<「男女平等」も、男系の世襲を定めている皇室では例外であり、この制度が日本の女性の自尊心に与えている負の影響は測りしれないと思っている。これらの、大日本帝国憲法下の日本と変わらぬような神聖視およびタブー化は、戦後憲法主権在民の精神に反している。>

乗松氏の言う「男女平等」とはいったいいかなるものだろうか?男も女も同じ服装をし、同じ髪型で振る舞いも声の調子も同じにせよ、と言うような意味なのだろうか?もしそうだとすれば、滑稽を通り越してグロテスクな社会が出現することだろう。

男と女は違って当たり前。平等である必要はない。調和という自然の大法則に従うだけでよい。いうまでもないことだが、表向き男性の方が女性より強いように見えるが、実際は女性の方が強いのだ。天皇陛下皇后陛下が仲むつまじく寄り添って歩くお姿を見れば、男女平等とはこういうことか、ということが良くわかる。

皇后陛下天皇陛下の左後ろに寄り添い、陛下の左腕を両手で軽く抱くようにして歩かれる。そして時折、陛下の耳元に何か呟かれる。その時の天皇陛下の和やかな顔の表情は、見る者の心を至福に満たしてくれるのではないだろうか。少なくともぼくはそうだ。思わず微笑んでいる自分に気づくのだ。

真の男女平等というのは、ハーモニーではないだろうか。天皇皇后両陛下が寄り添って歩くお姿を拝見する度に、ぼくはそう思うのだ。そしてハーモニーを奏でることは、そう簡単なことではない。

「男女平等」という言葉を使えば了解されるようなそんな軽いものではない。身を正すための絶えざる修練、精神をまっすぐに整えるための厳しい日々の鍛錬なくしては到達できないような「なにごとか」なのだ。言葉ではうまく表現できないが、両陛下の仕草から感じ取る他ない「なにごとか」なのだ。

< 実際、明仁・美智子夫妻がいく先々にはその「タブーの空気」のようなものが一緒について回り、その周りでは異論が許されなくなる。政府はこの傾向を最大限に利用しているように見える。>

「タブーの空気」のようなものが異論を許さない、とはどういう意味だろうか?何故、両陛下を歓迎している場で、あえて異論を唱える必要があるのだろうか?乗松氏に異論があるなら堂々といえばよいではないか。沖縄が祖国復帰した年の7月、ひめゆりの塔で御献花される明仁皇太子・皇太后両陛下に対して火炎瓶が投げられ炎上する事件があった。左翼過激派による犯行であった。まさしく乗松氏の言う異論を行動に移したのだった。

皮肉なことに、この事件は「タブーの空気」など存在しないことを証明したのである。その後、陛下は天皇に即位されてからも沖縄を何度も訪れている。その真摯で誠実な姿勢が沖縄の人々の蟠りを少しづつ溶かしていったのである。両陛下を歓迎する人々は何も異論を唱える必要を感じないだけである。

もともと存在しない「タブーの空気」を政府が利用できるわけがない。乗松氏の独りよがりに過ぎない。

< 何よりも、天皇が「本物」かどうかよりも、天皇に向き合う自分たちが「主権者」として「本物」なのかどうか問うべきではないか。政府による「天皇タブー」の利用に簡単に乗せられてしまうのではなく、誰の下でもない上でもない個人として自由で主体的な思考や意見表明をしているか、ということである。
天皇タブー視と民主主義は両立できない。タブーは打ち破らないといけない。>

天皇皇后両陛下を貶めた乗松氏は、ついに国民に向かって、天皇に向き合う自分たちが「主権者」として「本物」なのかどうか問うべきではないかと非難の刃を向けてきた。奇妙な思考傾向を持つお人だ。

ぼくが皇室を尊崇の気持ちで敬愛するのは、政府による洗脳によるものではない。全く「 個人として自由で主体的な思考」で意見表明をしている。

実は、若い頃、ぼくは日本は戦争に負けたのに何故天皇は国民に人気があるのか、不思議に思っていた。ウチナーンチュなら多くの人が持つに違いない標準的な疑問。長い間その疑問から抜け出ることができなかった。ところが40代後半にふと閃いたのである。

日本の歴史で天皇自ら人民を殺戮する命令を下したことはない。青天の霹靂であった。この考えをぼくはどの文献でも読んだことがない。まさしく自分の頭で考え出した独自の思惟である。これでやっと長い間悩んだ疑問が氷解した。皇室の歴史において、血で血を争う事件は皇位継承という上部階層での権力闘争に限定される。天皇の権威を持って、人民を直接殺戮、ないしは命令を下した史実は存在しない。そう考えた時、皇室に対する意識が大きく変化した。

浅学ではあるが、調べれば調べるほど、皇室に対する敬愛と畏怖の念は強まるばかりである。緩やかな探求の過程で、神道に出会い、日本文化の素晴らしさを発見し、日本国は我が祖国なりと断言できるまでになったのである。

しかし、ぼくは一部の右翼のような皇室の狂的信者ではない。いかなる組織にも属さない、一生活人として、日本の本来ある文化、皇室を敬愛するのである。

皇室は国民の鏡である。曇りのない鏡を見て、我が身を正す。それだけの力を皇室は持っておられる。歴代天皇が国民を敵に回したことは一度もない。皇室にとって、国民は共に生きる国の宝であり、だからこそ国民の安寧を日々祈るのである。国民はそれを知っているから皇室を敬うのだ。

社会はもともと不平等でできている。これはどうすることもできない歴然たる現実だ。不平等を正常な形にするのは平等という抽象的概念ではない。徳を身につけた人間だけが不平等を正常にし、社会をすみよい環境にすることができる。いつの世になっても不平等が世の中から消えることは絶対にありえない。もともと存在する不平等状態を人間が暮らしやすいように変えていくこと。不完全な人間にできることはそのくらいのことである。

徳を身につけた人間が多ければ多いほど、社会は豊かになり安定する。皇室は徳に輝いている。我々国民が模範とすべき御存在である。燦然と輝く皇室は世界の奇跡であり、日本の宝である。

そして打ち破られるべきは、ありもしない天皇タブーなどではなく、乗松聡子の節穴の眼に映る悪しきイデオロギーに彩られた、この世に存在しない空虚なる風景である。

 

 

裏切られた自由

昨年、フーヴァー元米大統領の著作『Freedom Betrayed』の邦訳版が出そうだ、と保守言論人の間で話題になったことがあった。先の日米戦争の責任はルーズベルト大統領にあるとする内容の本で、長期間、米政府の圧力がかかり、禁断の書として公にされることのなかった話題の書である。

それがおよそ半世紀ぶりに2011年に出版された。そしてやっと邦訳版が出るという。できるだけ原書で読みたいと思い、amazonを覗いてみた。高額だ。5700円もする。大いに迷って保留することにした。そのうち安い中古本が出るかもしれないと、我ながら卑しい気持ちで待つことにした。

待つこと約半年、原書の中古本は出ず、ついに邦訳版が出版された。原書は一冊本だが、邦訳版は上・下二冊本になっている。ところがびっくり仰天、値段が高すぎるのだ。上巻が9500円。下巻も9500円 !? 眼の玉が飛び出そうになった。これだと英文が多少読める人間は原書を購入するに決まっている。

敢えて悪意に解釈すると、英文の読めない人を馬鹿にした値段の付け方ではないか。高額の邦訳版に抗議すべく、原書を注文することにした。5700円は大変な出費だが、いずれ購入する書物だと思えば気持ちもお落ち着く。英文が多少読める優越感に浸りたい気持ちが無きにしにあらず。

注文して3日目の今日届いた。速すぎる。中古の仏仏辞典は注文して2週間経ってもまだ届かず、業者に苦情のメールを送ったばかりだというのに。amazon独特の段ボール箱を開ける。予想を超える大冊本である。優に900ページある。さすがに興奮する。さていつから読み始めようか。そしていつ迄に読み終えることができるだろうか?読みたい書物は山ほど積まれているというのに。

さて、話を最初に戻すと、歴史は勝者の歴史だとよく言われる。その説を踏襲すれば、第二次世界大戦前後の歴史は、連合国の都合のいいように作られた歴史認識に基ずくということになる。日本が真珠湾を攻撃したから日米戦争が勃発したのだ、と米国は主張し続けてきた。一方で、真珠湾攻撃に至らしめた原因は、米国による日本への過剰な政治的干渉、経済的抑圧にあるとする主張は歴史修正主義として退けられてきた。

広島と長崎への原子爆弾投下は果たして正当化できるのか?わずか1日で10万人の民間人を殺戮した東京大空襲国際法違反ではなかったのか?東京裁判は暗黒裁判ではなかったのか?

これらの問いかけに対し、すべてが戦勝国側によって都合の良いように解釈されてきた。広島と長崎への原爆投下がなければ日本は降伏しなかった。東京大空襲は戦争を早く終結させるための正当な作戦行動であった。世界征服を企んだ日本政府を人道の立場から裁いて何が悪い。今でも米国の平均的な一般人に問いかけたら、それに似たような答えが返ってくるだろう。それ以外の見解は歴史修正主義と呼ぶようにほとんどの米国人は洗脳されている。

しかし、歴史の真実のみを語らんとする使命感を持つ米国人が、少数ではあるが存在することを我々は知っている。第31代米国大統領フーヴァー氏もその一人である。その他にも日米開戦の責任はルーズベルトにあると主張する声が、米国の側からぽつりぽつり聞こえるようになってきた。

まだまだ少数だが、彼らの声を聞いて史実に基づく歴史の真実を知れば、歴史修正主義とは本当のところ何を意味するか、理解できるはずである。情報過多の現代を生きる人間にとって大事なことは、情報の荒波に揉まれて真実に至る道を見失わず、誰にも憚ることなく、ただひたすら真実を追求することではないだろうか。『Freedom Betrayed』はそのことを教えてくれるに違いない。

真実は人間を自由にする、と言われるが忍耐が要求される。残された時間は短い。

 

日米地位協定は日本の恥

日本の政治は売国奴政治であると断言できる。独立国家の体裁はしているが、内実は外交も国防も米国に追従する従属国家であるに過ぎない。そのような条件下で行われる政治を売国奴政治と呼ぶのだ。

その売国奴的性格をよく表しているものの一つに日米地位協定がある。米国は米軍基地を置く他国との間で地位協定を締結しているが、他国のそれと比較することで、日米地位協定がいかに不平等であるかがわかる。

ドイツとイタリアは先の大戦で日本と同盟関係にあった国である。日本同様、米国の敵国であった。

戦後、米国は戦勝国の権利として敗戦国に対し、特に軍事面で差別的扱いを施し抑圧してきた。ドイツ、イタリア、日本に戦後ずっと米軍基地を駐留させている目的の一つは、これらの国に本格的な再軍備を許さないためである。

特にドイツと日本は強力に抑え込んでおく必要がある。共に優秀な民族であり技術大国だから、抑圧の蓋を取り去ると再び米国を脅かす軍事大国になる恐れがあるからだ。

ドイツと日本にだけは核兵器を持たすわけにはいかない。米国が中心となって進めた戦後の核不拡散条約の最大の眼目はそこにあった。しかし、このNPT体制という大状況下で、地位協定に目を転じると、実に不可解な現象の存在に気がつく。

日米地位協定は、ドイツやイタリアの対米地位協定と比較してあまりにも見劣りのする粗悪品であるということ。例えば、米軍の活動に対して、日本は国内法を適用できないが、ドイツとイタリアは自国軍と同じ法規制が適用される。また日本政府と基地所在の自治体が米軍基地内に立ち入ることはできないが、ドイツ政府と自治体は立ち入り可能であり、緊急時は事前申請する必要すらない。イタリアの場合は、イタリア軍に米軍基地の管理権がある。

等々、ドイツとイタリアと比較して、日米地位協定がいかにお粗末な不平等条約であるかがよくわかる。問題は何故そうなっているかだ。黄色人種と白人という人種偏見もあるだろうが、一番大きな原因は日本政府の主体性の欠如ではないか、と思われて仕方ないのだ。外交も国防も米国に追随することからくる主体性の欠如。

日本と違い、ドイツもイタリアも自主外交を展開している。ワシントンの顔色を気にすることなどないのだ。地位協定も自国民を守ることを優先して何度も改定している。ちゃちな運用改善を安倍首相自ら自慢してみせる日本とは、その政治姿勢に大きな違いがある。

そう、日本は米国のポチにすぎない。世界中がそう思っている。だから英語圏のメディアで日本の政治が報道される回数は極端に少ない。米国の陰に隠れて存在感があまりにも薄いのだ。

何故日本の政治家は米国をこれほどまでに恐れるのだろうか? 実に不可解である。ただはっきりしていることは、米国に対して堂々と物が言える政治家が現れない限り、日本の衰退は誰にも止められないだろうということである。

「 日米は100%ともにある」と安倍首相は断言した。一国の行政のトップが言ってはならない言葉である。日本は100%米国に従属します、と宣言したのに等しいからだ。頭の悪い安倍晋三が率いる売国奴政治が続く限り、日本に明るい陽射しがさすことはないだろう。

「 この国はもはやダメなんじゃないですか」(故西部邁談)

 

 

今上天皇のメッセージ

学童疎開の為、本土に向かった対馬丸は米潜水艦の魚雷攻撃によって大破し沈没した。まだ十代だった皇太子(今上天皇)は疎開先でこの事を知り衝撃を受ける。以来、対馬丸事件が皇太子の記憶から消えることはなかった。
沖縄は1972年に本土復帰した。その年の7月、明仁皇太子はひめゆりの塔に慰霊に向かわれた。献花される際、事件が発生した。皇太子めがけて火炎瓶が投げられ、献花台上で破裂炎上したのである。幸い、皇太子も皇太子妃もご無事であった。犯人はヘルメット姿の過激派だった。
当時の映像を見ると、人々が大混乱する中で、〜さん、大丈夫ですか、と案内役と思われる人を気遣う美智子皇太子妃の声を聞くことができる。明仁皇太子もさほど取り乱した様子は見られない。
この事件があった夜、皇太子は談話を公表した。
『 払われた多くの尊い犠牲は、一時の行為や言葉によってあがなえるものではなく、人々が長い年月をかけてこれを記憶し、一人一人、深い内省の中にあって、この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません』
この談話を聞いて心動かない県民はいないだろう。皇室に異議を唱え、直接暴力で訴えた犯人達の背後に、沖縄が歩んで来た苦難の歴史に想いをかける明仁皇太子。
その想いに偽りがないからこそ、目の前で火炎瓶が破裂炎上したくらいでたじろぐことはなかったのだ。
明仁皇太子は、幼い頃疎開先で対馬丸事件を知らされて以来、同じ年頃の学童疎開の悲劇に心を痛め、成長するに伴い沖縄のことを学び、想いを深めて来られたに違いない。そうでなければ、談話から滲み出る誠実さを理解することはできない。
打算のかけらも感じられない明仁皇太子の誠意溢れる一言一句は、皇室に対する沖縄県民の蟠りを溶かす象徴天皇になられる前の最初の意思表明となったような気がする。
あの時の談話に少しも嘘がないのは、天皇に即位してから何度も沖縄を訪れ、誠意に満ちたお言葉を残されてきた事実が証明している。
今上天皇は、七十歳の誕生日の記者会見で、次のように話された。
『私にとっては沖縄の歴史をひもとくということは島津氏の血を受けている者として心の痛むことでした。しかし、それであればこそ沖縄への理解を深め、沖縄の人々の気持ちが理解できるようにならなければならないと努めてきたつもりです』
1609年に島津氏が琉球に攻め入り、以来およそ260年間琉球を支配した。琉球・沖縄にとって苦難の歴史の始まりだった。
今上天皇は、沖縄の歴史をよく勉強し知悉しておられる。その上で「 島津氏の血を受けている者として心の痛むことでした」と述べておられる。なんと言うお方だろう。俗世の打算的世界から隔絶していなければ、このような純粋な感想が生まれることはない。
沖縄の歴史に打ち込まれた棘の先から滲み出る毒を溶かすことができるのは、天皇陛下のお言葉のみなのか?我々俗世に生きる人間はあまりにも打算的すぎる。打算が働くと、物事の真の解決はあり得ない。濁った解決で妥協せざるを得ない。それが俗世に生きる我々の宿命だ。
今上天皇は、六年前の誕生日の記者会見で、次のように語っておられる。
『沖縄は、いろいろな問題で苦労が多いことと察しています。その苦労があるだけに日本全体の人が、皆で沖縄の人々の苦労をしている面を考えていくということが大事ではないかと思っています』
今上天皇のお言葉は、共生の思想そのものだ。日本のどこかに苦労をしている人々がいれば、日本全体でその人々のことを考える。苦労を分かち合い共に生きる。
天皇陛下は、多分広大な米軍基地に苦しむ県民の苦労を語ったのだと思う。陛下は政治的発言はなさらない。だから米軍基地と直接的に言及するのではなく、間接的に県民の苦労と述べておられるのだ。
政治的発言ではないから、陛下の想いが頭の悪い安倍晋三に伝わるはずはない。県民の大多数が反対しているにもかかわらず、辺野古新基地を強行する安倍売国奴政権。
天皇皇后両陛下は、日本列島最西端の島与那国島を始めてご訪問されて、今日、沖縄空手会館で空手の演武をご覧になられてから東京の御所へお帰りになられた。
今回がおそらく沖縄最後のご訪問になるだろうと言われている。なんだか少し寂しい気もするが、天皇皇后両陛下のご健康を心からお祈りしたい。
今上天皇が残された沖縄に対する数々のメッセージを胸に秘めながら。

 

 

又吉(ヒジャイ)の低級民主主義を批判する11

又吉(ヒジャイ)が性懲りもなく民主主義を曲解して自慢している。自分は民主主義思想家だと言わんばかりのポーズは、彼の本質を知る人間にとっては、哀れな強がりにしか見えない。ぼくは当ブログで彼のデタラメ民主主義論をこれまで何度か批判してきた。今回は去年の6月以来となる。実は、その間何度も彼のデタラメな言論を批判する誘惑に駆られたのだが、彼の論調があまりにもレベルが低いので、貴重な時間を費やしてまで批判することもあるまいと自重してきた。しかし、やはり、この男がいい加減な言論活動を続ける限り、折を見て批判しなければならないだろうと思い直して、久しぶりに批判を試みることにした。
又吉(ヒジャイ)は、19日付琉球新報社説「前川氏の授業調査 国は『不当な支配』やめよ」に理不尽な難癖をつけている。
彼の論究は長すぎて全文掲載するのは億劫なので、論旨から外れない程度にその中の何ヶ所か引用しながら、彼特有の偏屈な思考傾向を指摘して批判のメスを入れることにする。

≪ 前川氏は文科省の組織的天下り問題で引責辞任しただけではない。出会い系バーに通っていたことを認めた人物である。そんな前川氏が名古屋市立中学の授業で講演したのである。大人たちを相手にした講演ならいいが、中学生に講演をしたのである。中学生に文部官僚のトップでありながら組織的天下りをやり、しかも出会い系バーに通った人物を講演させるなんてとんでもないことである。ところが琉球新報は、国は「不当な支配」をやめよと前川氏の講演を擁護したのである。頭がおかしくなったとしか思えない。≫
又吉(ヒジャイ)は前川氏が以前犯した過失を咎めて、大人相手の講演なら許されるが、中学生相手の講演は許されないと言って断罪している。前川氏の講演の内容が問題にされるべきはずなのに、講演者の過去の過失を非難して講演する資格はないと断言しているのだ。
これはどう考えてもおかしな理屈である。
何故なら、組織的天下り斡旋問題に関して前川氏は懲戒(停職)処分を受けて、この問題に対する禊は済んでいるからだ。にもかかわらず、又吉(ヒジャイ)は前川氏の過去の過失を引きずり回すことで、懲戒処分で幕が引かれたはずの正当性を否定しているのだ。
たとえ過去の過失は記録に残っても、禊ぎの済んだ人間が社会で生きていくためには、記録に拘束されないことが保証されなければならない。
それを保証する社会システムが民主主義である。又吉(ヒジャイ)は民主主義を形式的に理解するだけで、民主主義の本質を理解していない。又吉(ヒジャイ)は民主主義から遠いところにいる。
前川氏が出会い系バーに通った過去も又吉(ヒジャイ)は非難しているが、しかし、報道で知る限りでは、前川氏は風俗産業の実態を調査する目的だったと述べていた。前川氏の言い分を信じるか否かは、判断する側の勝手だが、ぼくはそんなことは大した問題ではないと思う。
中学生を前に講演する時に問題とされるべきは、講演の内容そのものであって、講演者の経歴は関係ない。又吉(ヒジャイ)のように講演の内容に言及しないで、講演者の経歴をあげつらって非難するのは卑劣な人間のすることである。

≪ 衆議員は国民の選挙で選ばれた国民の代理人である。議員が国民に代わって中学生に講演する資格のない人物が講演したことについて文科省に調査以来するのは当然である。このような議員による政治介入はどんどんやるべきである。
議員は国民に選ばれた人物である。しかし、校長は国民に選ばれてはいない。そのような校長が学校では独裁的な地位にある。≫
これは驚天動地の大変な問題発言であるが、同じような酷い発言を繰り返してきた又吉(ヒジャイ)の言論だと割り切れば、少しも不思議なことではない。
とは言っても、この発言はあまりにもむごすぎる。文章を読んで、全身が凍りつき思わずぶるっと震えてしまった。議会制民主主義というものを理解する能力が、又吉(ヒジャイ)は初歩の段階で止まったままだ。
選挙で選出された国会議員が、一国民が中学生に講演したことについて、文科省に調査依頼するのは当然であり、この種の政治介入はどんどんやるべきだと強調しているが、その論拠は、議員は国民に選ばれたからという単純な理屈だ。しかも前川氏を招聘した校長は国民から選ばれたわけではないので、学校では独裁的な地位にある、と頭が変になりそうな屁理屈を展開している。
この男をまともに相手にすると、こちらの身がもたないので、常識的判断にたち帰る必要がある。国会議員が国民による選挙で選ばれたからと言ってなんでもやって良いはずがない。そんなことを認めたら、それこそ独裁政治に扉を開くことになる。国会議員の役割は、国民のために働くことである。国民の活動を監視するために存在するのではない。むしろ国民としては、選んだ責任上、国会議員が間違った政治をしないかどうか、監視しなければならないのである。何故なら、彼らには立法権、行政権という権力が与えられているからだ。権力が暴走しないかどうか、絶えず監視する必要がある。
国会議員がまともな政治を行なっているかどうか、国民は監視する責任と義務がある。決してその逆であってはならない。
又吉(ヒジャイ)は何かにつけ独裁的という言葉を使いたがる。民主主義同様、彼のお気に入りの言葉だ。国民に選ばれていない校長が学校で独裁的地位にあると言うなら、会社の社長だって独裁的地位にあると言える。
そして、学校も会社も我が国には無数に存在する。とすれば、又吉(ヒジャイ)の論理に従えば、我が国は学校も会社も国民が選んだのではない独裁者が牛耳る世にも不思議な独裁国家ということになる。
又吉(ヒジャイ)の主張が論理破綻していることは、誰の目にも明らかだろう。彼は議会制民主主義を少しも理解していない。その理解度は中学生以下だ。

≪ しかし、上井校長は、
「何かした人は絶対にだめだとは、人権教育の上でもしたくない。過去の行為を切り離して考えた」
といって前川氏に講演をさせた。前川氏のやったことは「何かした」ではすまされないことである。上井校長がいう過去の行為とは、2017年1月20日に文部科学省における再就職等規制違反を受け文部科学次官を退任したことである。感動した三年前の講演よりも最近のことである。切り離すなら三年前に感動したことを切り離すべきである。最近のことを切り離しそれより前のことを優先された上井校長の説明には無理がある。中学校の校長として上井校長の判断は納得できるものではない。≫
又吉(ヒジャイ)は身勝手な性格の人間である。上の文章を読むと、それが良くわかる。上井校長は、三年前に聞いた前川氏の講演に感動した。だから自校の生徒達にも感動を分かち合えたらと考え、前川氏を招聘して講演してもらった。
そんな上井校長の善意を踏みにじって、3年前の感動を切り離すべきだと、又吉(ヒジャイ)は平気で言う。冷たすぎる。
3年前の感動よりも最近の過失を優先せよ、と言う又吉(ヒジャイ)は人間の善意が理解できない感性の貧弱な、単なる屁理屈家だ。

≪ 戦後の国家はその反省を踏まえ、国民主権によるシビリアンコントロールの政治になった。
教育もシビリアンコントロール下に置かれ政府以外の『不当な支配に服することなく』と規定した。だから、教育権の独立をうたっているのではない。国民の代表である政府のシビリアンコントロール下に置くと規定したのだ。
国民に選ばれた議員によって、国会で教育に関する法律を制定し、法律に則って文科省が全国の教育を指導している。教育者たちの行き過ぎた勝手な教育を戒め、あるべき教育を指導していくのが文科省である。新報のように「教育の独立」を主張して自分勝手な教育をするのは許されないことだ。自分勝手な教育を戒めるのも文科省の役目である。≫
上の文章も驚天動地、怖るべき内容である。教育もシビリアンコントロール下に置かれ、とは一体どう言う意味だ? この場合のシビリアンとは一体誰を指しているのだ?
又吉(ヒジャイ)君、言葉は正確に使いなさい。
シビリアンコントロールとは、文民が軍部に対して最高指揮権を持つこと、という意味だろう。その解釈でいくと、教育を政府のシビリアンコントロール下に置くという又吉(ヒジャイ)の定義は全く意味をなさないばかりか、危険でさへある。
又吉(ヒジャイ)の考え方は、全体主義へ通じる危険性を内包している。彼は民主主義者を装っているに過ぎない。状況さへ変われば容易に全体主義へ流れる体質の持ち主だ。上の文章を読めば、そう思わざるを得ない。

≪ 新報社説
・・・多様性や異論を認めない国家中心主義が今回の問題の土壌にあるとしたら、警戒を強めなければならない・・・
だから、官僚トップが絶対にやってはいけない組織的天下り斡旋をやり、出会い系バーに通っていたことを認めた前川氏を中学生相手に講演させたことを新報は調査するなというのか。
中学生相手の講演をやる資格を問われる前川氏を校長の独断で講演させたことを調査もしないというのなら、日本の中学校は校長の独裁学校になってしまう。民主主義国家の日本であるのに中学校は独裁学校であるということは許されないことである。新報は中学校が校長の勝手ができる校長独裁学校にしたいのか。≫
又吉(ヒジャイ)は民主主義者を自認しながら、主権在民と謳われた憲法の国民よりも、国民に選ばれた政治家を上位においてものを考えている。
教育者を疑い、中学生の前で講演するなんの権限も持たない一国民を疑い、教育現場の在り方に疑問を呈し、返す刀で教育現場に政府が介入することになんのためらいも感じない。又吉(ヒジャイ)と言う人間は、権力者寄りの危険な男、主権在民の敵である。

≪ 前川氏の講演を聞いた中学生がグーグルで前川氏のことを調べる可能性は高い。前川氏に講演を依頼するなら、中学生が前川氏のことをネットで調べることを想定するべきである。新報は前川氏の講演は、天下り加計学園がテーマではなく、自らの不登校経験や学ぶ力の大事さ、多文化共生社会など、中学生に生き方を説く内容だったからいいと判断しているが、中学生がネットで前川氏のことを調べることを想定していない。
前川氏の講演に感動した中学生がネットで調べて、前川氏が官僚のトップの地位にありながら天下り斡旋の罪で文科省を辞めさせられ、しかも出会い系バーに入り浸り買春行為をしていたことを知ったら、中学生は前川氏だけでなく上井校長への不信感、学校や大人への不信感が生まれていくだろう。
新報は学校教育の自主性を理由に前川氏の講演に賛成しているが、中学生の教育はそれでいいのだろうか。≫
又吉(ヒジャイ)は今の中学生を軽く見ている。というよりも軽蔑していると言ったほうがいいかもしれない。上の文章は如実にそのことを語っている。
前川氏の講演を聞いて感動した中学生が前川氏のことをもっと知りたいと思い、ネットで検索したと仮定しよう。そして又吉(ヒジャイ)が言うように、前川氏が現役の頃の懲戒処分と出会い系バー通いの経歴を見たとする。その時、確かに中学生はショックを受けるに違いない。標準的基準で考えるならそういうことになる。
しかし、もう少し探究心のある生徒なら、もっといろいろなことも検索するはずだ。
現役の頃に残した前川氏の立派な業績、退官後、厚木市福島市の自主夜間中学で、週一回講師を務めている活動などを知るかもしれない。
「 人はいくつになっても学ぶ権利があり、学べる手立てが講じられるべきだ。夜間中学は義務教育の最期のよりどころである」として、夜間中学の拡充を訴えている前川氏を発見する可能性だってあるだろう。
それらの事をネットで知った中学生は、前川氏を人間としてどう評価するだろうか?
生徒一人一人違うだろうが、ぼくは、彼らが肯定的に評価してくれると信じたい。
人間を一面だけから捉えるのではなく、全体像を見て判断する。今の中学生にこのくらいの判断力は備わっていると信じたい。
又吉(ヒジャイ)は人間を一面だけ捉えて、そこに現れた欠点を強調し、全人格を否定する方向に走る。そして、そのような過去に過失のあった人間には中学生相手に講演をする資格はないと糾弾する。ネトウヨに共通する有無を言わせぬ排除の論理だ。これでは社会が歪み、健全な教育が育つことはない。成長著しい中学生諸君に排除の論理を押し付けることをしてはいけない。

今回の文部科学省による前川喜平前事務次官の授業内容報告要請は、政治家の文科省に対する働きかけが発端である。自民党赤池誠章参議院議員と同じ自民党池田佳隆衆議院議員。赤城氏は自民党文科部会の部会長、池田氏は部会長代理。この役職にある二人の議員が文科省に個別の授業内容について問い合わせること自体、異常なことである。
池田議員は安倍首相チルドレンと呼ばれても良いような人物だ。そして前川前事務次官加計学園問題で安倍政権を批判したことを考えると、今回の問題の構図がはっきりしてくる。安倍政権を批判した前川喜平はけしからん、八王子中学校でどんな行動したのか調べる必要がある!というわけだ。
しかしその結果はなんともお粗末である。一民間人に過ぎない前川氏が中学校で講演した事実の他に、なんら特別なものは何一つ出てこなかったのである。
後に残ったのは、赤池議員と池田議員の行き過ぎた行動だけである。その生き過ぎた行動を琉球新報が社説で批判した。その社説を又吉(ヒジャイ)が民主主義の印籠を振りかざして批判した。しかし彼が振りかざす印籠は偽物である。
笑いたくても笑えない又吉(ヒジャイ)のあまりにも的外れで低級な民主主義論を聞かされるとは、もういい加減にしてくれよ、と言いたくなるが、しかし、彼が沖縄を貶める言論活動を続ける限り、折を見て批判のメスを入れ、さらに徹底的に叩いてやる。


 

政府、代替案応じず

昨日のブログで、辺野古新基地の代替案についての翁長知事の発言を批判したが、実は今日、切り抜き記事を整理していて見落としがあることに気づいた。昨日参照した記事は、新報の3月17日付の記事だが、その2日前の15日付同紙に知事の代替案発言が載っているのを見逃していたのだ。17日の記事と内容が多少異なるので検討してみたい。

15日付の記事によると、翁長知事は米国ワシントンでのシンポジウム後の会見で次のように語っている。

「 副知事が柔軟性を持って(辺野古以外の)いろんな案について政府の話も聞いた。ただ残念ながら(政府が)辺野古唯一という姿勢が変わったことは一度もなかった」

「 シュワブやハンセン内にヘリポートをという話が少しでも出たら、地元は『とんでもない』となる。県民の思いもばらばらになり、政府は高みの見物をする。県民の心を割る。慎重にやらないといけないことははっきりしている」

官房長官や副長官、防衛大臣と1、2時間しっかり議論させていただく場をつくっていただかないと、(県が)代替案を出すことはできても、(日米)両政府がそれをどう議論してくれるのか、そこがポイントになると思う」

以上の発言からわかることは、辺野古以外の代替案について、県側は政府と何らかの形で話し合ったことがある。提案した具体的中身には触れていないが、ここで知事はハンセン内という言葉を使っている。続いて「シュワブやハンセン内にヘリポートをという話が少しでも出たら、 地元は『とんでもない』となる。」と語っているところを見ると、ハンセン内移設(これは昨日紹介した『この一冊ですべてがわかる普天間問題』の著者小川和久氏の構想)を提案することには消極的で、政府との話し合いでこの言葉が出たかどうか、確証はつかめない。とは言うものの、翁長知事がハンセン内という言葉を使っているところをみると、個人的に関心を持っていることは間違いないと言えそうだ。

勝手な推測だが、知事は小川氏の本を読んだのではないだろうか。ぼくが3年前に知事宛に送った本か、あるいは違う筋から入手したものかどうかは問題ではない。もし知事が読んだとすれば、小川氏の具体的かつ現実的な構想に心が動いた可能性は高い。

ただ残念なことに、上の発言だけで判断すると、知事はハンセン内移設構想に積極的ではない。県内移設だからという理由で県民が反対することを恐れている。

しかし、知事に強く要請したい。小川氏のハンセン内移設構想が実行に移されれば、2、3年内に移設は完了する。現行のシュワブ案のように大浦湾の美しい貴重な海も砂浜も埋め立てる必要がない。工期は短く、建設費(日本人の血税)も安く抑えられる。

大田知事に普天間飛行場返還を政府に要請するよう促した小川和久氏は以来ずっと、普天間問題に直接的間接的に関わってきた人物だ。そして氏のハンセン内移設構想を、政府は一時期容認する姿勢を示したことがあった。しかし、時の官房長官梶山静六菅義偉官房長官の親分)がボツにしたのだ。

政界は泥沼の世界だ。そこで跳梁跋扈する既得権益を重視する政治家が蠢いて、普天間問題を解決する最善・最良の小川構想を葬り去ったのだ。前近代的政党自民党の厚い壁を突き崩すのは容易なことではない。

官房長官や副長官、防衛大臣と1、2時間しっかり議論させていただく場をつくっていただく」ことを翁長知事は希望しているようだが、その実現のために果たして知事はベストを尽くしたことがあるだろうか? 翁長県政が「 あらゆる手段を使って」政府に対し、代替案を説明するために1、2時間の交渉時間を要求したとは思われない。

翁長知事に辺野古に代わる代替案を政府に突きつける気持ちが本当にあるなら、あらゆる人脈(小川氏を含む)を動員駆使して、政府の説得にあたり、説明に充分な時間を確保すべきだろう。と同時に、県内移設だから県民が反対するであろうなどと、説明もしない前から恐れるのではなく、ハンセン内移設は辺野古移設に代わる最善最良の政策であることを、県民に誠意を持って説明し、県民を説得するべきではないか。

そんなこともできないようでは、オール沖縄の名前が泣くぞ。

 

翁長知事代替案に慎重姿勢

今朝の琉球新報は、翁長知事の辺野古新基地に代わる代替案の発言について報道している。

翁長知事の発言。「(日米両政府にとって)現行案よりも厳しい案を出しても(両政府が)OKするわけない。代替案が出るということは譲歩であり、県民がまだそれを理解するような状況ではない。代替案を出すからには妥協が大事だが、県民が妥協する要素は今のところない。私の政治的なセンスからすると、権力の弱い沖縄から、(日本政府に対し)これでどうかと話をして物事が進むような、良くなるようなことは、今のところ見えない」

この翁長知事の発言は、知事の心境を読み解くうえで、又、知事の政治手法を理解するうえで非常に重要と思われる。まず翁長知事の頭の中に代替案があるのは間違いない。しかし、その代替案が具体的にどのようなものかについては言及していない。にもかかわらず、ここが大事なポイントだが、「 代替案が出るということは譲歩であり、県民がまだそれを理解するような状況ではない。代替案を出すからには妥協が大事だが、県民が妥協する要素は今のところない。」と言っている。

この発言の意味するところは、< 私は代替案を持っているが、それはキャンプシュワブに代わる県内移設である。県内移設(キャンプハンセン?)である以上、今まで主張してきた県外移設から一歩後退した譲歩であり、県民は納得しないだろう。私は政治に妥協はつきものだと思っているが、今のところ県民が政治的妥協を認める要素は見当たらない。>

というふうに、ぼくは解釈する。そして問題なのは、この場合の県民とは一体誰のことを指しているのか、はっきりしないことである。もし一般的な意味での有権者とすれば、翁長知事の発言はおかしい。何故なら、代替案をこれまで一度も示したこともないのに、県民が譲歩ないし妥協を認めないだろうと勝手に決めつけているからだ。これはおかしい。そこでぼくなりに解釈すると、翁長知事のいう県民とは、実は県政与党の議員達のことではないか、とりわけ所謂、革新系と呼ばれる議員達を指しているのではないか。革新系議員なら、県内移設に反対するだろう。安全保障に関しては、視野の狭い連中だから、さもありなん。

この仮説が事実なら、翁長知事に同情すると同時に残念と言わざるを得ない。革新系と保守系の合流は、アイデンティティーの強い沖縄でもやはり無理なのか。翁長知事の政治的力量に期待していたのだが。勿論、以上述べてきた事は、すべてぼくの独断的解釈にすぎない。

ついでに言わせてもらうなら、翁長知事の次の発言はいただけない。「 私の政治的なセンスからすると、権力の弱い沖縄から、(日本政府に対し)これでどうかと話をして物事が進むような、良くなるようなことは、今のところ見えない」

翁長知事と雖も、このような発言は慎むべきだろう。と言うより、これは敗北宣言に等しい、と言わざるを得ないからだ。安倍内閣がどんなに分からず屋の強権的政権としても、県民から30万票も頂いた沖縄県知事としては、代替案があれば、政府に対し堂々と提案するべきである。そして政府から拒否されたならその理由と経過を県民に明らかにすれば良いだけの話だ。

それよりも何よりも、奥港と本部港の使用許可を早急に取り消すべきだろう。カヌーで日々、命がけで必死に抗議を続ける県民に対し、後ろから石を投げるようなことをしてはダメだ。今すぐにでも許可を取り消せ!